最果ての森の悪い魔女
@erika_shimizu
最果ての森の悪い魔女
最果ての森にすむという悪い魔女の話を聞いたことがあるだろうか。
この王国に住む者ならば皆知っていることだろう。
人間の血を飲み、肉を喰らい、皮を纏い、夜ごとに野山で舞い狂うという、恐ろしい女の話だ。
夜ごと狩りを楽しむというその魔女は、小山ほどもある大きな魔物を従えて、生き物と見れば片っ端から捕らえて弄ぶのだ。
ーーなんという無慈悲で、恐ろしい魔女!
*
「……というわけで、討伐をだな。しに来たわけなのだが……」
まだ青年とは呼べない、けれど少年というほど幼くはない年ごろの王子は、戸惑いを隠そうともしないまま頭上を仰いで呟いた。
「……わたしを?」
樹上に女が引っかかっていた。
冗談ではなく、本当に女が引っかかっていたのだ。
王子の沈黙を肯定と捉えたのだろう。女は何やら考え、そしてよし、と頷いた。
「受けて立つから、一旦助けてもらってもいいかな?」
懇願する彼女の瞳は、深い森と同じ色をしていた。
「……やはりそんな話になっていたのか」
道理でかみ合わないわけだ、とひとりごちながら、逆さ吊りになってまで収穫したプルリムの実を一個投げてよこす。
残り七個はすべて彼女が食べるらしい。すごくよく食べる人だ、と王子は感心した。
彼女はーーナイラは、結論から言うと魔女でも魔物でもないらしい。
「正確にいうと、半分魔女ではあるというか。魔女と巫女の中間? かな?」
いわく、ナイラは人智を超えた力を使い、この地に住まう悪しき魔物を封印し続けてきたのだという。
「どういう言い伝えになっているんだったっけ?」
「恐ろしい魔女と、その魔女が従える魔物だ」
「なんで仲良しみたいになっちゃってるかな~」
心から不本意そうに形の良い眉をひそめる。
そう、ナイラは美しい人だった。
瞳と同じ深い色をした髪は波打つように背中に流れ、よく動く彼女に合わせてさらさらと踊った。
くるくるとよく変わる表情から目を離すことができず、いつの間にか彼女とともに笑っている。
これほどに魅力的な人がいるのかと思った。ほとんど信じられないほどだった。
「ああ、ごめん。わたしの瞳、生まれつき誘惑の魔法がかかっているから。いま考えているそれ、全部勘違いだからね」
ナイラはなんでもないことのようにそう言うと、王子の眼前で大きく両の手を合わせた。
途端、頭にかかっていた靄のようなものが晴れてゆく。
どうやら誘惑の魔法にかかっていたというのは本当のことらしい。
「ほらね? ご愁傷様!」
そういってからからと笑うナイラは、例えようもなく眩しかった。
胸の奥がむず痒いような苦しいような、はじめての感覚をおぼえた。
これはきっと、魔法のせいではないと思った。
それからというもの、王子はーーイサンは、ことあるごとにナイラを訪ねた。
森の魔女ナイラから聞く話は、王宮育ちの王子には目の覚めるようなものばかりだった。
この国がまだ見渡す限りの草海原だった頃のこと。その草海原さえ、海の底で眠っていた頃のこと。
そう、ナイラは人の理を超えた種族だった。
途方もない時間を生きてきたのだ。
「イサンの遠い遠い先祖にお世話になったから、お返しにこの国を守っているんだよ」
「先祖……。一体どのくらいの間?」
「確か千年だか二千年だか……」
あまり覚えていないな、と空を仰ぐ。
「それだけ守ったのなら、もう充分借りは返せたんじゃないか」
「たしかに!」
まるで考えたこともなかったのか、大きな瞳をさらに大きくしてみせる。
「でも他に行くところもないしね。たまに君のような来客もあるし、退屈しないよ」
笑みを向けられ、また心臓が不規則に脈打つ。
どう見てもイサンと同じくらいか、少し上にしか見えない森の魔女は、気の遠くなるような時を経て今、隣に座って微笑んでいるのだった。
ある日のこと。
いつものようにナイラに会いに忍んでやってきたイサンだったが、どこにも姿が見えない。
不思議に思い、普段は立ち入らない森の奥へと足を踏み入れる。
この森は魔女の領域であり、生きとし生けるものの魂の牢獄だと言われていた。
足を踏み入れた者はけして五体満足では戻れない、立ち入りを固く禁じられた森。
けれどこの森を攻略できれば隣国との交易にかかる日数が大幅に短くなるため、昔から魔女討伐に挑戦する者は後を絶たない。
かくいう王子もその中の一人だった。無論みすみす命を落とすつもりなどなく、鍛錬を重ねて剣術の腕は王国一とも称されるほど。
一世一代の覚悟を決めて挑んだ初日は思いもよらないことが起き、大幅に予定が狂ってしまった。
が、悪い魔女はおらずとも、獰猛な魔物はいるのだ。
剣を構え、慎重に歩を進める。
ナイラの手を煩わせている魔物をこの手で討伐することができたなら、きっとーー
一筋の陽光も差し込まぬ森の奥が、さらに濃い闇に包まれた。
樹が、草が、土が震えている。それが伝わって、自身の体も強張り始める。
芯まで凍るようなそれは恐怖という言葉で表すには到底足りなかった。
それは魔物というより、世界中の恐れや呪い、血や叫びを根こそぎ集めてひとつにしたかのような、穢れの塊だった。
とてつもなく大きな腕らしきものが振り下ろされた瞬間、イサンは間合いを詰めて横薙ぎに斬った。
手応えが、ない。
黒々とした胴体は、蠅や毒虫たちの集合体だった。
イサンの剣を避け、騒ぎ立てながら飛び回る。
どれだけ剣の腕を磨いたとしても、血肉がないのならば斬りようがない。
足掻けば足掻くほど絶望に満ちていく。心がじわじわと蝕まれていく。
はなから敵う相手ではなかったのだ。人間ごときが。なんと愚かだったのだろう。役にも立たない棒切れを得意気に振り回して。
混沌がいまにも舞い降りる。憎悪を煮詰めたような両腕で、哀れな人の子を抱き締めようとする。
けれどそれは成し得なかった。
「……悪い子だね」
風のように現れたナイラが、イサンを庇うように立つ。
片手で印を切りながら穢れた腕を祓うと、『魔物』はあぶくのような汚い声で鳴いた。
「どちらもだよ」
そう言い、肩越しにイサンを見る。
翡翠にも似た美しい瞳は、いまは鋭く冴えていた。
まるで舞うかのように左手と右手で交互に印を切り、迷いなく魔物を退けていく。
ナイラが動くたびに瘴気が晴れてゆく。
一気に間合いを詰め、唸りをあげる穢れの中心に大胆にも踏み込むと、くるりと回転しなにごとかを叫ぶ。
ナイラの輪郭に光が滲む。
粒子の一つ一つが輝きを強め、膨張し、思い切り弾けてーー
闇が、吹き飛ばされた。
戻ってきた森の静寂の中心に、ナイラは立っていた。
普段どおりの彼女に見えた。
……虚な瞳をしている以外は。
「ほら、ね。あんなのと仲良しなわけ、なーー」
最後まで言い終えることなく、ナイラはその場に崩れ落ちた。
*
目覚めた時、最初に視界に入ったのは見慣れた小屋の天井だった。
とても珍しいことだ。
あれを封じたあとは大抵その場で意識を失い、小枝や葉に埋もれているはずなのに。
そういえば、巻き込まれそうになった人の子は……。
ゆるゆると記憶の糸をたどりながら身じろぎをすると、知らない温もりに指先が触れた。
ナイラを小屋に運び、寝台に寝かせて見守り、いつのまにか眠ってしまった人の子。
秀でた額に切れ長の目元、すっと通った鼻筋や薄い唇、尖った顎、骨ばった腕。
ナイラからしたら赤子のようなものとばかり思っていたその存在は、息を呑むほど美しかった。
おそるおそる手を伸ばし、そっと銀糸のような前髪に触れる。
眠り姫は……王子は、ゆるゆると瞼を開いた。一度、二度と瞬きを繰り返して、
「……目を覚ましたのか!」
ナイラと目が合うなり、大慌てで意識を呼び戻した。
「ありがとう。苦労をかけたね」
「こちらの台詞だ。助けてくれてありがとう……ナイラがいなかったら、命はなかった」
それがわたしの役目だからと、かろやかに受け止める。
森の奥へ足を踏み入れたことを、責めはしなかった。
『魔物』とは、生きとし生けるものの負の部分が集まったものだ、とナイラは話した。
血と肉もないけれど、たしかに存在している。そしてそれは時の流れとともにどんどん大きく、強くなっているのだとも。
人が増え、感情のもつれが絶えず起こり、命を狩り、狩られーー光が強くなるほどに闇は濃くなる。
穏やかに見える日々の営みの裏で、濾過しきれない恨みや憎しみは澱のように溜まり続け、やがてひと塊りとなり、意志をもつようになった。
「あれはとにかく親殺しをしたいんだよ。自分を生み出した、人という生き物をね」
囁くように言葉を紡ぐナイラは、どこか寂しそうだった。
この人はひとりきりで呪獣を封じ続けてきたのだ。イサンの胸の奥が締め付けられる。
封じるたびに精力を使い果たし、冷たい腐葉土のうえに倒れ伏して。
目が覚めたら寝床に戻り、ひとりきりで眠りにつく。
「……俺が、そばにいる」
気がつくとそう言っていた。
言った自分も驚いていたが、ナイラはもっとだった。
「いけない。人の子は、近寄るだけで生命力を削られる」
「わかっている。……あれには手も足も出ない。俺は自惚れているわけではない」
指先に、さきほど触れた熱が戻ってきた。
イサンの手が触れている。ナイラが拒絶しないことを知ると、懇願するかのように握る手に力を込めた。
人の子の手のひらは、ナイラよりも大きく、温かかった。
「森の奥でひとりきりにしたくないんだ。俺にナイラを運ばせてくれ」
二度と人の子と深く関わらないと誓ったはずだったのに。
金の瞳に映り込む自分は、ひどく弱く見えた。
「運ばせてくれ、か。長く生きてきたけど、その口説かれ方は初めてだな」
「くど……!? 俺は真剣にーー」
面白いほどに紅潮する王子の唇に、“悪い魔女“はそっと人差し指を添えた。
「ありがとう。いい子だね」
静かになった銀糸に手を触れる。
よしよし、と撫でると、子ども扱いするなとイサンはむくれてみせた。
手始めに、二人だけの合図を作ることにした。
「これを、こうして……」
慣れた手つきでソレイヤの茎を編み、筒状にする。葉を絞った汁に実を浸して、先端に押し込んだ。
笛のように咥えると、空に向かって勢いよく吹く。
ソレイヤの実は木々よりも高く飛び、虚空で光となって四方八方に弾けた。
「これは怒りっぽい草でね。種子を鳥に運んでもらえないとわかると、自分でなんとかしようと弾けるんだ」
「……知らなかった」
イサンは呆けたまま光の軌跡を目で追っていた。
まばゆく輝きながら降りそそいだ破片が、ナイラの髪を揺らす。
「運んでほしくなったら、ソレイヤを打ち上げるよ。……君も、わたしに用があるときは使うといい」
ひとまずはそれで手を打ってくれるかな、と笑う彼女は、光が滲んでやけに儚く見えた。
それからというもの、イサンは公務中も空を見上げてばかりだった。
二人だけの秘密の光。けれど打ち上がったとき、彼女は危険な目にあっている。
はやく会いたい。けれど、ソレイヤが必要となるような事態が起きてはほしくない。
だから数日後、夜空に光が弾けたとき、イサンの心臓はほとんど口から飛び出しそうだった。
「ーーナイラ!!」
森の手前で倒れていた彼女は、淡い光をまとっていた。
こんなところに呪獣が出るはずがない。
封じたあと、意識を失う前に安全なところまで這ってきたのだ。
万が一にでも、イサンが巻き込まれないように。
不甲斐なさを振り切るように、ナイラを抱き上げる。
イサンよりもずっとずっと強い彼女の体は、驚くほどに軽かった。
溶けるような暖かさに包まれ目覚める。
暖炉はあかあかと燃え、隣にはイサンの姿があった。
「来てくれたのか」
起こさないようにそっと囁く。
来てくれる、という確信はあった。だからこそ、甘えるわけにはいかなかった。
あれから呪獣の発生は連日続いた。
慣れている。だから、ナイラは約束を破り続けた。
封印したあとは必ず光を打ち上げるという約束を。
けれど五日目の晩に、いやな予感があった。
発生する間隔が日に日に短くなってきている。このままでは、気を失っている間に次の呪獣が生まれるかもしれない。
そうしたら、やられる。
巫女の命を刈り取った呪獣が次に向かうのは。
麓に広がる王都が目に浮かぶ。人々の営みが無数に灯っている。
……優しい金の瞳を持つ少年も、そこにいる。
砦とならなければ。命にかえても。
薄れゆく意識の中、どうにか安全なところまでたどり着いたナイラは、最後の力を振り絞ってイサンへの祈りを打ち上げたのだった。
いまだ夢の底にいるイサンとの距離を、少し詰める。
呼吸を感じる。耳をすませば心臓の鼓動まで聞こえるほど近くで、ナイラは目を閉じる。
この温もりに慣れてはいけないのに。
それなのに、思ってしまったのだ。
イサンの隣は居心地がよいと、思ってしまったのだ。
しかしその日の訪れは突然だった。
蟲の群れが散り散りとなり、封印の光に飲み込まれていく。
呪獣の消滅を確認したナイラは、その場に膝をついた。
連日の発生により、ナイラの消耗は激しかった。
このまま意識を手放してしまいたかったけれど、それはできなかった。
次が……くる。
これまでとは訳が違う。
一度封じれば数日は発生しないはずだった。
数日が一日になり、そしてついには日に何度も湧き出るようになってしまった。
イサンを呼ぶわけにはいかない。このままではナイラを追って森の入り口までやってきた呪獣と鉢合わせかねない。
霞む視界を振り払う。
呪獣が生まれ出る予兆である黒い霧を追おうと、立ち上がったときだった。
「なぜ光を打ち上げない!」
力強い腕に抱き止められ、ナイラは翠の瞳を見開いた。
「どうして……」
今来ては駄目だ。すぐに戻れ。
声がかすれてうまく音にならない。
「胸騒ぎがしたんだ。急いで来てみたらこれだ」
いくぞ、と抱え上げるイサンを見上げて首を横に振る。
ナイラがむずがる理由が判然としない。
それでも懸命に何かを伝えようとしているその口元に視線をやる。
と、歓声が風に乗って聞こえてきた。
なぜこんな森の奥に、人の声が。それも複数。
ざわめきのもとへと黒い霧が誘われてゆく。影が濃くなる。闇が集まってくる。
何が起きているのかを察して、腕の中の愛おしいものを大樹の根元に横たえた。
「討伐隊だ。あれほど規制を強めたというのに…」
唇を噛み締め森の奥を睨む。
「追い返してくる。ここで少し待っていてくれ」
ーー駄目!
イサンの腕のあたりを、ナイラは強く引いた。
「あれと対峙するつもりはない。馬鹿者どもを追い払って、俺もすぐ逃げる」
呪獣はもっと強大に、もっと邪悪になっている。
少し前とはわけが違う。
あれはもう、ひとたび狙いを定めた”命”を手放すつもりはない。
ここですらもう安全ではないというのに、さらに近づくなどと、そんなことは許せるはずもないというのに。
思うように動かない体が歯がゆい。動け、動け、動けーー
願いもむなしく愛しい人の子が指の間からすり抜ける。
声にならない悲鳴が、冷たく澱んだ空気を切り裂いた。
イサンは枝を蹴り、声のする方へ駆ける。
視界の先には、数人の兵が剣を構えていた。
彼らは討伐隊ーー森の立ち入りを禁じられていたはずの、愚かで勇敢な者たちだ。
その足元には、黒い霧がまとわりついていた。
「下がれ! ここはお前たちの立ち入っていい場所じゃない!」
怒号に振り返った兵の一人が口を開くより早く、空気が軋んだ。
森が呻いた。
風が逆流し、草が一斉にうねる。
それは霧の底から滲み出るように現れた。
黒い、では足りない。
夜よりも深く、光を喰らう闇。
形を持ったかと思えば崩れ、崩れたかと思えば、別の“何か”が蠢き出る。
「逃げろ!」
イサンの叫びは、もはや怒声ではなかった。
祈りにも似た必死の懇願だった。
次の瞬間、大地が裂けた。
土の中から腕のようなものが伸び、兵のひとりを掴み上げる。
触れた瞬間、肉体が崩れ落ち、灰のように風へ溶けた。
それは、もはや”獣”ではなかった。
怒りも悲しみも、何ひとつ宿さない。
ただ存在するだけで世界を腐らせる、呪いそのものだった。
無我夢中で兵たちを押しやり、呪いの前に割って入る。
見上げたそれは、絶望などという優しいものではなかった。
何も、ない。
昼と夜。光と闇。幸せと不幸せ。
何事にも表と裏があり、互いにより存在は確からしくなる。
けれど本当の虚無には、輪郭すらもなかった。
イサンはそれでも諦めはしなかった。懸命に声を張り上げながら、剣を振りかざした。
最期の時に思い浮かべたのは、愛おしい春色の瞳だった。
ナイラは獣のような唸り声をあげ、転がるように呪獣の前へと飛び出した。
腰を抜かした兵を一瞥し、蟲の群れへと身を投じる。
嘘だ嘘だ嘘だ。
イサンが存在していたはずの虚空に、縋るように目を向ける。
手も足も、魂までもが消失に慟哭し、思うように印が切れない。
怨嗟の渦が嬉々として大きな口を開き、巫女の命をひとのみにしようとする。
させない。この身はイサンが救ってくれたものだから。イサンが愛してくれたものだから。
イサン。
ともに過ごした日々がいくつもいくつも眼前に浮かび、ナイラの胸を締め上げる。
記憶の中のイサンは、真っすぐにナイラを見つめていた。
「あぁ、あーー……!!」
力を振り絞る。
両手を振り上げ印を切る。
命を削って封印の舞を舞う。
呪いは毒のように染み込み、骨から喰らう。
腕の一本や二本、くれてやろう。その代わり、お前のことはこの身に代えても許さない。
呪獣の怨念すらも軽く凌駕する怒りは、ひと柱の光となって森を貫いた。
森の魔女が恐ろしい魔物を従え、王子と討伐隊を襲ったという噂は、あっという間に王都中に伝わった。
噂を裏付けるように王子は失踪し、命からがら逃げ帰った兵たちは、まるで武勇伝のようにその一部始終を何度も語り聞かせた。
けれど森の魔女と王子の本当の物語を知るものは、誰もいなかった。
*
「……兵たちは力をあわせて、悪い魔女をやっつけましたとさ。めでたし、めでたし」
そう言って、ユーインは絵本を閉じた。
もう一回読んでとせがむ子どもたちの頭を順に撫でてやり、またあとでねと立ち上がる。
午後の礼拝の準備をしなければならない。
王都の外れに位置するこの教会の窓からは、”禁じられた森”がよく見えた。
絵本にも登場する、悪い魔女が封じられているとされる森。
青々と茂った樹々は春の穏やかな風に揺れ、語り継がれているほど恐ろしくは思えなかった。
「神父さま、どうしてもりにはいってはいけないの?」
五つになったばかりの少女がユーインの裾を引く。
教会に併設されている孤児院の子どもだ。
しゃがんで目線の高さを揃えてやりながら、神父は答えた。
「さっき絵本を読んであげただろう。絵本に登場した悪い魔女を覚えてる?」
うん、と頷き、思い出して怖くなったのかしがみついてくる。
安心させるように背を優しく叩いてやりながら、話を続ける。
「あの森は、まさに絵本に出てきた悪い魔女がすんでいたところなんだ。こわい魔物もいるんだよ」
「でも、兵隊さんがやっつけてくれたんでしょう?」
純粋な問いに、ユーインは首をひねる。
「たしかにそうだね。けど、魔物の生き残りがいるかもしれない。危ないからけして入ってはいけないよ」
わかったね、と不安げな瞳を覗き込む。
素直に頷く少女に微笑みながら、ユーインは胸の奥に違和感を覚えていた。
何かが違う、そんな気がしていた。
あれは五つか六つの頃だったか、森に迷い込んでしまったことがある。
春先のことだった。
淡い霧がかかっていて、風がやけにあたたかく、怖さよりも懐かしさの方が勝っていた。
森の奥で、ひとすじの光を見た。
それは笛の音のようで、花の弾けるような音にも聞こえた。
引き寄せられるままに歩いた先で、長い髪の女が立っていた。
透きとおる緑色の瞳。
懐かしい香り。
名も知らぬはずのその人を、どうしてだろう、知っている気がした。
ーーどうして来たの?
たしか、そう言われた。
次の瞬間には、気づけば村の外れで泣いていた。
夢だったのか、現だったのか。
それでも、あの時に感じた温もりだけは今も覚えている。
胸の奥の、もっと深いところで。
ユーインはそっと胸に手を当てた。
祈りでもなく、確かめるように。
森の方から、風が吹き抜けてきた。
青く揺れる木々の音のなかで、誰かの声がした気がした。
ーーいい子だね。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
恐ろしいはずの森からは、いつも優しい音が鳴っていた。
絵本に描かれた出来事は、およそ千年前の出来事だという。
本当かどうかはわからない。百年だとか千年だとか、なんとなくきりのいいところで区切っているだけかもしれない。
けれど、少なくともユーインが生まれてから、森に魔物が出たという話は聞かなかった。もちろん、魔女なんてもってのほかだ。
とても大きくて深い森だ。
魔物は出ずとも、狼や熊などの肉食獣は棲んでいるだろう。
つまりはそういった獣害から幼い子どもを守るため、立ち入りを禁じられているというのが大人たちの理解だった。
おとぎ話として甘く閉じられた平穏が破られたのは、それからそう遠くないある晩のことだった。
眠りについたように静かだった森から、再び不穏な気配が立ちはじめた。
王都の外れの村では、日が落ちるころになると、風の向きが変わる。
その風に乗って黒い霧が畑を覆い、家々の戸を震わせた。
子どもが泣き、犬が吠え、誰かが叫んだ。
「森から魔物が出たぞ!」
兵が駆けつけ、人々が逃げ惑う中、ひとりの女が現れた。
その背には闇のような影を従えていた。
女が腕を上げると、魔物が吠える。
誰かが言ったーー
「魔女だ! 伝説の悪い魔女がよみがえった!」
炎と悲鳴が夜を裂く。
けれどユーインは見ていた。
女は魔物を従えているのではなく、村へと届かないように押し返していることを。
腕を高く掲げ、なにかの攻撃をおこない、影を散らしていることを。
逃げ遅れた子どもを抱えて家の中へと帰し、そちらへ影が向かわないように防いでいたことを。
やがて女は闇をその身にまといながら、暗い森へと帰っていった。
恐怖と混乱の中で、誰も彼女を追おうとはしなかった。
ただ、ユーインだけが胸の奥で確信していた。
ーーあれは、助けてくれたのだと。
夜が明けるのを待たず、ユーインは森へと足を踏み入れた。
木々のざわめきが遠ざかり、代わりに記憶の欠片が蘇る。
懐かしい匂い。
春の光。
森の色をした瞳の女の笑い声。
かつて自分は、この森で過ごしたことがある。きっと自分として生まれる前ーーずっとずっと、はるか遠い昔に。
腐葉土を踏みしめ、奥へ奥へと進むたびに、記憶の扉が開いてゆく。
その向こうに、彼女の笑顔があった。
慈愛に満ちた眼差しと、命を背負うには細すぎる腕。
傷だらけになった眠りの底へと落ちる、血の気の失せた白い頬。
守りたかった。その傷の半分を受けたかった。
けれど結局、自分は彼女の目の前で、灰となって宙に溶けた。
「どうして来たの」
風の奥から、声がした。
幼いころに聞いたのと、まったく同じ声と音。
「帰りなさい。ここはあなたの来る場所ではない」
姿を見せようとしない彼女に向かって、ユーインは呼びかけた。
「……思い出したんだ。だから来た」
気配が揺れる。森に隠れた愛おしい影が、息をのむのがわかった。
「小屋に運ぶ約束をしていただろう」
声が震える。
結局、果たすことのできなかった約束。
「……合図を、出していない」
彼女の声も、震えていた。
ユーインは胸元から、草で仕上げた小さな笛を取り出した。
古い祈りのように唇を添え、息を吹き込む。
光が空へと駆け上がる。
それは昔、二人で見上げたソレイヤの光に酷似していた。
「用があったら、俺もこうして呼んでいいんだったよな」
いまだ姿を見せぬその人の名を呼ぶ。
「ーーナイラ」
懐かしい香りのする風が頬を撫でる。
花びらが舞い、草が波打つ。
葉擦れの音のなかに、足音が混じる。
森が、息をした。
ーー誰かが、こちらへ歩いてくる。
ユーインはその方向を見つめ、光があふれるように微笑んだ。
最果ての森にすむという悪い魔女の話を聞いたことがあるだろうか。
その魔女の本当の物語は、王国中探してもただ一人しか知らない。
人間を慈しみ、命を賭して守り、夜ごとただ一人の男を想って泣いた女の話だ。
千年の夜を超えてその魂を守り続けた魔女は、春の光に満ちた森の奥、今ではぬくもりとともに在るらしい。
恐ろしいはずの森からは、今日も、優しい音が鳴っていた。
最果ての森の悪い魔女 @erika_shimizu
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