第二章 最初の違和感
春の朝は、どこか透明だった。
光がまだ冷たく、地面の影が長い。
小さな手を母親に引かれながら、少女は学校へ向かっていた。
名前は——真白(ましろ)。
桐生真白。
歩道に散った桜の花びらが靴の裏に貼りつく。
そのひとつひとつが、かすかに懐かしく見える。
なぜだろう、初めて歩く道のはずなのに、
信号の音や、ランドセルの重みまで“知っている気がする”。
母が話しかけてくる。
「緊張してる? 友達、すぐできるよ」
真白は小さく頷いた。
——けれど、本当は“緊張”よりも、もっと別の感情だった。
“ déjà vu ”。
まるで、何度もここに通った記憶があるような。
昇降口で靴を履き替え、廊下を歩く。
壁に貼られた絵、古びた掲示板、ほこりの匂い。
全部が初めてで、全部が懐かしい。
(……もしかして、私は、前にもここにいたの?)
そんな馬鹿な、と頭の片隅で打ち消す。
⸻
教室に入ると、ざわざわとした声が飛び交っていた。
「これが僕の席?」「名前似てるね!」
皆がはしゃぐ中で、真白だけが静かに座っていた。
先生が黒板に名前を書き、「出席を取りますね」と言う。
一人ずつ名前が呼ばれていく。
自分の番が近づくにつれて、胸の奥がざわめいた。
「桐生……真白さん」
「はい」
声を出した瞬間、自分の名前がどこか他人のもののように感じた。
それでも、先生は何事もなく次の名前を呼ぶ。
——そこで、時が止まった。
「桐生……誠司くん」
空気が一瞬、揺れたように思えた。
真白は顔を上げ、後ろの席を振り返る。
そこには、黒髪の少年が座っていた。
少し眠たげな目。
だがその瞳の奥に、どこか見覚えのある“静けさ”があった。
少年はゆっくりと手を上げ、「はい」とだけ答えた。
先生は次の名前を呼び、教室のざわめきが戻る。
けれど真白の心臓だけは、まだ“昔の鼓動”を刻んでいた。
誠司——その名を聞くたび、胸の奥で何かが響く。
まるで、ずっと昔、自分がそう呼ばれていたように。
⸻
放課後。
校庭に伸びる夕方の影が長く、空は少しオレンジがかっていた。
クラスの子たちは走り回り、笑っている。
真白は一人、教室の窓からその光景を眺めていた。
(あの子……本当に“誠司”なんだろうか)
問いが胸の奥で何度も反響する。
世界は、こんなにも平和で、
それでいて、何かが欠けている。
言葉にならない違和感だけが、静かに息づいていた。
そして心の中で呟く。
> 「人は、同じ世界を何度も歩くのかもしれない。
> でも、同じ自分には、もう戻れない
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