第二章 顕現ノ火
—— 火の祈りは、審判の息を孕む ——
鐘の尾がまだ胸の奥で鳴っていた。灰の雪はやまず、夜と朝のあいだを白く埋めている。
ヴァイオレットは濡れた石畳を踏みしめ、崩れかけた広場の中央に立った。
丘の上から鉄の列が波のように押し寄せていた。槍と旗が波頭のように揺れる。百を超える影が、祈祷とも呪詛とも判じ難い律で地を踏み鳴らす。彼らの足並みは一糸乱れず、まるで一つの巨大な昆虫のようだった。異端紋が布に滲み、人形めいた動作で槍を掲げる。空は低く、塔は折れ、風は煙の層を引きずっていた。
対する彼女の背後には崩れた礼拝堂と息絶えた兵が数人。街の鐘は既に折られ、逃げ遅れた者の呻きが煙の底で燻っている。その影の間を風が通り抜ける音すら、彼女には祈りに聞こえているのかもしれない。
俺を握るヴァイオレットの手が冷たく濡れていた。装丁が震え、僅かに鳴る。頁の奥で墨が漣のように揺れた。
「ここで、止めるわよ。ロマラン、お願い。力を貸して——」
小さな声。けれど、確かな祈り。
ヴァイオレットは俺を開く。頁が吸う冷気、指の温度、灰の重み。彼女の指先が、一枚の頁へ静かに落ちてきた。
——俺は、見ている。
光が滲む。紙の綴じ目が熱で膨らむ。彼女の指が頁を捉えた。裂け目が走る。静寂。息がひとつ——天と地のあいだに生まれる。
ついで、世界が反転する。
——俺の頁が、叫んでいる。
墨が沸騰し、血の代わりに光が流れ出す。紙片が無理やり引き伸ばされ鱗となり、文字列が軋みながら骨格へと編まれていく。全身の繊維がきりきりと引き絞られ、耐えきれずに音を立てて弾け飛んだ。
顎が、喉が、あるはずの声帯が——無。かわりに肺の位置へ、蒼い火の袋が乱暴に縫い付けられた。光の綾がひとつの形を結ぶ。肋は書架のように湾曲し、翼は破れた祈りの頁を縫い合わせた布のようだった。鱗は乾いた墨の色で、吐息は蒼い書光の粉。
その輪郭が空の縫い目を裂き、世界に音の影を落とした。祈りと破壊が同じ呼吸で紡がれていると、俺は識った。
俺が、いや一匹の竜が形を得た。翼の中空に鐘の尾が絡みつく。
その瞬間、空気が悲鳴を上げた。瓦礫の間に潜んでいた炎が息を吹き返し、灰の下に埋もれた骨が音もなく弾けた。
街は小さく、屋根は紙片、人影はただの煤。俺は大気の上を滑り、ヴァイオレットを見下ろす。黒衣、銀眼、掲げられた本。
——呼ばれている、気がする。
けれど、聴こえない。この世界に音という名の温度がない。咆哮の形だけが喉を通り過ぎ、音は世界に触れないまま光へ崩れていく。だが、風は鳴った。
異端者たちが吠え、槍を突き上げる。無数の槍が空を切り、祈りの声が嵐のように街を包んだ。
俺が一息を放つと彼らの口は開閉し、言葉は灰になって散った。翼を畳み、降下する。胸腔の火袋が震え、蒼い炎が石を白く熔かす。地が裂けた。塔の影が一斉に倒れ、鐘楼が灰の雨に溶け落ちる。屋根が一呼吸で沈み、塔の影が花弁のように千切れた。灰が舞い、冷たい雪に似て舞い、空一面が焼けた花で埋まる。
——見ている。
彼女は崩れた家屋の陰に身を置き、本を抱いたまま、口を動かす。何かが告げられている。きっと、俺の名。あるいは、祈り。
唇が読める。音がない。頁の奥で、俺の唇が——動いた気がした。
だが、世界は音を持たない。
幾本もの槍が俺の胸で砕け散る。金属の振動だけが光の皺になって空へ拡がる。
俺は尾で地を薙ぎ、火で道を穿つ。旗が一枚、燃え上がり、布の糸が細い悲鳴の形を取ってほどけた。その衝撃が風の波を生み、周囲の兵を紙のように吹き飛ばす。鎧が潰れ、骨が粉を撒き、血が蒸気となって昇る。
炎が肉を舐める感触が、直接神経に伝わってくる。脂が爆ぜる音、水分が蒸発する乾いた叫び。それらが快楽中枢を刺激するような甘美な痺れとなって、俺の背骨を駆け上がった。
その炎が他の炎を呼び、街全体が一つの咽喉のように鳴動した。——審判の声が、まだ名を持たぬままに。
異端者の列が崩れ、影が走る。
彼女はその向こうで、静かに頁を押さえた。掌の温度が遥かに届く。
——俺の頁が、焼ける。
——俺の骨が、文字で組み直される。
——俺の皮膚が、紙の繊維で繕われる。
炎は街路を渡り、石畳の下から眠っていた古い油に火が移った。窓枠が泣き、壁が下に積った昔の歌を崩し、煙が空の皺を黒く太くする。
翼を一打すれば雲は裂け、蒼い光が塔の断面を舐めて鈍く光らせた。
眼下に、崩れた街が紙の地図のように広がる。祈りの声がまだそこに残っているようで、瓦礫の隙間が唇の形に見えた。
彼女が手をかざす。その指先の先に、まだ立つ男がひとり。仮面の奥の目孔は空洞で、そこに在るべき心の灯が風で吹き消されたように虚ろだった。
俺は降下する。
火袋が大きく膨らみ、——吐く。光の奔流が祈りの形をした影までも呑み、祈りの形をした空白までも焼いた。影はただの塵へ戻った。
静寂が戻る。雪のような灰がゆっくりと降りてくる。焼けた花の匂い。
大きな身体の縁から、蒼い剥片がほろほろと剥がれ落ち、本来の素材——紙片へと還っていく。
——顕現が終わる。
竜の輪郭が解け、骨格だった文字が頁の余白へと退く。火袋がしぼみ、喉の形が失われ、翼の回想が薄れる。
世界に音が帰る前に、俺は再び紙になった。
閉じられる。
——闇。
ヴァイオレットの掌の温度。息のような布の擦れる音。
…………。
目を開ける、という手順を忘れていた。代わりに彼女の手が表紙を軽く叩く。
「大丈夫? ロマラン」
声が聴こえる。今度は——はっきりと。
俺は頁の奥で静かに呼吸を確かめた。何かを感じていた気がする。けれど、痛みは——ない。その静けさの底で、自分ではない誰かが息をしている気がした。
——これは竜の記憶なのだろうか。
断片を手繰ろうとすれば、熱の記憶も霧のように消える。
「すごいわ、あなた」
彼女が笑う。瓦礫の中で、灰がその笑みの形を真似て流れた。
「見た? あなたの焔。街の人、助かったのよ。あなたが救ったの」
その声の底に祈りの余熱のような震えがあった。それは涙ではなく、祈りの余白に宿る歓喜の近くにある震えだった。
俺は頷いた——つもりで、頁を一度だけ震わせる。墨が明るい色を帯びた気がした。
「あなたの光が、夜を裂いたの。あれほどの軍勢が……あんなにも容易く、あなたの炎で浄められた。
わたしの祈りは、やっぱり届いたのね。ロマラン、あなたは奇跡そのものだわ」
彼女の声は、震えていた。恐怖でも悲しみでもない——それは祈りが実を結んだときの震え。
彼女は息を吸い、震える指で俺の装丁を撫でた。
「ねぇ、あのとき、あなたが空を覆った瞬間——見たの。
灰の雲が割れて、ひとつの光が降りてくるのを。まるで、この世界そのものがあなたに祈っていたみたいだったわ。
ありがとう、ロマラン。あなたの力があれば、きっとこの世界は護れる」
彼女は俺を抱きしめる。銀の瞳が夜空を埋め尽くす月のように、今度は長く光った。その光は頁の奥へゆっくり沈み、暗闇の底をやわらかく温めた。
その温もりに包まれながら、俺は微かに息をした。
——この静けさが、本当の幸福の形なのだ。
胸の奥のどこかで、燃え残りが微かに息をする。だが——
——彼女の言葉が、真実なのだ。
瓦礫の隙間からの朝。灰の雪はまだ止まない。遠くで鐘がもう一度だけ鳴った。その音は優しく、低く、長い。
俺は意識の形を整え、彼女の抱擁のなかで小さく息をした。
痛みは知らない。
熱の名も、まだ知らない。ただ、頁の綴じ目が穏やかに脈を打っている。
世界は、少しだけ明るかった。
ヴァイオレットが俺を胸に抱えたまま歩き出す。足音が石畳に吸い込まれるたび、装丁が微かに震え、その震えが俺の胸を小鳥のように叩く。
——呼ばれている。
次の頁が彼女の指を待っている。
——その指は優しい。
——その指は、救いを信じている。
——だから、俺は信じる。たとえ、それがどんな形をしていても。
俺は頁の奥で静かに目を閉じた。
光はまだ温かい。世界は——まだ、綺麗だ。
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