「此処にもう一人居たんだけど……」

　凪（なぎ）が不思議そうに呟いた瞬間、背後の氷の壁からすっと大きな刃が二振り現れ、凪に向かって同時に振り下ろされた。 　

　凪が気づくより早く、爪戯（つまぎ）が反応して彼女を突き飛ばして庇うと、二振りの刃は氷の壁の向こう側へすぅっと音もなく戻っていった。 　

　刃は氷を砕いて現れたわけではないようで、その幽霊のような奇妙な動きに二人は驚く。

「氷をすり抜けられるのか……！」

「まじか～」

　一方、氷の壁の向こう側の悪魔、ヤナギも、血の一滴もつかずに綺麗なまま戻ってきた刃を見て残念そうに呟いた。

「手応えなし……外したか～」

　氷の壁によって凪と爪戯の立ち位置を目視できないようにはできているらしいが、肝心の攻撃を防ぐ盾にはなっていない。

「あいつの攻撃、全く防げないことはないみたいだけど、相手の能力がよく分からないな。どうしたもんか」

　爪戯が眉を寄せて考えを巡らせるが、凪は能天気なことを言う。

「逃げよーぜ！」

　あまりに安直な発言に、それはどうだろうかと爪戯は言葉に詰まるが、結局今はそれ以外に方法はないと腹を括った。

「仕方ない」

　爪戯は能力を解除し、自らが作り出した氷の壁を内側から破壊。 　

　ヤナギの方へ向けて、無数の氷の欠片を散弾のように爆散させた。

「氷砕けたあああ！」

　ヤナギが飛び散る氷に驚いて目を覆っている隙に、凪と爪戯は全力でその場から駆け出し、森の奥へと逃げ出した。 　

　氷がすべて地面に落ち、辺りに舞っていた白い砂煙が落ち着くころには、ヤナギの前から二人は完全に姿を消していた。

「……逃げられちゃったなあ。雑魚トマトのくせになかなかやるな～」

　その場に残されたヤナギは、獲物を逃したにも関わらず、慌てるでもなく落ちついた様子で二人が去っていった方角を見つめた。

「しょうがない。探そっか、キルキー！」

　ヤナギは他に誰もいないはずの空間に向かって、楽しげに呼びかけた。 　

　すると、空間からズズ……と先ほど凪を襲った刃のようなものが宙に浮いた状態で三振り現れ、ヤナギの呼びかけに応えた。

「ヤナギさん、あいつらは放っておきましょう」

　口どころか、顔も見えないそのキルキーと呼ばれる刃は、単なる武器ではなく明確な意思を持っているらしい。

「何で？」

「近くに神がいます。そちらを───……」

「うん、いいよ！　良い判断だね！　流石♪」

　ヤナギは先ほどの無邪気な笑顔を取り戻し、弾むような声でキルキーを褒めた。

「キルキーは良い子だね！」

　＊＊＊

「じゃあオレ、行ってくるから辛は休んでて！」

　辛（かのと）の願いに応じ、凪を追っていった爪戯を声もなく見送った辛は、崖にもたれて座り込み、二人の帰りを待った。 　

　すると、突然鋭い殺気を感じたかと思えば、次の瞬間には腹にめがけて、長くて太い鞭のようなものが襲いかかった。 　

　回避する間もなく強力な一撃が直撃し、辛は背後の崖の岩肌に体ごと強く打ちつけられる。そのまま弧を描くように真横にスライドする鞭とともに崖になすりつけられ、背中には岩に抉られるような痛みが走る。 　

　ようやく攻撃が止んで鞭が体を離れると、辛は地面の硬さにまたも背中を強打し、声を出すこともできずその場で倒れたままになっているしかできなかった。

「あいつら何をやっている。連絡も未だにとれない」

　そばには、辛を攻撃した男が立っていた。 　

　攻撃してきた鞭はその男の足元から植物の根のように生えており、その鋭く尖った先端は今は大人しく空に浮いている。

「まあいい。ちょうど良く一人になってくれた。ゆっくり痛めつけて殺してやる妖！」

　辛を「妖」と呼ぶその男は、親の仇を見るような鋭い眼差しで睨む。

　◇

「何とか氷で目くらまし成功だな！」

　何とかヤナギから逃げおおせた凪と爪戯は、森の中を走り続けていた。

「ってかさっきの子、何だったんだ？」

「分からないけど……悪魔だとかなんだとか」

　その時、凪は懐からパキッという小さな音がしたのに気が付いた。

「ちょ……ちょっと待って！」

　　凪は懐から短剣を取り出した。

「辛君に作ってもらった短剣が消えそう」 　

　刀身が淡く点滅し、粒子に戻りかけている。

「能力で作った物だから、存在維持のための“シン“の供給が途切れそうなのかも…… 　辛に何かあったのかも」

「そんな……！」

「結界については一旦後回しにして戻ろう」

「うん」

──もしこの時、妖の動き封じの結界を破壊できていたのなら、結果は変わっていたのだろうか……。 　

　後悔の予感が、凪の胸をかすめた。

　◇

「かはっ……」

　先ほどの男の攻撃は、その後も既に瀕死状態で反撃することもできない辛へ容赦なく続いていた。

「俺の両親は妖に食い殺された」

　男の声には底知れぬ憎しみの色が滲んでいる。

「あの妖はお前と同じ髪色をしていた」

　その言葉で、ようやく辛は何故いまこのように自分が執拗に攻撃されているのかということに気づく。 　

　復讐だ。身に覚えのない、けれど逃れられない因果。

「許さない」

　男の攻撃はさらに続いた。 　

　動けない辛に近づき、辛の左のこめかみへ膝蹴りを入れ、衝撃で倒れこんだところをさらに頭を力を込めて踏みつけにする。

「その髪色も……人を惑わす妖のチカラも……人を食べる習慣も、全てが！！」

　男の攻撃が来ると分かっていても、今の辛はどうすることもできなかった。

（身体がうまく動かせない……）

「大体、妖の分際で……人の姿を真似しやがって！！　……化け物が」

　男は自身の能力である鞭の鋭い先を使い、辛の服の背中を裂いた。 　

　うつ伏せに転がる辛の服の背面はビリビリに破れ、背中の模様――蝶の紋様がむき出しになった。

「“そんなもの”付けてまで人のふりをするのか。人に紛れて人を食べるためか？」

　男は辛に軽蔑と嫌悪の眼差しで言った。

「この化け物が！」 　 　

　言葉を発するごとに、辛の体を何度も力を込めて踏みつける。

「死ね！」

　何度も、何度も。

（……思っていない）

　声にだして返事をすることはできないが、それでも辛は蹴りつけられる痛みに耐えながら心の中で訴えた。

（人間を食べたいなんて、思ったこともない）

　こんな理不尽な思いをするのは、もう何度目だろう。 　

　薄れる意識の中、辛は幼いころの父とのやりとりを思い出した。

『と……さま……。しん……じて』

　かつて、まだ父親の腰ほどにしか届かないくらい幼き頃のこと。 　

　辛は目に涙を浮かべながら必死に父に縋っていた。

『人間を……食べたいとか、思ってない……。 　

　だから……本当だから、信じて……お願い。 　

　嫌いにならないで……』

　その当時の辛は既に、妖の母から生まれた半妖として、人間たちから虐げられる苦しみを十分すぎるほど味わっていた。

『嫌いに……。みんな嫌ってるから…… 　

　やっぱり、父さまも嫌いに……なる……？』

　＊＊＊

「やばい！　悪魔がいる。俺以外やられた！」

　辛と、辛を攻撃する男の前に現れたのは、先ほど森の中で凪にぶつかってきて、ヤナギから攻撃を受けた男だった。 　

　ヤナギにやられた右腕を反対の手で庇っているが、傷口からは今も血が滴り落ちている。

「って……そいつまだ殺してないのか？」

　地面に伏している辛を見遣り、手負いの男は言った。

「痛めつけてからでないと気が済まない。大丈夫だ、今殺す」

　辛の耳には男たちの会話が遠く聞こえていた。

（……殺す……？　……殺される……）

『そうよ辛。私のようになるわよ？』

　いよいよ命の危機が迫るという中、死んだはずの妖の母の声が脳髄に響いた。 　地面に倒れていたはずなのに、まるで水に浸かり、母の冷たい手に包まれているような心地だった。

『知ってるでしょ？　私の胎内（なか）で冷たくなって動かなくなるの。 　

　あれが死。何もなくなるのよ』

　背後に回った母は、辛の耳元で妖しく囁く。

『今ここで死んだら、連れていかれたあの子はどうなるかしらね』

（……丁（ひのと）……）

　弟への思いが、辛の消えかけた心を突き動かした。

「……まだ、死にたくない──……」

『良い子ねぇ』

　辛には見えない角度から、母はにやりと口角を上げた。

　＊＊＊

　もう動けないだろうと油断して立ち話をしていた男たちは、辛の突然の変化に後れをとった。 　

　男たちの瞳から光が消え、硝子玉のように濁る。 　

　次の瞬間、仲間だったはずの互いを、能力の鋭い刃先で同時に攻撃しあった。

　ドスッ。

（な……何故……操られ……）

　逃げる間もなく、急所を刃に貫かれた男はその場にゆっくりと崩れ落ちた。 　

　殺し合ったのは、自分たちの意思ではない。 　

　それは分かるのに何故こうなったのか理由も分からず、傷口から血を吹き出しながら絶命した。 　

　辛は、床に這いつくばったままそっと後ろを振り返り、静かに男たちが息絶えるのを見ていた。 　

　その瞳は、昏く冷たい光を宿していた。