第2話

 凹凸の滑り止め加工が施されたバックヤードの地面は、照明の灯りを跳ね返さず。薄く引き延ばすように抱き込んでいた。


 撥水加工の作業服に黒い長靴。そんな装いの少年が、高圧洗浄機のノズルを斜め下に向け引き金を引く。散った飛沫が小さな水たまりをつくり、その部分だけが艶やかな光を帯びた。


 彼はそこへデッキブラシを押し当て、ザラついた床を平すよう、必要以上の力で擦ってゆく。


 背中に汗が滲み始めた頃、後から柔らかな声が届いた。


「おはよう、漣」


 呼ばれた名に、少年は肩を大きく震わせ振り返る。

 濡れた前髪は額へ張りつき、黒目がちな右目だけが、不自然なほど大きく見えた。


「おはようございます、潮さん」


 そこには、白髪まじりの柔らかな黒髪を一つに括った細身の男性。

 潮見水族館の館長――潮隆が立っていた。

 体の動きに沿った、丸みのある皺が印象的なリネン製の淡い水色シャツ。厚いレンズの奥で揺れる灰色の瞳は、今日も変わらず穏やかだ。


「いつもありがとう」


 潮はそう言ってから、広がったブラシの先端へ視線を落とす。


「もっと軽く磨いても、ちゃんと綺麗になると思うよ」


「……すみません」


「いや、怒ってるわけじゃない。ただ疲れないかなって、それだけ」


 眼鏡の位置を指先で直しながら、気遣うような笑みを見せる彼。


 ――また、空回りしてしまった。


 柄を握る手に、知らず力がこもる。


 どうすれば早く、なんでも器用にこなせていた“以前の自分”に戻れるのだろうか。

 崩れてしまった心身。その療養の為にここへ来て、もう三年が経つというのに。


 絡み合う蔦のような前髪に、指を通しながらかき上げる。

 そのまま手のひらで、自身の右目をグッと押さえた。亡くなった双子の兄、透の遺体から譲られた瞳。山なりに盛り上がった移植痕が、皮膚に触れる。


「痛むのかい?」


「その……朝は、少し」


「無理しないようにね」


 ろ過装置の低い唸りが、胸の奥を微かに揺らした。

 その振動が細い紐のように束なり、嘘を吐いた罪悪感へと絡みついて、心臓をきゅっと締めつける。


 本当のことを言えばいいだけなのに。

 「痛みはありません」と伝えるだけでいいのに。

 隠す必要なんて、どこにもないのに。

 どうして自分は、それすら出来ないのだろう。


 そうやって俯いていると、潮はシャツの袖ボタンを外し、腕まくりを始める。


「私も手伝うよ」


「そんな、館長に掃除させるなんて」


「なんでもやるのが、館長の仕事だよ」


 そう言って彼は、清掃棚から同じブラシを一本取り出し、自分の隣へ立った。

 ふたり並んで腕を動かすたび、シャカシャカと――ザルの上で小豆を転がすような小気味よい音が、湿った空気の中へほどけていく。


 そのリズムにまぎれて、潮はゆったりと口を開く。


「最近は、どうだい?」


「どう……とは?」


「まぁ色々さ。勉強のことでも、趣味でも、体調でもいい」


「話題が広すぎません?」


「ハハッ、確かに。じゃあ、一個ずついこうか」


「なんです、それ」


 力を込め過ぎて前傾気味だった体は、いつの間にか上へと伸びていた。

 強く握りしめていたブラシの柄も、骨張った指の間でようやく緩む。


「最近は、通信で受ける授業のスケジュールを自分で組めるようになってきました。他の人より、だいぶ遅い成長ですけど」


「そんなことないよ。大きな進歩じゃないか」


「いえ……スクーリングも、人が少ない日じゃないと、怖くてまだ上手くいきませんし」


「そういうのは、おいおいでいいさ」


 潮は手を止め、真横から視線を向ける。


「建築の図面は、まだ書いているのかい?」


「はい。でも……前みたいには全然いかなくて。あの事故のせいで消えてしまった知識や感性は、戻る気配すらない。だから諦めて、今は一から勉強し直してます」


「……そう。僕はそこまで拘らなくていい気もするけどね。忘れてしまったのなら、もうそのままでも」


「そんなこと言わないでください。僕には、これしかないんです。それに――助けてくれた兄のためにも、一角の人間にならないと」


「気持ちは、わかるよ。でも、そんな気負う必要も……」


「人ひとり、それも肉親の命を引き換えに、僕は今ここにいるんです。だからせめて、『助けてよかった』と誇ってもらえる存在になりたい。そう願って頑張るのは、間違ってますか?」


「……いや。そうだね、その通りだ。つい偉そうに言ってしまった。すまない」


「あっ……いえ、その。こちらこそ、すみません」


 蝋燭の火を吹き消したような無言が訪れた。

 姿勢はまた傾き、体重を預けるようにしながら、緑の毛先を潰していく。

 

 先ほどの小気味良い軽やかさとは打って変わって、硬い氷を爪で削るような、重たく引きずる音だけが床に広がった。


 脇の下に、じっとりと嫌な汗が滲む。

 潮さんは、どこまでも気遣って優しく接してくれているのに――

 どうして、あんな反抗的な言い方しかできないのだろうか。


 自分を傷つける本音は言えないが。

 相手を傷つける本音は、簡単に口から零れてしまう。


 床の汚れは、とっくに落ちている。けれどモップの動きは止まらなかった。

 目の前に伸びる黒い影を消すように、何度も、何度も強く擦る。

 ――いっそ、このまま自分という存在ごと削れてしまえばいい。

 そんな期待まで抱きながら。


 その時、ピピッと潮の身に付けていたスマートウォッチが短く鳴った。


「餌やりの時間ですか?」


 問いかけに、彼は頷きで返事をする。


「漣、すまないがお願いできるかい?」


「え、僕でいいんですか?」


「ああ。シオギンも、どうやら君には気を許しているみたいだからね」


「そんな……気のせいですよ」


「気のせいじゃない。何度か一緒に行ったが、隠れずに出てきていただろう?

 前々から、私以外にも餌を与えられる人が必要だと思っていたんだ」


 「もちろん私も同行するから」と最後につけ加えられ、特に断る理由もなく、その申し出を受け入れる。


 二人はバックヤードの通路を進み、2〜3分ほど歩いた先の専用区画へ向かう。

 シオギンの“家”は、他の水槽から距離を置くように配置されていた。


 円形で、直径五メートルほど。回遊を絶やさないよう、水流が環状に設計された大型水槽。

 鑑賞エリアで来館者が見られるのは外周のごく一部で、大半の空間は、このバックヤード側に隠されている。


 近づくにつれ、まず耳に届くのは、水流が壁面を撫でる低いうねり。

 次に、淡く漂う冷たい塩水の匂い。

 水槽の上では、恒温装置と酸素供給ユニットが、まるで深い海の呼吸のように静かに稼働していた。


 ただでさえデリケートなトビウオの変異種というのが原因なのか、シオギンはあらゆるストレスに対して極端に弱い。水質は常に近海の浅瀬に近い塩分濃度と硬度へ微調整されており、光に関しては人工太陽灯と深海ブルーライトを組み合わせ、刺激を与えない柔らかな青白さに保たれていた。


 側面には、ゆるやかに流れる微細水流――ラミナーフローを作る装置が取り付けられ、シオギンが持つ異常に発達した“羽衣のような胸ビレ”を傷つけないよう、一定のやさしい速度で水が巡っている。


 さらに底面には白砂と成分調整された人工石灰砂が敷かれ、その反射で水槽全体が淡く光を帯びていた。


 ガラスに、そっと自分の手を置く。

 水流の振動が、微細な脈のように手のひらへ返ってきた。


「いつ見ても立派ですね」


「元々はトビウオの群泳ができる設備として建造しているからね。いまはこの子ひとりのための空間になってしまったけど」


 困ったように肩をすくめる潮。

 潮見水族館の目玉として準備された、大規模なトビウオの群泳水槽。

 しかしシオギンが生まれてから、状況は大きく変わってしまった。


「特別な存在に合わせて、周りだけが変わっていくのって……どうなんでしょう」


「難しい質問だね。合わせられる側が合わせる。としか言えないかな」


 鏡面に映った自分へ目を向ける。眉間には、深い皺が寄っていた。


 ここに住む“特異個体”を守るために。元々いたトビウオ達は他館へ移動。設備は増築され、維持費も跳ね上がった。

 入館料が上がったのも、シオギンの特別管理費が要因だという噂を聞いたことがある。


 そこまでして守られているのに、当の本人は、ただ緩やかに日々を漂っているだけ――


 ギシリと、噛みしめた奥歯が不快に軋む。


「にしても、今日は遅いな。いつもならそろそろ来るんだけど」


 潮が時刻を確認しようと手首を返した、その時。


 研ぎ澄まされた刃物が振り抜かれるように、一筋の銀光が水中を走り――

 目の前で、ぴたりと停止する。


 深い水底に沈んだ日光を、その身に凝縮したかのような、冷たく透き通る輝き。

 鱗の一つ一つが青白く脈動しながら発光する様は、見惚れるほど神秘的だ。


 長い胸ヒレは水流にゆだね、浮遊するように揺らめきながら、自身の光を柔らかく散らした。

 そのたびに薄い虹の輪が厳かに重なり合い、水槽の内側だけが、現実から遠ざかるよう浮世離れする。


 どんな存在も、この生命が織りなす圧倒的な芸術の前では、屈服するしかない。

 “美”から寵愛を受けた奇跡の存在――それがシオギンだった。


「さて、では餌をあげようか。ちょっと待っていてね」


 潮は近くの冷蔵庫から、ピンク色の四角いブロックが入った袋を取り出し、鋏で封を切る。

 甘くて生臭い、甲殻類特有の匂いが辺りに漂った。


「解凍は済んでいるから。手の中でゆっくり崩しながらあげてもらえるかな」


「分かりました」


 ゴム手袋とオキアミで出来た餌を受け取る。

 階段を上がり、水槽の上部へ。飛び出し防止用のネットが天面に張り巡らされ、その隙間からシオギンの姿が確認できた。


 ピンクの塊に指を押し込むと、シャリッとした感触が返ってくる。

 一掴み取り、指の間で揉むように崩し、網目の下へ慎重に落とした。


「……どう、ですか?」


「大丈夫。ちゃんと食べているよ」


 その言葉に胸を撫でおろす。

 シオギンは警戒した相手からの餌には絶対に手をつけない。

 これまで餌を与えられたのは潮さんだけ。しかし今、自分がその二人目になってしまった。


 どうして、お前は気を許したんだ。

 だって僕はこんなにも、お前が嫌いで、疎ましく思っているのに。


 その問いを手の中へ押し込むようにしながら、次のひと掬いを放る。

 しかし相手は素知らぬ顔で、ただ淡々と、降り注ぐ餌を受け入れていた。


 数分かけて最後まで与え終えると、シオギンは胸ヒレをひるがえし、目にも留まらぬ速さで水の奥へ消えた。

 光の軌跡だけがほんの一瞬、後に残る。


 階段を降りると、微笑みながら出迎える潮の姿。


「お疲れ様」


「そんな。ただ、餌を投げ入れただけですよ」


 手袋を脱ぎながら、ゴミ箱に袋を捨てる。


「いやいや、上等さ。――さて、私たちも食事にしようか」


「はい」


 並んで来た道を戻っている最中。自分の隣に立つ潮さんが、ふいに口を開いた。


「これでシオギンが気を許した人も、四人目だね」


「えっ?」


 思わず声が漏れた。自分達だけじゃなかったのか。


「どの飼育員さんですか?」


「ああいや、一般の子だよ」


「一般の……お客さんってことですか?」


「そう。シオギンという名前をつけてくれた男の子と、その妹さんだよ。あの子が生まれた時に名前募集の企画をやってね。その採用特典として、貸切のバックヤードツアーに招待したんだ」


 潮さんは、懐かしむように目を細める。


「もともとシオギンには一目会わせるだけのつもりだったんだけど……あの二人、特にお兄さんの凪翔君に対しては妙に興味を示してね。試しに餌やりをさせてみたら、すんなり食べて驚いたよ」


「……ちょっと、想像し難いですね」


 人に見られることを、何より嫌うあの魚。

 鑑賞エリアに姿を現す時間ですら、1日に一時間あるかどうかというのに。

 初対面の相手に対して、そんな好意的な反応を見せるなんて。


 偶然気まぐれを起こしただけなのか。

 それとも、その兄妹に――シオギンが心を許す“何か”があったのか。


「妹さんの方は、今でもよく来てくれるんだ。ほら、知らないかい? スケッチブック片手に、シオギンの展示スペースで絵を描いている女の子」


「あ、見た事あります」


 脳裏に、彼女の姿がふっと浮かんだ。


 薄暗い展示空間の光に溶けるような、淡い栗色の髪。

 うつむくたびさらりと流れ、頬の横で揺れる細い束。

 袖から覗く白い指先が常に忙しなく動いている光景が印象的で、鮮明に記憶している。


 背を丸めながら描いている時の表情は、まるで絵の中に沈んでいくみたいに集中していて。

 けれど時折、シオギンの影が揺れるだけで、嬉しそうに息をのむ。


 ――そうか、あの子が。


 しかし、ある些細な疑問が沸く。


「彼女、いつも一人で来てますが。お兄さんは?」


「ああ......それは」


 目を伏せる潮。触れてはいけない話題だったのだと気付かせるには、十分な仕草だった。


「先のダウンバースト災害で、亡くなってしまってね」


 「生きていたら、今年で二十歳だったかな」と呟く声が、遠く聞こえる。


「僕と、同じ様な被災者なんですか。彼女」


「そう、だね」


 潮は歩みを緩めながら、何かを熟考するように口を結んで言葉を探す。

 そして歩みを止めた後、綱の上を渡るような面持ちで語り始めた。


「彼女のお兄さんはね……自分の妹を庇って、そのまま波に攫われてしまったんだよ」

 

 それを聞いた瞬間。ヒュッと、甲高い呼吸音が自分の喉から鳴った。


「だ、大丈夫かい!?」


「はっ......はい、だいじょ」


 息は吸えている。なのに吐き出せない。過剰に膨らんだ肺は痙攣しながら尚も動き続けている。

 苦しい。苦しい。鼻先から滴る程汗をかいているのに、手足が冷たい。

 まるで感電したかのように指が閉じられる。爪が食い込んでいくのを止められない。

 

「息を! 息を吐くんだ!」


 強く叩かれる背中。その衝撃だけが全身に伝わる。


 暗く沈んでいく視界の奥――

 そこに、あの日見た“黒い海”が滲むように重なった後。


 潮が引くように、意識は遠ざかっていった。



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