プロローグ 第六話


次の日の朝、わたしは起き上がることができなかった。体が重いのは鉛のような重さではなくて、魂が体から切り離され、ただの抜け殻になってしまったような、何も無いような重さだった。


昨日、美里の家で見たものは、ただのいじめよりもひどくて、今もそこにいるような痛みがある。

「……気持ちが悪い。頭が痛いよ……」

わたしは、布団の中で小さな声で呻いた。仮病だとわかっているけれど、本当に行くのは、もっと嫌だった。美里たちの、あの残酷な笑顔を、もう一度見る勇気なんて、どこにもない。

母は勝ったつもりでいる。

もうわたしがいじめられていないと思っているから、わたしが学校に行きたくないと言っても、いじめられているからと信じて貰えない。

母が、わたしの部屋に入ってきた。

「美和ちゃん。朝ごはんできたから早く起きて」

「ママ……わたし、今日、休みたい。ちょっと熱があるみたい」

そう言うと、母は無言でわたしの額に手を当てた。母の冷たい手が、普段よりも優しく感じられた。一瞬、母がわたしを心配してくれるのではないかという期待が胸に芽生えるが、その期待はすぐに、ガラスのように砕け散る。

「熱なんかないよ!嘘つかないで。まさか、また学校で何かあったの?ねえ、あのガキどもに、また何か言われたわけ?」

母の声は、わたしを心配しているのではない。「自分の娘が、また負けたのか」という怒りがにじみでている。母にとって、学校を休むことは、美里たちにわたしが負けたことだとおもった。

ただ負けた訳ではなくて、それは母自身の負けでもあると思っているようだ。

「いい?美和、あの子たちは、美和ちゃんが少しでも弱いところを見せると、つけ上がるの。美和ちゃんが行きたくないって思っていることを知ったら、もっといじめてくるんだよ。行きたくなくてもバレないようにね!」

母は、わたしに「戦うこと」を強要した。しかし、それはわたしのための戦いではない。母のプライドのための、一方的な命令だった。昨日の絶望を、わたしは母に話すことなどできなかった。あの映像の話しをしたら、母はまたヒステリーを起こし、学校に乗り込み、いじめをさらにエスカレートさせるだけだ。

わたしは、諦めて布団から出ていた。冷たい床に足をつけると、わたしの魂が再びからだに戻ってくるような、べつの重い感覚が戻ってくる。

学校での一日が、どれほど辛かったか、言葉にするのも億劫だった。母に聞かれても答えられない。美里たちは、昨日、わたしに何をプレゼントしたかを知っているという、「共犯者」のような目を向けながら、わたしに話しかけてきた。

「美和ちゃん、昨日のケーキ、美味しかったでしょ?」

「ママの怒鳴り声、もう一回くらい聞きたいなー。今日押しかけようよ」

わたしが何も言い返せないことを知っているから、彼女たちは臆することなく、わたしをいたぶった。わたしは、壁のように、空気のように、存在感を消すことだけに集中する。


そんな時に限って色んなことが起こって、時間は引き伸ばされる。

どうしてわたしはこんな目に遭わないといけないのだろう。わたしは1人だ。母が好きなのに、母のヒステリックな声を聞くと怖くて、別の家に産まれたら良かったと思ってしまう。

放課後。解放された瞬間、わたしは一目散に教室を飛び出した。少しでも時間をかけたらまた呼び出される気がして怖い。

多分それが杞憂に終わることはなくて母にいいつけた報復はまだ続いている。

校門を出て、雨が降りそうな、灰色に曇った空を見上げると、ポタっと抱えきれなくなった水滴が落ちた。


わたしも抱えきれなくなっただけなのに、雨は責められなくてわたしは責められる。

ふと、机の引き出しがチカチカと脳裏に浮かぶ。

「ノート……!」

宿題のノートを多分忘れた。そう思い、カバンをがさごそと探るが、見つからない。

忘れたのだ。教頭先生に、「また忘れ物をしたの!」と怒鳴られる。


母に怒られることよりも、教頭先生のあの冷たい、わたしを否定するような怒鳴り声が、今は怖かった。母が学校に乗り込んで以来、教頭先生はわたしのことを問題児として監視している。もし宿題を忘れたと知られたら、明日また応接室に呼び出され、「いじめられる側にも問題がある」と、ねじ曲がった正論で責められると思った。

わたしは重たい空の下を、学校に向かって引き返した。足が、鉛のように重い。

学校が怖くてもう行きたくない。

明日も行かされると思ったら絶望した。

昇降口から教室棟に入ると、誰もいない校舎は、ひっそりと静まり返っていた。静寂は、いつもわたしを包み込む音だが、いまの静寂は、いつもより何かが潜んでいるような、招待のわからない不安がある。

息を潜めて教室に入り、自分の机の引き出しを探った。

ない。

次に、先生の机の上を探す。

ない。

「まただ……」

絶望が、冷たい水のようにわたしを包んだ。わかっている。美里たちが、わたしが慌てて宿題を取りに戻るだろうと予測し、また隠したのかもしれない。

誕生日パーティーに続く復讐はやはりまだ終わっていない。


わたしは、泣き出しそうになるのを必死でこらえ、校舎を探し回った。体育館、音楽室、理科室……どこにもない。

いつも美里たちが隠しそうなところは全部探したし、わたしがまちがえて置いたかもしれないところを全部探したのに見つからない。

そして、古い棟の二階にある、図書室にたどり着く。

図書室は、いつも鍵がかかっているのに、今日に限って、ドアが僅かに開いていた。わたしは、恐る恐る中に入る。

夕日で薄暗くなった広い部屋。本の匂い。その一番奥の、窓際のテーブルに、それはあった。わたしの算数ドリル。表紙には、わたしが書いたくまのイラストが描かれているから、確かにわたしのものだと思った。

「あった……!」

隠された悲しみと、見つかった安堵が、一気に押し寄せてきて、痛みに打ちのめされそうになりながらも、なんとか宿題を取り返せた。これで、教頭先生に怒鳴られるという二次被害は避けられる。

わたしは、ドリルを胸に抱きしめ、すぐに図書室を出ようと、ドアに向かって歩き出した。


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