第12話 料理教室
スイートルームの体験は、俺にとって刺激にはなった。だが、それをどう活かせばいいのかわかっていない。
スマホを顔の上に掲げると、例のウィンドウがぴょこんと開く。
【本日のデイリーミッション】
・徒歩1万歩達成
・ストレッチ(朝・夜)
・筋トレ(腕立て50回、腹筋100回、スクワット100回、ジャンプ50回)
・自炊1回以上(朝、昼、晩の一回は自分の作った料理を食べる)
・読書60分(一週間で一冊以上の本を読もう)
【達成状況】 全項目 達成済み
【評価】 「継続力」スキルが順調に機能しています。素晴らしい習慣化です。
「よし。今日もコンプリート」
体の方は、確かに変わってきた。
腹は少しへこんで、腕や肩にはうっすら筋肉の線が見える。鏡の中の男は、前よりは「ちゃんとしてる」人間に見えた。
病院を退院して一ヶ月が経っていた。
システムが提示した一年という期間が二週間過ぎたことになる。
「……で、俺はこれから、何になりたいんだろうな?」
スイートルームも経験した。一流のサービスも体験した。世界の広さは、少し分かった気がする。
だけど、自分がどこに行きたいのかは、まだ全然分からない。
「何か、面白いこと……ないのかね」
独り言みたいに呟くと、ウィンドウがぴくりと反応した。
【質問を検知】
「何か面白いことはないか?」
【提案】
・日常の外に出ることでしか、発見できない「好き」もあります。
・まずは、身近な場所での「小さな挑戦」から始めてみましょう。
【サブクエスト案】
タイトル:人の輪の中に、もう一度入ってみろ。
内容:
・地域の料理教室
・近所のボランティア
・ゆるい趣味サークル
いずれかへの参加を推奨します。
「いずれか、ねぇ……」
そうつぶやいたとき、ふと窓の外から声が聞こえた。
「落合さーん、いますかー?」
玄関のチャイムと、いつもの明るい声。
アパートの管理人兼大家さんの孫、
慌てて起き上がって、玄関に向かう。
「は、はい。今出ます」
ドアを開けると、買い物袋を両手に下げた雪が立っていた。今日も大学の講義帰りなのか、カーディガンにデニムというラフな格好だ。
「こんにちは、落合さん。あ、ちゃんと顔色いいですね。よかった」
「え、顔色、ですか?」
「入居された時は色々と不安そうでしたから。前よりずっと元気そうです。だから、その……」
雪が、もじもじと足元を見つめながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「最近、すごく頑張ってるじゃないですか。朝も歩いてるし、夜もストレッチしてるの、階段の隙間から見えちゃって」
「……見られてたんだ」
「ふふ。変な意味じゃないですよ? ただ、えらいなって思って。だから!」
雪が、ぱっと顔を上げる。
「もしよかったら、今度、一緒に近所のイベントに行きませんか?」
「イベント?」
「はい。公民館でお料理教室があるんです。来月から一人暮らしする友達のために、私も行こうかなって。山崎さん、自炊も頑張ってるっているようなので」
視界の端で、ウィンドウがにゅっと出てきた。
【チャンスイベントを検知】
・「地域の料理教室」へのお誘い。
【判定】
→ サブクエスト案「人の輪の中に入ってみろ」と合致。
【提案】
・断らずに参加してみることを推奨します。
「ありがとうございます……」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「行ってみたいです。料理も、まだ全然うまくないし」
「本当ですか? よかった!」
雪の顔が、ぱっと花みたいに明るくなる。人懐っこい子だと思う。桜荘に住んでいる住民のことを本当に考えているんだろうな。
「じゃあ、今度の土曜日、一緒に行きましょう。あと……」
少しだけ、声を落とす。
「もし興味があれば、その次の週、地域の清掃ボランティアもあって……それも、一緒にどうかなって」
ウィンドウが続けざまに光る。
【追加提案】
・料理教室:共同作業&実用スキル
・地域ボランティア:利他行動&感謝体験
【一括クエスト化】
タイトル:三つの輪に飛び込んでみろ、お荷物おじさん。
内容:
1.料理教室に参加する。
2.地域ボランティアに参加する。
3.趣味サークルの見学に行く。
報酬:
・人間関係ステータスの成長
・「好きのヒント」を3つ以上獲得
「……三本立てかよ」
思わず苦笑すると、雪が首をかしげる。
「え?」
「いや、こっちの話です。ボランティアも、行きます」
「本当ですか? 落合さんが来てくれたら、きっとみんな喜びますよ」
そんなふうに言われる日が来るなんて、昔の俺は想像もしなかった。
生きることに必死だったあの頃では……。
♢
土曜日。公民館の調理室は、想像以上に賑やかだった。
真新しいエプロンの大学生たち、子ども連れのお母さん、おじいちゃんっぽい人までいる。
「緊張しますね……」
雪が、隣で小声で呟く。
俺も同じだった。エプロンなんて、いつぶりだろう。借り物のチェック柄が、ひどく浮いている気がする。
「本日は、簡単和食定食づくりです。焼き魚と、具沢山味噌汁、ほうれん草のおひたしと卵焼きを作りましょう」
先生の声が響く。班に分かれて調理開始、という流れらしい。
「落合さん、何、担当します?」
「えっと……じゃあ、卵焼き、やります」
言ってから、内心で後悔した。卵焼き……全然うまく巻けた試しがない。
【ミニミッション】
・卵焼きを、最後まで諦めずに焼き切れ。
【注意】
・失敗しても、やり直し可能です。
・途中で人に丸投げすると、努力ポイント減少の可能性があります。
「プレッシャーかけてくるな……」
ボウルに卵を割り入れようとして、さっそく殻が入る。
「あっ」
「大丈夫です、取れます取れます」
雪が笑いながら、器用に殻をすくってくれた。
「私、味噌汁担当しますね。落合さん、卵焼き、楽しみにしてます」
「ハードル上げないでくれる?」
冗談めかして返しながら、卵を溶く。出汁と砂糖と醤油、先生に教わった通りに入れていく。
フライパンを温めて、油を敷く。ここまでは、いつも家でやってることと変わらないはずだった。
「……あれ?」
一回目の卵液を流し込んだ瞬間、フライパンの温度が高すぎたのか、じゅわっと音を立てて一気に固まり始めた。
表面がまだ生っぽいのに、下だけ焦げる。
「あっ、えっ、えっと……」
慌てて菜箸で端から巻こうとしても、ボロボロ崩れていく。
気づけば、謎のスクランブルエッグもどきがフライパンの上に鎮座していた。
【進行状況】
・卵焼き 1回目 → 形状:崩壊。熟練度レベル1
卵焼きマスターへの道のりは遠い。
【コメント】
・誰でも最初はこんなものです。
・ここで諦めるか、もう一度挑戦するかが、経験値の分かれ目です。
「やばいですね、これ」
冷や汗をかきながら呟くと、隣から雪がそっと覗き込んだ。
「あー……これはこれで、美味しそうですけどね。卵かけご飯の進化系みたいな」
「フォローが苦しいよ」
「ふふっ。でも、まだ卵ありますよ。次、少し火を弱めてみましょうか?」
雪がコンロのつまみをひねる。その手つきは、意外と慣れているように見えた。
「国木さん、料理うまいですね」
「うーん、そこそこですよ。失敗もします。でも……失敗しても、やってみるのは好きです」
その一言に、何かが引っかかった。失敗しても、やってみるのは好き。
俺はどうだった? 失敗したくないから、最初から手を出さないことの方が多かったかもしれない。
「……もう一回、やってみるか」
二回目の卵液を、そっと流し込む。
さっきより火は弱い。端が固まり始めたところで、ゆっくり箸を入れる。まだ破けそうになるけれど、なんとか端っこを持ち上げて、くるりと折りたたむ。
形は……かなりいびつだ。
「おおっ、ちゃんと卵焼きの形してますよ!」
雪が、ちょっと大げさなくらいに歓声を上げた。
「いや、全然プロとかには程遠いけど……」
「最初のスクランブル卵から、ここまで進化したんです。大きな成長です」
【評価】
・「失敗後も、逃げずにもう一度挑戦した」
→ 努力ポイント+3
→ 自己効力感 わずかに上昇
先生が回ってきて、恐る恐る完成品を見せる。
「いいですね。形にこだわりすぎなくて大丈夫です。ちゃんと巻けてますよ。味も悪くないと思います」
ほんの一言なのに、胸の奥がじんわり温かくなった。出来上がった定食を班ごとに試食するころには、緊張もだいぶほぐれていた。
「落合さんの卵焼き、美味しいです。優しい味っていうか」
雪が、箸を持ったまま、まっすぐこちらを見て言う。
「……マジで?」
「マジです。なんていうか、ちゃんと作ってくれたって感じがします」
【感情ログ】
・「自分が作ったものを、誰かに美味しいと言われた」
→ 「誰かの役に立てた感覚」 初期値 取得
→ 自己肯定感+1
「……悪くないな、こういうの」
思わず、ぽつりと漏らす。
「ですよね。私、落合さん、料理教室向いてると思いますよ」
「向いてるってほどじゃないだろ」
「だって、失敗しても、ちゃんと最後までやり切ってました。えらいです」
さらっと「えらい」と言われて、どぎまぎした。
大人になってから、誰かにそんな言葉をかけられることなんて、ほとんどなかったから。
国木雪が一緒に挑戦して、評価してくれる。それが凄く嬉しいと感じられていた。
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