8話「過去」③
背水の陣という言葉がある。
川や海を背にした陣形のことであり、そこから転じて逃げ場のない絶体絶命の状況に追い込まれた際に、全力をあげて死ぬ気で事に当たることを意味する。
自分が死ねば、
それはまさに、背水の陣と呼ぶのにふさわしかった。
「
押し入れを開けてバイクのヘルメットを探しながら、塔子は燈に質問を投げかけた。
「もう遅いからなあ、でも甘いものが食べたいかも」
「じゃあ帰りにケーキ買おうよ。ホールケーキ。顔に投げられるようなやつ」
「投げる用のケーキを作っているようなケーキ屋さんはもう閉まってるんじゃないかな」
「投げる用のケーキじゃないよ、食べる用だよ」
「俺ってケーキ投げると思われてんの?」
それらの他愛ない言葉は半分強がりのようなものだった。
しかしその何千、何万回と繰り返してきた婚約者との気の抜けるようなやりとりは、燈を日常の空気感に引き戻し、いつの間にか彼の呼吸も整っていた。
「これは前にも説明したと思うんだけど、カニバル殺しの力を持たない人間がカニバルと出会うと、その記憶は徐々に薄れて、一晩もすれば完全になくなっている。塔子さんはグロテスクな生物と、それを殺す俺のことを目撃するだろうけど、その記憶は明日の朝にはなくなるんだ」
「うん、わかってるよ。そもそも私、すでに何度かカニバルに遭遇しているんでしょ? でもその時の記憶は全くないから、今回もそうなるんだと思ってる」
それはちょっと寂しいけどね、と塔子は呟いた。
どういう仕組みかは不明だが、カニバルと邂逅した記憶は自然と消えていく。
先ほど助けた少年も、目覚める頃には襲われた記憶を全て忘れているだろう。
自分の父親の最期を忘れてしまうという事実に燈は少しだけ胸を傷めた。
「逆に言うと、どれだけ恐怖してもその記憶は明日にはなくなっているから、そこは安心して大丈夫」
「うん、まとめると、燈くんが勝てばとりあえず今夜のところは何も問題なく解決。その後ゆっくり今後について考えられる。そんで、燈くんが負ければ私も死ぬからそれまた問題なし! 簡単だね」
「・・・・・・縁起の悪いことを言わないでほしいなあ」
とは言え、通常の精神状態に戻った燈はある種の余裕を取り戻していた。
これまでの経験からカニバルに敗北することはおそらくないと確信するほどだった。
特に今回は塔子さんの命が懸かっている。負けられないし、負けるはずがなかった。
「じゃあ、帰ったらケーキね。そこまでは私も今夜の出来事を頑張って覚えているようにするから」
「明日の朝、夜中にケーキを食ったデブの状況証拠だけが残って絶叫するのを楽しみにしてるよ」
「燈くんは本当に悪趣味だ!」
脳に鳴り響く警鐘をしるべに、二人はバイクに乗って現場へと向かった。
燈の脳内には、カニバルが出現したことだけではなく、出現した場所までインプットされる。ここからバイクでおおよそ十分だ。
家を出るまでに多少時間をかけてしまったものの、そこは人気のない場所だったので、被害者が出ている様子はなかった。
街灯の少ない山道の途中に、それはいた。
腰に回された塔子の手に力が籠もる。
「止めるよ」
燈はライトを点けたまま、バイクから降りた。
視線の先にいたのは、全身を灰色の鱗で覆われた人型の化け物――カニバルだ。
顔には鳥の嘴のようなものがついていて、ペストマスクを被っているようにも見えた。
「塔子さんはここにいて。絶対に動かないで、離れないで」
「わかった――燈くん」
「ん?」
「大好きだよ」
「・・・・・・」
恐怖を押し殺すように自分の体を強く抱きしめながら、塔子は笑顔でそう言った。
「本当、そういうところは敵わないなあ」
燈は人差し指を立てた。
その指先には赤黒い光が宿っている。
「俺も大好きです、塔子さん。ケーキの味――考えておいてくださいね!」
立てた人差し指を一気に斜め下へと振り下ろす。
その軌道に沿って、空間に一筋の赤黒い裂け目ができた。
燈はその空間の裂け目に手を突っ込んで――一気に引き抜く。
その手に握られるは、カニバル殺しの剣。
カニバルの核を壊すことのできる一振りの剣。
「悪いが背水の陣なんでな。てめぇは秒殺させてもらう」
「燈くんって、戦闘中は口が悪くなるタイプ?」
「ちょっと黙ってて!」
右手に握った剣の刀身を左手の指でズズズと撫でる。
その指の動きに追従するように剣が赤黒いオーラで包まれた。
生命エネルギーを刀身にエンチャントすることで、通常ダメージを底上げする技術だ。
これは攻撃力が上昇するものの、生命エネルギーを体外に放出しているので、当然素の状態よりも疲労が溜まりやすくなる。
これまで燈は、相手の攻撃方法や性質を特定する前から使ってしまうことで戦いの最中にエネルギーを切らしてしまう可能性を恐れていた。そのため多用をしていなかったが、今回は思考が迷子になる前にできるだけ早く相手を倒す必要があった。
そのため、最速で殺すと燈は心に誓った。
鳥頭のカニバルが燈に気がつき、ゆっくりと近づいてくる。
燈はぐっと足に力を込めて、剣を構えた。
カニバル殺しになった時から、身体能力は通常の人類を遙かに超えている。
燈の間合いは五メートル。
その間合いに入った敵なら――相手の反応速度を上回って斬れる。
そのままカニバルが燈の間合いに足を踏み入れ。
「ハッ――!」
カニバルは、自分が斬られたことに気がついた時には、もう体の半分が塵と化していた。
「はぁ、はぁ。よし!」
迷わず斬れた。
きっとこの鳥頭も元々人間だったのだろう。
そんな負の思考に突入する前に、斬り伏せることができた。
カニバル殺しの剣を消し、臨戦態勢を説いた瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
生命エネルギーを消費したのだから当たり前である。それでも、万が一相手が想定より硬く、初撃で斬れない可能性を思うと、エンチャントしておいてよかったと言える。
数回肩で息をして、燈は笑顔を作った。
塔子さんと一緒に帰って、この時間でもまだやっているケーキ屋さんを見つけないと。
そう思って振り返ると――
「塔子、さん?」
――塔子の姿は影も形もなくなっていた。
「・・・・・・あれ、塔子さん」
バイクはあった。ライトも点いている。
ただ塔子だけが姿を消していた。
「怖くなって逃げちゃったのかな」
そんなはずない。
覚悟を決めた塔子が、そんなことをするとは全く思えなかった。
「それか、山から落ちた?」
そんなはずない。
確かに車道から横に外れると山の中だが、相当無理しないとその奥から落ちることはできない。
それに、もし山を転がり落ちていたら音が鳴るだろう。
燈の身体能力はもちろん聴力も強化されている。
いくら集中していたからと言って、その音を聞き逃すはずはなかった。
だったら?
燈の脳内をいくつもの選択肢が駆け抜けていく。
しかしそのほとんどが現実的ではなかった。
怖くなって逃げた。最初から逃げるつもりだった。
あり得ない。長い付き合いだ、それくらいはわかる。
不慮の事故でいなくなった。
あり得ない。考え得る事故のほとんどを、燈なら気がつける。
誰かに攫われた。
あり得ない。人間が燈の聴覚を掻い潜って塔子を攫うなんて不可能だ。
「――人間、が?」
人間が燈の聴覚を掻い潜ることは不可能だろう。
ではカニバルならどうか?
人間を超越した力を持ったカニバルなら、それは可能だろうか。
「いや、ないだろ。ない、よな? だってカニバルには知能がほとんどない。少なくとも俺が見てきた相手は全員そうだった。だから、人を攫うことへのモチベーションがない」
燈は疑念を抱きながら、徒歩で、バイクで、周辺を捜索した。
しかし塔子は見つからず、心配は次第に焦っていく。
まずあり得ないと思いながら、何らかの置き手紙を期待して家にも戻った。
しかしそこには塔子はもちろん、何のメッセージも残されていなかった。
疲労困憊の状態で何度も周辺を往復し、気づけば空が明るくなっていた。
「・・・・・・」
途方に暮れて地面に座り込んだとき、着信が鳴った。
着信の表示は、塔子だった。
「塔子さん!」
燈は震える手で通話のボタンを押し、電話を耳に当てる。
しかし聞こえてきたのは期待した声ではなかった。
「初めまして、アカリ。私の名前はルルド。少し話をしよう」
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