夢見た夏の日は、いつか冬に訪れて

天江龍

第1話

 ある平日の朝。


 学校に通う電車の中で冬瀬円香はここ数日、自分の背後にピタリと立つ男性の気配に怯えていた。


「まただ……」


 痴漢だ。


 満員電車の中で挙動不審に辺りを見る後ろの男は、電車が揺れるたびにわざとらしく体を当ててきて、時々太ももや腰に男の手が当たる。


 偶然を装っていても、いつも同じ相手にされていればそれが偶然じゃないことくらいわかる。

 ただ、離れようにも身動きがとれる状況ではないし、注意してもたまたまだと言われたらそれまでだ。

 それに、毎日乗る電車なのに下手に怒らせて目をつけられたら何をされるかわかったものではない。


 だから怖いけどこのままやり過ごそう。

 じっと恐怖に耐えながら早く電車が止まることを祈っていると。


「おい」


 少し低い声が聞こえた。


「そういうのやめとけよ」


 恐る恐る声のする方を見ると、後ろにいたのは自分と同じ学校の制服を着た男子生徒。


 短髪で、少し切長な目をした、どちらかといえばコワモテなその男子が後ろのスーツ姿の男の手を掴んでいた。


「な、なんの話だ」

「別に通報とかする気ないけど、しつこいなら警察呼ぶから」

「……ちっ」


 スーツの男は苦虫を噛んだような顔をしながら、人混みをかき分けて隣の車両へ消えていった。


「よかった……」


 背後にある気持ち悪い気配が消え、スッと胸を撫で下ろしてから。

 冬瀬は痴漢を追い払ってくれた男子に声をかけようと振り向いた。


「あ、あの……あれ?」


 しかし既に男子の姿見はなく。

 人混みの中を目を凝らして探したがどこにもそれらしい人はいなくて。


 もう一度ガタンと揺れた電車はやがて、ゆっくりと速度を落としていった。



「ってことがあってさー」

「うわー、痴漢ってマジでいるんだ。きもー」

「そこじゃなくてさー。助けてくれた彼を探したいんだけど」


 学校に到着してすぐ。

 冬瀬はクラスメイトの麻美真希に今朝の出来事を話していた。


「でもさー、うちって全校生徒千人くらいいるじゃん? 探すって言っても名前も学年もわかんないんじゃどうしようもないって」

「でもこの学校にいるんだからさ。全部の教室回ったらどっかにはいるはずじゃん」

「じゃあ回ったらいいじゃない」

「一人はやだー。真希もついてきてよー」

「えー」


 面倒くさそうに笑う麻美に、何度も手を合わせながら冬瀬はお願いをする。


「お願い、この通り。なんとかあの人にお礼言いたいの」

「本当にお礼だけ?」

「え、えと、それは……」

「あー、顔赤くなった。ははーん、さては惚れたな?」

「ち、違うって!」

「円香って見た目ギャルなのに意外と純粋よねー」

「だからー、そういうのじゃなくて……あっ!」


 廊下を歩いて行く男子の姿に、冬瀬は思わず声が裏返った。


 今朝、自分を痴漢から守ってくれた男子がそこにいたからだ。


「あ、あの人」

「ああ、黒木?」

「え、真希知り合い?」

「まあ腐れ縁。小学校から一緒だし。呼び止めよっか?」


 麻美が廊下へ出ようとするのを、慌てて冬瀬が止めた。


「まま、待って待って!」

「なによー、お礼言いたいんでしょ?」

「そそ、そうだけどさ。その、話すのに心の準備が」

「ありがとうって言うだけなのに大袈裟ね」

「は、話したことない人に声かけるのって結構勇気いるでしょ」

「ほんと見た目と中身全然違うわね円香って」

「ほっといてよ。でも、黒木君も一声くらいかけてくれてもいいのに」

「昔っから無口なタイプだからねー。円香みたいなギャルに絡まれたくなかったんじゃない?」

「……そうかなあ」


 冬瀬は胸に手を当てて少し呼吸を整えて。


 こちらに見向きもせずに歩いていく黒木を目で追っていた。



「……危なかったな」


 今朝のことを思い出しながら黒木は独り言ちる。

 

 中学までは野球一筋、その実力を買われて推薦入学した黒木だったが、春休みの練習中に問題を起こして退部。


 幸い退学は免れたものの、その負い目と気まずさから高校では極力目立たないようにしようと決めていたのだが。


 今朝、痴漢に遭っていた高校生を助けてしまった。

 助けてしまったというがもちろん、助けられたこと自体はよかったのだけど。

 相手が悪かった。


 地元進学がほとんどの当校において、隣の市からやってきた冬瀬円香は、ギャルな風貌と美貌も相待って学年ではちょっとした有名人。

 黒木もその存在は知っていたが、そんな目立つ人間に関わって、自分まで目立つことになってしまったらまた面倒なことになる。


 幸い満員電車でうまく巻けたけど。

 次からはあんなでしゃばった真似は控えよう。


 推薦入学したくせに野球部を辞めた問題児。

 それが黒木涼に貼られたレッテルだ。

 

 自分の話題が風化するまで他人との関わりは極力持たないようにしよう。

 たとえそれが卒業まで続いたとしても、それならそれで仕方ない。


 それが、他人を蹴落として得た席を自らの行動で手放した人間への報いだとするなら。

 甘んじて受け入れる。


 そんなことを考えながら、朝練をする野球部を窓から眺めていると。


「黒木ー、ちょっといい?」


 聞き覚えのある声に振り返ると、教室の入り口に麻美が立っていた。


「なんだよ」

「そう警戒しないでって。ほら、お客さん」

「お客さん……あっ」


 思わず声が出た黒木の視界に入ってきたのは、扉に半身を隠しながら照れくさそうにするギャルだった。


 冬瀬円香。

 今朝、痴漢から守った同級生だ。


「あ、あの、黒木君、だよね?」

「そうだけど」

「あー、ええと」


 ニヤつく麻美に背中を押されながら、必死に何かを言おうとする冬瀬は口をパクパクさせながら。


 言葉を振り絞って言った。


「あの、今朝はありがとうございました」

「今朝? なんのこと?」

「……え?」

「何があったか知らないけど人違いじゃないかな。俺、勉強忙しいから」


 そっけない態度で黒木はそのまま席へ戻っていった。


 目を丸くしたまま固まってしまった冬瀬はしばらくその場を動くことができず。


 やがてチャイムの音が鳴って麻美に教室へと連れて帰られた。

 


 

 

 

 

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