昼休み将棋愛好会 ~のんびりおじさんの将棋再始動~
@powarin
第1話 三十一歳の再始動
佐藤健人、三十一歳。会社の給湯室で、淹れたてのインスタントコーヒーをマグカップに注ぎながら、ふと自分の人生を考える。
何か特別な趣味があるわけでもない。仕事は人並みにこなしているが、熱意があるわけでもない。彼を一言で表すなら、「のんびりしたおじさん」だった。
子供の頃から、健人はそういう性格だった。クラスメイトたちのアグレッシブな遊びや、友達同士の群れる空気には、どうにも馴染めなかった。放課後、彼が向かうのは、学校から少し離れた路地裏にある、近所の治さんというお爺さんの家だった。
治さんはいつも縁側で将棋盤を前に座っていた。健人は将棋のルールを教わり、静かに、玉をしっかり囲う、ゆっくりとした指し方を教え込まれた。それは、彼ののんびりした性分にぴたりと合う、穏やかな時間だった。彼の将棋は、治さんとの二人だけの世界で完結していた。
小学校を卒業する少し前、治さんが静かに亡くなってからは、健人が将棋盤に触れることはなくなった。将棋は彼にとって、**「失われた心の居場所」**の象徴になっていた。
「ふぅ……」
午後の仕事に備えて、健人は十階にある喫煙所へと向かう。ドアを開けると、換気扇の音とタバコの煙が充満していた。その隅の、灰皿の上に無造作に新聞紙が広げられているのを見つけた。
いつもなら見向きもしないが、なぜかその日だけ、健人の足が止まった。新聞の片隅に、見慣れた文字が並ぶ**『将棋欄』**が目に入ったのだ。
彼は無意識のうちに、その小さな盤面図を熱心に覗き込んでいた。一手一手、脳内で駒を動かし、二十年前に治さんと囲んだ盤面を思い出していると、背後から優しく、落ち着いた声がかけられた。
「おや、佐藤くん。君も将棋がお好きで?」
振り向くと、隣の課の高谷課長が、いつもの穏やかな笑顔で立っていた。高谷課長は社内でも人格者として知られ、健人とも普段から穏やかな挨拶を交わす程度の付き合いだった。
「あ、高谷課長。いえ、その、昔少しだけ……」
健人が動揺しながら答えると、高谷課長は朗らかに笑った。
「そうか。実は私もね、若い頃からずっと続けているんだ。よければ、明日の昼休み、一緒に指してみないか。備品庫に、一つだけ埃を被った将棋盤があるはずなんだが」
健人の心臓が、微かに跳ねた。二十年ぶりに、誰かから将棋に誘われた。それは、失った居場所の扉が、そっと開いたような感覚だった。
「はい……ぜひ、お願いします」
健人は、その一言を、緊張しながらも確かに口にした。
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