No.8「人殺し」
* * *
――熱い。
肌に残るのは、決して消えることのない幼い日の傷跡。
水使いの母に、私は厳しく、誰よりも冷酷に育てられてきた。
「出来損ない」と蔑まれながら、自分の能力――火を操る力でさえ、まともに
いまなら、水を蒸発させる程度の熱は出せる。
けれど――なぜか火は、大きくならない。私の心の弱さを映すように、いつまでも燻っている。
(私は……駄目ですね)
血の味が口いっぱいに広がる。
喉の奥に鉄のような渋みが残り、私は自らの無力さを噛み締めながら、かすかに笑った。
それは自嘲でもあり、懺悔でもあった。
◇
夜の森。
焦げ跡と土煙が漂う開けた場所で、
熱を孕んだ風が吹き抜け、灰のような粉が雪のように宙を舞う。
「なんなら殺して下さっても構いません」
血に濡れた膝を押さえ、地に崩れたまま、爪炎は淡々と告げた。
その姿勢に、敗北の屈辱も死への恐怖もない。あるのは任務を果たせなかった事実への処断を待つ、静かな誇りだけだった。
「ただし、貴方の連れていた“あの少女”は捕らえさせて頂きます」
「殺さない」
辛は短く言い切る。
声に怒気も迷いもなく、ただ事実として告げる。
「あと、連れて行かせることもさせない。――理由はどうあれ、“友達の親”を殺せるか」
爪炎の整った眉が、わずかに動く。
「甘いですね」
その返しは、凍るほど冷たかった。
彼女は立ち上がれぬ身体のまま、それでも女王のように誇り高く顔を上げる。
「そうですか、殺さないとは。……向こうは既に手を打ってある」
その言葉は、不吉な風に乗って森の闇へと消えた。
辛の瞳が鋭く細くなるが、表情は崩れない。沈黙だけが、重い返答だった。
◇
そのころ――
障子の桟を渡る微かな軋み音に、無防備な彼女は気づかない。
廊下の影から、一人の少年が音もなく滑り込んだ。
手には鎖のように連なる小さな金属片――捕縛道具だ。
殺気を極限まで抑え、気配を完全に殺し、眠る凪の枕元へと迫る。
あと数センチ。手が伸びた、その瞬間。
ぱん、と乾いた破裂音。
見えない何かが弾け、鋭い破片が少年の肩口を深々と貫いた。
ドサッ。
畳を擦る音。少年の身体が横へ弾き飛ばされる。
「……えっ」
異変に気付き、凪がガバッと目を見開いた。
次の瞬間、襖の向こうから、黄金色の鱗粉を撒き散らすような白い影が、滑るように入ってくる。
「貴方、狙われてたわよ」
涼やかな声。
その声には聞き覚えがあった――夜、廊下で耳元に囁いた、あの蝶の声。
「何者だ!? 他に人が入ってくる気配なんてなかったのに……!」
少年が肩を押さえて呻きながら起き上がる。
目の前に立つ、金色の長髪の女が、くすりと妖艶に笑った。
「蝶神」
凪が息を呑む。
昼間の蝶ではない。人の姿をしている。けれど、その存在感は間違いなくあの時のものだ。
「かつて辛の一族と契約関係にあったのだけど、今は辛とその父親の“友人”ってところかしら。
ちなみに、この身体は能力を応用して作った“分身”よ」
「えっ、でもどうして――?」
凪の問いに、女は愉快そうに豊かな胸へ手を添え、目を細めた。
「ふふ、可愛い辛の“頼み”だもの」
その声はどこか甘く優しく、座敷を満たしていた殺気が、ほんの少しだけ和らぐ。 夜気が流れ込み、冷たさの中に不思議な安堵が混じった。
「此処の住人はね、殺しを生業にしているのよ。殺し屋ってやつ」
金髪の女――蝶神の声が、冷ややかに畳の上を滑っていく。
同じ座敷にいた、前髪で眼を隠した少年――爪戯の弟だろうか――が、肩をすくめて悪びれずに言った。
「その女を殺す気はない。捕獲が任務だし」
凪は小さく「誰が」と言った。
「は?」
座敷の少年が、凪のかすかな呟きに眉をひそめる。
その肩には、先ほどの蝶神の攻撃による傷が残り、血がじわりと滲んでいた。
「殺し屋なら知ってるでしょ?」
凪が一歩、布団から身を乗り出した。
鋭い眼差しが、少年を射抜く。
少年は舌打ちし、苛立ちを隠さないまま蝶神へ突っ込むように踏み込んだ。
「知るかよ! 邪魔だ!」
ヒュンッ。
風を裂く音。少年が隠し持っていた刃が閃く。
だが蝶神は微動だにせず、襟元ひとつ乱さなかった。
あくびをするような動作で、伸ばした手の甲が、正確に少年の胸を突く。
どん――と重い音。
少年の身体が紙切れのように吹き飛び、畳を滑って壁に激突し、息を呑む暇もなく倒れ込んだ。
「学習しない子かしら?」
蝶神は軽くため息をつくと、優雅に歩み寄り、倒れた少年の上に膝を置き、完全に動きを封じた。
その仕草には、神としての容赦のない冷静さと、どこか人間的な余裕が混ざっていた。
「とりあえず、彼女の質問に答えてあげて。貴方では私には勝てない。ここは大人しく従っておくのが良いと思うのだけど?」
蝶神の声音は柔らかいが、有無を言わせぬ圧がある。
少年は屈辱に顔を歪め、悔しげに歯を噛み締めた。
凪は膝立ちになり、真っ直ぐに問いを放った。
「私の母を殺したのは誰?」
座敷に沈黙が落ちる。
火の消えた蝋燭のように、空気が一気に冷えた。
少年は視線を逸らし、吐き捨てるように言う。
「正直言って、誰が誰を殺しに行くか、いちいち把握してない」
蝶神が横目で凪を見た。
「うーん、特に嘘は吐いてないみたいよ?」
その言葉に、少年は逆に凪を睨み返した。
「……ってか、“人殺し”ってんなら、あんたの連れてた青髪の奴……化け物で、結構な人数を殺ってんだろ? 仲間も家族も殺したって――聞いた話じゃ」
凪の喉がひゅ、と鳴る。
胸の奥で、昼間見た無表情の横顔が揺れた。
辛が。あの優しい彼が?
「でも辛君は、私を助けてくれた」
凪の声は震えていた。
だが、その瞳には確信が宿っている。
「騙されてるんじゃないの? あの化け物に」
少年の嘲りを含んだ声。
その瞬間、蝶神のまぶたがスッと細くなり、座敷の空気が一瞬で張り詰めた。 温度が、数度下がったような錯覚。
「貴方が、あの子の“何”を知っているの?」
次の瞬間、畳を打つ音が続いた。
バシ、バシ、ガガガ――。
蝶神は容赦なく体重をかけ、少年の関節をきしませ、動きを封じていく。
「周囲の人々から嫌われて、命も狙われて、笑うことも出来ない――あの子を」
その声音には、怒りよりも深い、悼むような優しさがあった。
凪は思わず呼びかける。
「蝶神……さん?」
「勝手なこと言わないで!」
少年が反発し、さらにもがいた瞬間――
「やめろ、蝶神」
背後の襖が静かに開いた。
焦げた衣をまとい、肩口から血を滲ませた辛が、ふらりと立っていた。
「それ以上は死ぬ。そこまでする必要はない」
蝶神は手を止め、はっと息を呑んだ。
「……辛」
その名を呼ぶ声は、迷子になった我が子を見つけた母のような響きを持っていた。
辛は一歩進み、真っ先に凪へ視線を向ける。
「良かった。無事で――」
自分の傷など気にも留めず、ただ凪の無事を安堵するその穏やかな声に、凪の胸の奥に温かな光が灯る。
彼女は小さく頷き、高鳴る胸を押さえた。
蝶神がふくれっ面で辛に詰め寄る。
「ば、バカねえ! 手加減してるに決まってるでしょ! ……って貴方こそ何よその怪我、手加減でしたの?」
言葉とは裏腹に、目の端には心配の色が滲んでいる。
振り返ると、まだ畳に押さえつけられたままの少年が呻いていた。
「あーごめん! ごめんってばー」
蝶神が手をひらひらと振り、ようやく手を放す。
場の緊張が、ふっとほどけた。
凪は布団から出て、改めて辛の前に立つ。 ボロボロの姿。それでも、彼は帰ってきた。
「無事で……」
「……あの」
言いかけた凪の言葉を、蝶神の分身体が自慢げに遮った。
「当然よ! 分身とは言え、私がついていたのよ! 感謝なさい!」
凪はふっと笑う。 胸のざわめきが、ようやく静まっていった。
(私も、辛君のことを――よく知らないけど。やっぱ悪い人には思えない)
凪は指を二本、ぴっと立てた。
「今、辛君の傷を治すね! 特別サービス!」
掌にやわらかな光が集まり、夜気を裂いて広がっていく。
光は辛の焦げた衣と皮膚を優しく包み、焼けた傷口を癒やしていった。
座敷の外では、風鈴の音がチリンとかすかに鳴る。
夜風が通り抜け、三人の額の汗を冷ましていく。
波乱の夜の静寂が、ようやく平穏を取り戻しつつあった。
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