悪役令嬢(妻)ですが、愛した人は異世界でも私を見つけてくれました
すみす
第1話 夢よりも遠い朝
薄絹の帳を透かして、朝の光がゆるやかに差し込んでくる。
香炉から立ちのぼる白煙が、金糸で刺繍された天蓋をくゆらせた。
侍女たちが静かな足取りで部屋に入り、湯を替え、髪を梳く準備をはじめる。
「奥さま、本日もお顔色がすぐれませんね」
「……大丈夫よ。ただ、少し夢を見ていたの」
鏡台の前に座りながら、私はかすかに微笑んだ。
侍女のひとりが黒檀の櫛を持ち、もうひとりが薄桃色の衣を整えていく。
けれど、そのすべてがまるで自分のものではないような気がした。
この世界に目を覚ましてから、もうすぐ一月になる。
気づけば私は「蕭(しょう)将軍の正妻」として、広大な屋敷に住み、誰もが頭を垂れて私を「夫人」と呼ぶ。
けれど胸の奥では、いまだに信じられなかった。
――私は、本当は日本で暮らしていたただの一人の女だったのだ。
あの朝のことを思い出す。
雨上がりの道路、彼――優人(ゆうと)の運転する車の助手席で、私は笑っていた。
結婚して一年。小さなアパートで、二人で作った朝食を食べて、出かける途中だった。
信号が青に変わり、彼が軽くアクセルを踏んだ、その瞬間。
視界が白く弾けた。
そして次に目を開けたとき、私は異国の絹の寝台の上にいた。
「……優人さん」
誰にも聞こえないように、そっと名をつぶやく。
口にした瞬間、胸が締めつけられるように痛んだ。
この世界の誰も、その名を知らない。私の過去も、私の愛も、ここでは存在しない。
「夫人、そろそろお支度を。将軍さまがお出ましになります」
侍女が控えめに声をかけた。
――将軍。
この屋敷の主であり、私の“夫”と呼ばれる男。
冷たく、凛々しく、そして美しい。
けれど、その瞳には私という存在が映らない。
いつも傍らにいるのは、彼の寵愛を受ける若い側室――玲苑(れいえん)という名の少年だ。
私は鏡の中の自分を見つめる。
異国の衣をまとい、見知らぬ女の顔をした私。
それでも、心の奥底では祈らずにはいられなかった。
――どうか、もう一度だけ。
あなたに会いたい。夢でもいい。
私の魂が、あの朝の続きを生きられるのなら。
外では、青い空を裂くように、軍の太鼓が鳴り響いた。
戦の気配が近づいている。
私は目を閉じ、香の匂いの向こうに、彼の笑顔を探した。
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