プロローグ 第十四話
わたしは、スクールバスを降りて、電車に乗り換える大きなターミナル駅まで来た。駅の喧騒が、遠くで響いている。
トイレの個室で、下校時間まで泣き続けた後、わたしは冷たい顔を洗って、重い足取りで教室に戻った。誰も、わたしがいなかったことに気づいていないようだった。わたしは、ランドセルのファスナーにキーホルダーがないことを確認し、そのまま無言でスクールバスに乗り込んだ。
バスの窓から見える景色は、すべてがぼやけて見える。わたしを支えていたものが壊されて、わたし自身も透明な抜け殻になってしまったようだった。
そして、乗り換えの駅に着いた時、わたしはもう一歩も動けなくなる。
「帰れない……」
帰宅のラッシュが始まる前の駅は、人々の忙しない足音と、電車がホームに入ってくる
家に帰れば、母に今日のことを話さなければならない。母に話せば、きっとまた先生に怒鳴り込み、わたしを心配するふりをして、自分のプライドを満足させるとおもう。そして、わたしはまた、母のヒステリーと、先生の冷たい視線の間に挟まれる気がした。
もう、そんな力は残っていなかった。
わたしは、倒れそうになりながら、駅の隅にある古い公衆電話にたどり着いた。
「もしもし?」
母の声は、ヒステリックでは無い時の穏やかな声だ。その声を聞いた瞬間、わたしは涙が溢れそうになったが、なんとか
「ママ……わたし……」
声が、喉に詰まって出てこない。話すのも辛い。母の穏やかな声が、わたしを責める
「どうしたの、美和ちゃん。電車に乗っているんでしょ?何かあったの?」
わたしは、思い切って、今日起こったことをなるべくわたしの気持ちに気づかれないように事実だけを伝えた。
「……保健室の先生に、キーホルダーを……壊された。校則違反じゃないけど、いけないって言われて……ゴミ箱に、捨てられた」
言い終わった後も、わたしの身体の震えは止まらなかった。キーホルダーは、ただのモノではない。わたしの心の支えだったのだ。
母の声は、怒りに変わる代わりに同情と心配の音を帯びた。
「なんなの!あの先生、なんて酷いことをするの!美和ちゃん、そんなことされたら、辛いに決まってるよね。わかった、美和ちゃん、そこにいて。ママが、すぐに迎えに行くからね。絶対に動かないで」
母は、すぐに電話を切った。わたしは、公衆電話の横のベンチに座り込み、母が来るのを待った。
母が車で迎えに来てくれた時、わたしはまだ、立っているのが精一杯だった。母は、わたしの顔を見るなり、すぐにわたしを抱きしめる。
時間が少したっても、わたしは平気になれなかった。
「可哀想に。美和ちゃん、よく頑張ったね。こんな酷い目に遭わせてママのこと許してね」
母は、美里たちにいじめられた時よりも、ずっと真剣にわたしを心配してくれた。わたしが、ただの「体裁のための存在」ではなく、「守るべき娘」として扱われている。
このことに、わたしはすこし安堵した。
わたしは、震えながら、母に言った。
「あの……キーホルダー、わたしが先生に注意されたのに、どうしても手放せなかったの……」
わたしは、自分が規則を破ろうとした事実だけはいえたけれど、その背後にあった「真理や彩乃に嫌われたストレス」や「先生の怒鳴り声への恐怖」についてはどうしても言えない。
母は、わたしを咎めることなく、ただ、わたしの背中をさすってくれた。
わたしは、今の状況で母に感謝して喜ばないといけないのに、そんな余裕を持てない。
夜、母は先生に電話をかけ、厳しく抗議したらしいが、わたしには詳しいことは話さなかった。ただ、「もう大丈夫だよ。あんな先生、美和ちゃんが気にする必要ない」とだけ言った。
わたしはそれでも、気にしないことをできない。わたしは、学校のことを考えるだけで、身体の震えが止まらなくなった。学校の廊下でキーホルダーを壊された光景が、何度もフラッシュバックする。
母は、立て続けに辛いことがあったわたしを心配して、食事の時も、テレビを見ている時も、優しく声をかけてくれた。
「明日も、無理しないでいいからね。もし辛かったら、休んでもいいのよ」
母は、そう言ってくれている。それは、わたしにとって何よりも優しい言葉だった。
しかし、わたしには、三日後の月曜日からもう学校に行けそうにないことを、どうしてもはっきり言えないでいた。
母は、わたしに「休んでもいい」という選択肢を与えてくれている。それは、母の「優しさ」だ。もし、わたしがこの「優しさ」に甘えて、はっきり「もう行けない」と言ったら、母はまた、わたしを「弱くて逃げ出す子」と見なし、ヒステリーを起こしてしまうのではないか。母の「優しさ」を失うのが怖かった。
けれど、はっきり言わないと、学校に行くことになってしまう。
わたしは、それを知っていた。母の「休んでもいい」は、試されているのかもしれない。
「本当に辛いなら、言ってみなさい」と言う意味かもしれない。だが、わたしは、その一言が、どうしても喉から出てこなかった。
結局、金曜日、土曜日、日曜日と三日が過ぎたが、わたしは、母に「月曜日から学校に行きたくない」ことを、いえないでいた。
月曜日の朝。
わたしは、母の穏やかな「起きて」という声で目が覚めた。
「美和ちゃん、朝ご飯の時間だよ。今日は、無理しなくていいからね。行けそう?」
母は、まだわたしに「選択の自由」を与えてくれている。わたしは、ベッドから起き上がろうとしたが、胃の奥から、冷たい塊がせり上がってくるのを感じた。
「う……」
突然、激しい痛みが、お腹全体を襲った。キーホルダーを壊された時の、あの精神的なショックが、身体的な痛みに変わったようだった。
「痛い……お腹が、痛いよ、ママ……!」
わたしは、思わずうずくまった。腹痛は、実際にあるけれど、わたしは、この痛みが、わたしを休ませてくれるかもしれないという考えが、頭の片隅で働いているのを感じた。
「痛いよ!とっても痛い……吐きそう……!」
わたしは、実際よりも大袈裟に痛みを訴えた。本当は、耐えられないほどではなかったが、これで母が「休ませる」と決断してくれれば、わたしは学校から逃れることができる。
母は、わたしの顔を見て、すぐに事態を察した。
「わかった、わかったよ。もう無理しないで。今日は休みなさい。すぐに、先生に連絡するからね」
母は、すぐにタオルを持ってきて、わたしの額を冷やしてくれた。その手の優しさに、わたしは安堵した。
わたしの中には、休めたことへの安堵と、嘘をついてしまったことへの罪悪感、そして、いつかは行かないといけない不安が渦巻いていた。
これで今日はあの学校に行かなくて済む。まえには美里たちから逃げ、いまは怒鳴る先生から逃げ、普通じゃない友達から逃げ、壊されたキーホルダーからも逃げている。
わたしは、なんでこんなに弱いのだろう。向き合う勇気を持てない。この腹痛は、いつまで続くのだろうか。わたしは、いつまで「病気」を演じて、この「逃げ」を続けることができるのだろうか。
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