プロローグ 第十二話

わたしは、新しい私立の小学校に転入した。

新学期。母は、誇らしげにわたしに新しい制服を着せ、真新しいランドセルを背負わせた。母の視線は「もう問題起こさないでしょ」という希望に満ちていて、わたしは新しい学校で絶対に「問題」を起こしてはならないという、新しいプレッシャーを感じた。

新しい学校は、以前の公立校とは全部が違っていた。校舎は清潔で、生徒たちの制服はきちんと整えられている。一クラスの人数は少なく、教室は静かだった。

しかし、わたしが一番驚いたのは、新しい担任の先生だった。

先生が怖い。

前の学校の教頭先生は、母の前ではへりくだり、わたし一人になると冷たく責めてくる、陰湿な怖さだった。だが、今の担任の先生は、もっと直接的で、暴力的な怖さを持っている。

彼女は、授業が始まるとすぐに、些細なことで生徒を怒鳴りつける。少しでも質問に詰まったり、自分の意図しない答えが返ってきたりすると、顔を真っ赤にして叫ぶのだ。

「そんなこともわからないの!何度言ったらわかるの!」

その声を聞くたびに、わたしは反射的に体が強張る。それは、母のヒステリーの怒鳴り声に酷似していで、より怖かった。

前の学校の先生たちは、事なかれ主義で、美里たちのいじめを無視した。けれど、今の先生は、自分に都合が悪いとすぐに怒る。彼女にとって、生徒は「教育」の対象というよりは、「自分の権威」を証明するための道具のように見えた。先生の授業は、常に緊張と恐怖に満ちていた。わたしは、美里たちの悪意から解放された代わりに、新しい支配者の下に置かれたのだ。

それでも、新しい学校では、わたしはすぐに友達ができた。

転入初日、美里たちの影におびえていたわたしに、声をかけてくれた子が二人いた。

一人は、真理(まり)。もう一人は、彩乃(あやの)。

二人は、すぐにわたしと仲良くなった。いや、正確には、わたしが「普通の子」と仲良くなれたわけではない。わたしが友達になったのは、やはり「普通じゃない子」だった。

真理は、いつも教室で一番明るく振る舞っている。誰よりも大きな声で笑い、先生の質問にも一番に手を挙げる。その笑顔は、太陽のように眩しい。

けれど真理の明るさは、わたしが母の前で「問題のない、良い子」を演じようとする時と同じ、無理をして作った明るさだ。その笑顔の奥には、いつも深い緊張と、何かを必死で隠そうとする影が潜んでいる。

真理が先生に怒鳴られた後、わたしにだけ聞こえる小さな声で言った。

「…怒られちゃうと、私、ここにいる価値がないみたいに思っちゃうんだ」

その言葉を聞いた瞬間、わたしたちは同じ種類の痛みを知っているのだと悟った。真理は、「誰かに認められていないと不安」という、わたしと同じ孤独を抱えていた。わたしのように、無理して明るく振る舞うことで、自分の存在を維持しようとしている。

そして、もう一人の彩乃。

彩乃は、とても優しく、穏やかな子だ。でも、時々、急にぼーっとして、わたしたちの話が全く耳に入っていないような状態になる。辛いことや、ショックな出来事があると、彼女の意識は、ふっと遠い場所に飛んでいってしまうようだった。

一度、先生が彩乃にひどく感情的な怒鳴り方をした後、彩乃は、その日の午後いっぱい、わたしたちの呼びかけにも反応しなかった。彼女の目は、一点を見つめたまま、焦点が合っていない。

真理が不安そうに囁いた。

「まただ。彩乃、遠いところに行っちゃったんだよ。辛いことがあると、あの子、自分の心を置いてきちゃうんだ」

彩乃は、現実の辛さから逃れるために、自分の意識を体から切り離してしまう。それは、わたしが美里たちの悪意や、母のヒステリーから逃れるために、心を「無」にしようとするのと、似ているようで、もっと徹底した「乖離(かいり)」という逃避の形だった。

真理も、彩乃も、外見は普通の子だ。けれど、彼女たちの内側には、わたしと同じように、「壊れてしまった場所」や「傷ついて逃げ出そうとしている心」がある。

わたしが、前の学校で美里たちに嘲笑されたように、今のわたしも、結局は「普通じゃない子」なのだ。だからこそ、わたしは、普通の子たちではなく、真理や彩乃という、特殊な痛みを抱える子たちと、磁石のように引き寄せられてしまったのだろう。

わたしは、二人と一緒にいるのが嫌なわけではない。むしろ、わたしと同じように「無理をしている人」や「逃げている人」といると、ホッとする。美里たちの嘲笑がない分、遥かにましだ。

だけれど、毎日が辛い。

真理の過度な明るさを見ると、自分自身の偽りの笑顔を見ているようで疲れる。彩乃の虚ろな目を見ると、わたしもいつか、あんな風に現実から完全に乖離してしまうのではないかと恐ろしくなる。

わたしが、もし、美里たちにいじめられていなかったら。もし、母が、わたしに無条件の愛情を注いでくれていたら。もし、わたしが、もっと堂々と振る舞える「強い子」だったら。

そうしたら、わたしは、この学校や前の学校で、本当に明るくて、素直で、心に影のない「普通の子」と仲良くなれただろうか。

わたしは、教室の窓から、新緑の木々を見上げた。太陽の光が、その葉の間からキラキラと差し込んでいる。

わたしは、いつになったら、あの光の下で、何も気にせずに笑える「普通の子」に戻れるのだろう。

新しい環境に来ても、わたしはまだ、「いじめられっ子」という重い鎧を脱ぎ捨てられていない。真理や彩乃と一緒にいるこの時間は、わたしにとっての「保健室登校」のようなものだ。一時的に安心できるけれど、それは、わたしが「普通」から遠ざかっている証拠なのだ。

この新しい学校で、わたしは本当にリスタートできたのだろうか。それとも、ただ、「いじめられっ子」という役目を、新しい環境で、新しい仲間と、再び演じ始めただけなのだろうか。その答えを考えるのが、怖かった。

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