第28話 沈黙するデスク

 因課・本部。

 廊下に重い靴音が響き渡る。


 音の主は、分厚い肩幅をスーツに押し込んで歩く男だった。

 だが着こなしは型どおりとは程遠い。首元はだらしなく開き、袖口はほつれ、ネクタイは最初から締める気のない位置にある。


 短く刈った髪に、獣のような鋭い眼。

 睨まれれば異能者ですら背筋を凍らせる、そんな圧。


 深い彫りの顔に無精髭を残し、笑っても決して目だけは笑わない。


 そこに立つだけで場が歪む。

 因課・灯影支部で『組長』と呼ばれる男、雁木亮介が、オフィスに無遠慮に踏み込んだ。


 電話は鳴りっぱなし。

 書類の山を相手に職員たちは疲れ切った顔でキーボードを叩き続けている。

 コーヒーを飲む余裕すらない。

 業務という名の戦場。


「おいおい、なんだこりゃ。ホワイトは何処行ったんだよ」


 怒鳴るでもなく、ぼやいただけ。

 しかし、職員の手が一斉に止まり、空気が張りつく。


「え……な、なんで灯影の組長が……?」


「よりによってこの忙しい時に……!」


 動揺がざわりと広がる中、雁木は迷いなくひとつのデスクに歩み寄る。


 真っさらで、誰も座っていないデスク。


「おい、浅葱はどこに行った? あいつがいりゃ、こんな地獄みてぇなことにならねぇだろうが」


 空のデスクを見下ろして眉を顰める。


 そこで、場が完全に静まり返った。

 電話の呼び出し音だけが、虚しく室内を切り裂く。


「……行方不明なんすよ、浅葱さん」


 ぽつりと、職員の一人が呟くように告げる。


「報告書全部出して……引き継ぎのメモも丁寧に残して……それっきり姿を見せてなくて」


「……本部長が白楼に送ったって噂もありますけど……確証はなくて」


 重く湿った空気が、一気に場を支配した。


「行方不明? 白楼? ……おい、水島はどこにいる。俺は、あいつに呼ばれたんだがな」


 雁木は苛立たしげに頭をがしがしと掻きながら周囲を見回す。

 近くの職員の襟元を掴んで問い詰めると、職員は青ざめて首を横に振った。


「本部長……水島本部長なら、その……特災観に捕まったって……。悪いことしてたとか……詳細は俺らもよく……」


「あ?」


 低い声に、職員の顔がさらに引きつる。


「冗談にしちゃ、全然笑えねぇな。浅葱はいねぇ。本部長は捕まってる。で……俺は誰に呼ばれたんだ?」


 雁木がチッと舌打ちをする。

 掴んでいた職員を乱暴ではなく雑に解放し、胸ポケットから紙煙草を取り出した。


 火を点けようとした瞬間――


「あ、禁煙です……ここ」


 恐る恐る声をかけられ、雁木は心底うんざりした顔で煙草をしまい込んだ。


「……チッ」


 再び海莉の机へ視線を落とす。


 いつも書類で埋まっていたデスクは、今は何もない。

 整理されたメモの跡だけが、その人間がいた痕跡として残っていた。


「……浅葱も、水島もいねぇ因課なんざ……回るわけねぇだろがよ」


 ぽつりとこぼれた愚痴は、怒りとも呆れともつかない温度を帯びていた。


 雁木はその場に長くいる意味もないと判断したのか、乱雑な足取りでオフィスをあとにする。

 重たい扉を押し開け、廊下へ出る。


 喧騒の音が遠のき、代わりに静かな靴音だけが響いた。

 まるで廊下の床までもが、雁木の圧にわずかに震えたかのようだった。


***


 廊下の突き当たり、本部長室の扉。

 雁木は乱暴にノックもせず押し開けた。


 室内はやけに静かだった。

 まるで音を吸い込むような空気。


 机の奥で端末を操作していた男――霧嶋明宗が顔を上げた。


「……灯影支部の方が、本部へ何の用ですか」


 温度のない声。

 人間味の欠片もない冷たい視線。


「浅葱はどこだ。てめぇの所へ来る前に確認したが、行方不明ってどういうことだ」


 霧嶋は端末を打つ手を止めず、表情も変えずに言った。


「……水島本部長が送り込んだみたいですよ。封鎖が決定したのに反抗した彼を、白楼へ。人の心がないようで私も驚きました」


 その口ぶりは淡々としているのに、どこか楽しんでいるように聞こえた。


 雁木の眉間に濃い皺が刻まれる。


「笑えねぇな。……水島がそんな真似、出来るわけねぇ」


「事実ですから。白楼の切除を特災観に報告せず独断で決めたのも彼ですし」


 霧嶋は、何の気無しもなさげな淡々とした口調で告げる。

 だが、その言葉は、因課を長年見てきた雁木には明らかに嘘の匂いがした。


(……水島が勝手に切除だ? ありえねぇ。あいつは慎重すぎるほど慎重な男だ)


 雁木の奥歯が少しずつ軋む。


「……で? 本部長が浅葱を白楼に送った証拠は?」


「記録ならあります。ただ……“特災観に一部押収されてしまった”ので、お見せできません」


 霧嶋は笑ったまま、書類を指で弾く。


「困ったものですね。誰が正義で誰が悪か……こんなに曖昧だなんて」


 あからさまに嘘を重ねているはずなのに、証拠を出さず、責任だけ水島に押し付けるその話法。


(……こいつが全部仕組んでやがる)


 壁に寄り掛かり、雁木は霧嶋を睨んだまま口を開く。


「……中を見てきたが、仕事が回ってねぇ。定時までに終わるわけねぇだろうが」


 霧嶋は顔を上げもしないで書類に判を押し続ける。


「問題ありませんよ。終わってから帰ればいいだけです」


 そのあまりに当然のような口ぶりに、雁木の奥歯が軋む。


「……因課の鉄の掟、“ホワイトを貫く” はどうした」


 雁木の声は低い。怒りを噛み殺している声だった。

 霧嶋はペンを置き、ようやく顔を上げる。


「掟? あぁ……そんなものもありましたね」


 薄く笑った。


「でも、あれは“浅葱海莉と水島詩”がいた頃の因課でしょう。今は違う。人が足りないんです。回らない部署は、回るまで働けばいい。効率的でしょう?」


 その冷酷な言葉に、雁木の拳がゆっくり握られる。


「おい霧嶋。てめぇ、何を勘違いしてんだ」


 呆れたように目を細めながら、雁木はゆっくり霧嶋の目の前まで歩く。

 足音は静かだが、床に圧が沈むほど重い。


「浅葱がいたから、効率よく、定時で帰れたんだよ」


 霧嶋の手が一瞬止まる。


「……何の話です?」


「お前が座ってるその椅子も、その机も、山ほど溜めた仕事も――」


 雁木は机を軽く指で叩く。


「全部、浅葱が“後ろで整えてた”から、お前が気付かずに済んでただけだ」


 霧嶋の眉がぴくりと動き、表情が僅かに歪む。


「浅葱はな、てめぇが投げ散らかした仕事を全部拾って、黙って形にして、新人の尻拭いもして、現場の火消しもして……」


 雁木はわざとらしく肩をすくめた。


「ま、優秀すぎて上のバカ共が気づかなかったってだけだ」


「……証拠は?」


「証拠? てめぇの机の上、見りゃ十分だろ」


 霧嶋が反射的に机へ視線を落とす。

 未処理の書類、決裁待ちの山、期限ギリギリの案件。


 雁木は続けた。


「浅葱が消えてからだ。てめぇの部署は一気にブラックに沈んだ」


「……っ」


「浅葱海莉は、てめぇが思ってるよりずっと“因課の柱”だったんだよ」


 霧嶋の口元が引き攣り、奥歯を強く噛んだ。


「で、それを白楼に送ったのが水島、か……」


 雁木は鼻で笑った。


「誰が信じると思ってんだ、バカがよ」


 霧嶋の目が細くなる。


「……あなたは、何が言いたいんです?」


「簡単な話だ」


 雁木は胸倉に手を伸ばすが、その直前でぴたりと止めた。


「因課で一番忙しい男を、舐めてんじゃねぇって話だよ」


 低く響く声に、室内の空気がびり、と揺れた。

 霧嶋の表情が固まり、喉がわずかに上下する。


「誇張では? 確かに彼は走り回ってはいましたが……効率が悪いだけでしょう」


「じゃあ、お前は現場に行ってすぐ内勤に戻れるのか?」


「そんなもの、誰にでも――」


 言いかけた霧嶋の言葉を、雁木の薄い笑みが遮った。

 雁木は顔を寄せ、真正面から霧嶋の目を覗き込む。


「資料の山も、現場も、新人の尻拭いも、報告書の修正も……その皺寄せ、全部一身に背負ってんのは浅葱だ。それでいて“定時”に帰る。どの職場でも喉から手が出るほど欲しい人材ってこと、分かってねぇのはお前だけだよ」


 霧嶋の肩がわずかに震えた。

 張り詰めた静寂を破るように、乾いた笑いが漏れた。


「……はは、まさか。あんな感情で動く奴が、そこまで評価されるなんて」


 その嘲笑を遮るように、雁木はゆっくりと息を吐いた


「水島に教わらなかったか?“感情がなきゃ、誰も人を救えない”ってよ」


 霧嶋の表情から、さっと血の気が引いた。


 雁木はあえて追撃しない。

 代わりに踵を返し、背を向けた。


「浅葱を軽く見てるうちは、てめぇは、本部長の代わりにもなれねぇよ」


 霧嶋を置き去りにし、雁木は執務室を後にした。

 廊下で鳴らす靴音が遠のいていく。


 残された霧嶋は、微動だにしない。

 先ほどまでの薄い嘲笑は跡形もなく消え、ただ冷たい汗が一筋、頬を伝う。


 ――感情がなきゃ、誰も人を救えない。


 その言葉だけが、室内に重く沈んでいた。

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