20話「崩壊」②

 ミライは、恋人がほしいと思ったことはなかった。

 世界中の人を笑顔にしたい。そのためにはたった一人の特別な人なんて邪魔になるだけだとすら思っていた。

 高校生、大学生になり、友人にどんどん恋人ができていっても特段焦りや羨望などはなくて、ただただ心の底から友人の幸せが嬉しかった。

 友人が幸せな恋愛をするということは、この世界に幸せな人間が二人増えるということ。それはとても素晴らしいことだなと思っていた。

 恋はそんなにいいものじゃないと言う友人もいるし、失恋の痛みが人から笑顔を奪うことも知っていたけれど、それでも、幸せな人間の絶対数をカウントをすれば、恋がない世界よりもある世界のほうが幾ばくが多いだろう。


 それでも、自分は恋をしようと思ったことがなかった。

 愛とは、人間に優先順位をつける行為だ。

 しかし自分は好きな人だけを愛することなんてできないという確信があった。

 世界中の人を笑顔にしたいという夢は不変であり、恋人に100の愛を注ぐより、100人に1の愛を注ぎたかった。

 そんな人間が恋人を作るのは、相手に失礼だとすら思っていた。


 だから大学のサークルに麻湖が入ってきた時も、なぜか惚れられて熱烈なアプローチを受けた時も、特に心は動かなかった。


「ごめん、誰か一人だけを大切にできる自信がないんだ」

 正直にそう伝えると麻湖は憤慨した表情で返した。

「いやいや、一人すら大切にできない人に世界中の人を大切になんてできないですよ!」

「…………」

 詭弁だと思った。

 詭弁だと思ったが、その返しにミライは心を打たれた。

 世界中の人を笑顔にしたいなんていう幼い願いをミライは恥ずかしいとは思っていないが、幼いという自覚はあるし、笑われるのも納得している。

 しかし麻湖は、ミライの考えに乗っかった上で自分の考えを伝えてきたのだ。

 それはミライにとって初めての経験だった。

「麻湖は馬鹿にしないの?」

「馬鹿に? せんぱいを? どうして?」

「や、ほら、世界中の人を笑顔になんて馬鹿なこと言ってんなぁって」

 すると麻湖は首を傾げながら、「馬鹿なことだとは思いますけど、馬鹿にすることだとは思いませんよ」と言った。

「あたしはせんぱいが心の底からそう思っていることを知っていますし、その夢が悪いなんて思いません。無理だとは思いますけど」

「無理だとは思うのかよ」

「無理ですよ。人一人にできることなんて限られてます。せんぱいが大学でいろんな活動をしていることも、学外でも色々やっていることも、活動していない時も人に優しいことは知ってますけど、世界中の人を笑顔にするのは無理です」

「はっきり言うなぁ」

「でも、あたしはその考え方好きですよ。世界って厳しいじゃないですか。バイト代はしょっぱいしおにぎりは高い。受験が終わったと思ったらもう就活の話。テレビを付けたら芸能界の負のニュースから国内外での諍いまで」

 そう語る麻湖の表情は大人びていて、ミライは思わず目を細めた。


「でも、世界中の人を笑顔にするくらいの覚悟があるせんぱいだから、きっとこんな、自分のことで手一杯になる厳しい世界でも、他人に優しくできるんだと思うんです」

「…………」

「あたしはせんぱいのその優しさが好き。その優しさの理由を馬鹿にできる理由なんて、ひとつもないですよ」

「それは――光栄だね」

「というわけであたしはそんなせんぱいの生き様に惚れました。好きになりました。これからせんぱいがどうやって生きて、どうやって死ぬのか。どんな最期を迎えるのかを見届けたいんです」

「……ん?」

「世界中の人を笑顔にできるのか、できないのか。できたときに、できなかったときに、どんな顔をするのか。せんぱいのこれからを――ミライ先輩の未来を全部全部知りたいんです」

「…………麻湖、きみ…………」

「それに、大切な人ができたからといって、人間関係に優先度をつけたからといって、世界中の人を笑顔にできないわけじゃないですよ。お笑いだってそうじゃないですか。誰か一人が大爆笑していて残りの人は普通に笑っているなんてことはザラにあります。もしせんぱいがこれからあたしを一番に大切にしてくれるようになったとして、あたしを一番笑顔にすることと、世界中の人を笑顔にすることは矛盾しません。だからせんぱい、あたしと付き合ってください」


 早口でまくしたてる麻湖の目は座っていた。

 その迫力に押されたからや、命が惜しくなったというわけではもちろんなく、ミライは麻湖の告白を受領して付き合い始めることになった。

 初夏の蒸し暑い日のことだった。


 麻湖は美人で聡明で、どこか変わった女の子だった。話に聞くような普通のデートから、男友だちと行くのすら憚られるようなアンダーグラウンド的デートまで、二人でいろんな事をした。

 近所のカラオケから海外の紛争地帯まで。おおよそデートと呼べないようなこともたくさんやってきて、いつの間にかミライは麻湖のことを高い優先度で見るようになっていた。

 平たく言えば、好きになっていた。


「僕がどうやって死ぬのかを見届けるんじゃなかったのか、麻湖! 起きて!」


 そして今、最愛の人は交通事故に合い、数秒後の命も保証されない状況だった。

 ミライは麻湖を抱きかかえて何度も彼女の名前を呼ぶ。


 人をカニバルに変えるのは簡単で、願いが溜まる赤黒い空間に人間を突っ込むだけでいいと、かつてルルドが燈に言っていた。ミライはその会話を知らなかったが、直感的にその方法に行き着き、麻湖の命を救うために彼女をカニバルに変えた。


 徐々に麻湖の体が硬い鱗に包まれていく。

 それに伴って、傷口も塞がっていく。


「……よし!」


 ミライの読み通り、カニバル化に伴い彼女の体は回復していった。

 あとは、カニバル戻しの弾丸で麻湖を撃てばいい。

 麻湖に助かる見込みが出てきたことで安堵したミライは、ようやく自身の周りに人だかりができつつあることに気が付いた。

 車が大きな音を立てて大破したのだから当然だった。

 何人かには麻湖をカニバルにする瞬間を見られていただろうが、カニバルに遭遇した記憶は一晩で消えるので問題ない。


 そう思い、集まってきた人々の顔を見た瞬間ミライは猛烈な違和感に襲われた。


「…………」


 人だかりを構成する全員が――に見えた。

 よく見れば違う顔をしているとわかるが、ぱっと見た雰囲気が全く同じで、何より良く見ようという気になれなかった。

 例えるなら、車に興味のない人が、通りかかる車が全部同じに見えるようなもので。ロックソングに興味がない人が、全て同じ曲に聞こえるようなものだった。


 ミライには今、人間全てが等しくただの命の塊に見えていた。


 それは――ルルドの見ている世界と同じだった。

 ミライは人間をカニバルに変えた。負の願いを私利私欲のために使った。

 それによって無意識のうちに、彼の中の善悪の基準や人間への感情が壊れてしまっていた。


 カニバル殺しが、ルルドのような上位カニバルになる手順は――

 ――人を、カニバルに変えることである。


 ミライの手のひらが赤黒い光に包まれていく。

 これまでは指先だけで、武器を取り出すためにしか使っていなかった赤黒い光が、手のひらを包み、腕を侵食して――全身にまで広がった。

 パリパリと音がして、赤黒い光りに包まれた部位が徐々に硬い鱗で覆われていく。

 カニバルのように、ルルドのように。

 全身が装甲で覆われていく。


 ミライはその様子を興味なさそうに眺めていた。


 麻湖のカニバル化と、ミライの上位カニバル化が終盤に差し掛かってきた瞬間、人混みをかき分けて一人の男が二人の前に立った。


「カニバルの気配がしたと思って来てみたら、これは一体どうなってるんだ?」


 もう一人のカニバル殺し、樋波燈が呆然とした表情でそう呟いた。

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