プロローグ 第十五話

お腹が痛いと訴えてから、あっという間に一週間が経った。その間、わたしは一度も学校に行けていない。

母は、わたしが体調を崩した原因が、キーホルダーを壊されたことだと理解してくれていたから、わたしを責めることはしなかった。毎日、熱心に食事を用意し、穏やかな声で「今日はどうする?」と尋ねてくれる。わたしは、その母の優しさにしがみつくために、「まだちょっとお腹が痛い」と、嘘を重ね続けた。

休んでいる間、わたしは、どんどん普通でなくなっていっていることを感じていた。教室に行けない自分、友達に嫌われた自分、そして、身体の不調を装って逃げている自分。わたしは、もう昔の「普通」の自分には、二度と戻れない気がした。

そして、一週間後の月曜日、今日。


ぶるるるる


リビングの電話が鳴り、母が受話器を取ると、担任の先生からの電話だった。

「南條さん、大事なテストがあるから、学校に来なさい」

電話の向こうから、先生の、いつもの怒鳴り声のような語調が聞こえてくるような気がした。母に電話しているのに、わたしがいることも知っているのだ。

母は、電話を終えると、深刻な顔でわたしに向き直った。

「美和ちゃん。先生から連絡があったの。明日の火曜日と、木曜日に、大事なテストがあるんだって。これは、受けないといけないみたいよ。体調はどう?」

わたしは、胃が重くなるのを感じた。

正直に言わなければならない。わたしはもう、キーホルダーがないと、あの学校で一歩も動けない。あの先生たちの視線に、耐えられない。

「わたし、学校に……行きたくない」

そう言えれば、母はまたわたしを休ませてくれるかもしれない。

しかし、わたしがもじもじしていると、母は、わたしを心配するような、柔らかな声で言った。

「美和ちゃん。わかってる。あのキーホルダーのことが、まだ尾を引いているんだよね」

母は、わたしがキーホルダーを手放せないほど精神的に追い詰められていることまでは知らない。ただ、あのウサギが「大事なもの」だったと認識しているだけだ。

「だからね、ママ、同じものを探してきたのよ」

母は、そう言って、小さな紙袋をわたしに差し出した。中には、以前、先生に捨てられたのと全く同じ、白いウサギのキーホルダーが入っていた。

「昨日、デパートをいくつか回ったのよ。ほら、これで大丈夫でしょう?」

母は、優しく微笑んだ。

わたしは、手のひらに乗せられた、真新しいウサギのキーホルダーを見つめた。それは、確かに前と同じものだ。けれど、わたしの中で、それは変わりにはならなかった。前のキーホルダーには、母がわたしを優しくしてくれた日の記憶と、わたし自身の心の支えとして機能した「力」が宿っている。この新しいキーホルダーは、ただの、白い、何の記憶もないぬいぐるみだった。

「これで、もう安心だね。明日と木曜日のテストは、ママが送っていくから、頑張って行ってらっしゃい」

母は、わたしが「ただのお腹の痛み」と「大切なものが壊された悲しさ」で休んでいるだけだと思っている。新しいキーホルダーがあれば、もう学校に行けると、単純に信じているのだ。

わたしは、新しいキーホルダーを渡されたことで、「もう逃げられない」という重圧を感じた。

「……うん。わかった」

わたしは、結局、母に「行きたくない」とは言えない。

火曜日。

母の車で学校へ向かい、わたしは新しいキーホルダーをランドセルにつけて登校した。

「校則違反じゃないんだから、バレなければ大丈夫よ。何か言われたら、すぐに外しなさい」

母は、そう言って、わたしを校門の前で降ろした。母は、わたしがこのキーホルダーを手放せないという、心の切実さには、やはり気づいていない。

母にとっては、それもわたしの気休めのための道具なのだ。

わたしは、自分の教室ではなく、職員室の隣にある別室で、一人でテストを受けることになった。

けれど、わたしには、静かなのが逆に安心できない。教室のざわめきや先生の怒鳴り声は物理的に届かないけれど、一人になったことで、かえって頭の中に美里たちの冷たい嘲笑が蘇って、キーホルダーを壊された時の衝撃が鮮明にフラッシュバックした。集中しようとドリルに目を向けるたび、保健室の先生の視線が目に焼き付いて、問題文が頭に入ってこない。

わたしは、テスト用紙の上で、震える指を止めることができなかった。

テストが終わる頃、コンコン、と扉がノックされ、保健室の先生が入ってくる。

体がかたまる。先生の顔から表情が読み取れなくて、またキーホルダーを壊される気がして怖い。

「南條さん。テスト、お疲れ様」

先生は、形式的な挨拶をすると、すぐにわたしのランドセルに目をやった。

わたしは、咄嗟にランドセルを背中で隠そうとしたが、遅かった。ファスナーの金具に揺れる、新しい白いウサギに、先生の目が固定されている。


先生の眉が、僅かにぴくりと動き、低い声で言った。

「あなた、また同じものをつけているのね。あなたのお母様からも、抗議の電話がありましたが、これはこの学校の教育環境にはふさわしくありません」

「でも……校則違反じゃないって……」わたしはなんとか、小さな声で反論した。

先生は、わたしが発した言葉なんて耳に入っていないように、冷たく言い放った。

「いいですか。あなたの事情は、お母様から聞いています。でも規則に書いていなくても、生徒指導上、不適切なものは不適切です。これは、あなたのためでもあるのよ」

先生の「あなたのため」という言葉は、美里たちの「優しさ」と同じくらい、わたしを傷つける。

先生は、ウサギに手を伸ばさなかったけれど、冷たい目でわたしを見つめ、釘を刺した。

「木曜日にテストを受けに来る時までには、必ず外してきなさい。いいですね」

わたしは、それ以上、抵抗する言葉をいえなかった。

「……はい」

わたしは、小さく頷くしかできない。先生は、満足したように扉を閉め、去っていった。

別室に残されたわたしは、再び孤独に襲われる。わたしを支えるために買った、この新しいキーホルダーも、結局は「不適切なもの」として、わたしから引き離される。

わたしは、木曜日までには、必ずこのキーホルダーを外さなければならない。

それでも、わたしには、外すことができない。これを外したら、あの先生の怒鳴り声や、真理や彩乃の冷たい視線に、また心が壊されてしまう。

わたしは、ランドセルに揺れるウサギを、手のひらで強く握りしめた。

木曜日までには、母に言わないといけない。


「キーホルダーがないと、わたしは学校に行けない」

正直に言ったら、もしかしたら母の穏やかな優しさを、再び雷雨のようなヒステリーに変えてしまうかもしれない。その恐怖が、現実の重さになって、わたしの胃を重くした。

あと二日。わたしは、その二日間で、母の怒りか、学校の恐怖か、どちらを選ぶか、決断しなければならなかった。わたしに残された道は、どちらも絶望しかなかった。

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