第8話 Quest

***


 体育祭。前日。深夜。

 体育祭実行委員の仕事は、雪宮(氷)を中心に、みんなの協力のおかげでもうなくなっていた。


 あれから、加奈子さんには何度か機会を見て話しているが、中々真剣に取り合ってくれない。

 いや、真剣だからこそ、取り合ってくれないのかもしれない。


 そんなことを考えながら、窓を開けると、夜の空気がひやりと流れ込んだ。

 街灯の光が一本だけ道路に落ちていて、それがやけに心細く見える。


 体育祭前夜の街は、不気味なくらい静かだった。

 遠くの学校の方角は薄く橙に染まっていて、まだ誰かが残っているのかと錯覚する。


 ――雪宮も、遅くまで準備していたっけ。


 借り物競争の紙、妙に悩んでいたのが気になる。

 ふぅと、思わずため息が漏れた。


「あの二人を和解させるには、どうすればいいんだろうか――」


 誰に言うでもなく、そんな言葉が溢れた。

 しかし、それに反応するようにスマホが揺れた。画面を見ると、雪宮からの連絡。

 なぜが、心臓が跳ねた。


『久澄くん、明日は楽しみですね。みんなで準備してきた成果が、やっと発揮されるんですよ!』


 文面だけでも、雪宮が随分楽しみにしていることが分かった。

 確かに、彼女は体育祭の準備――特に、借り物競争の準備には誰よりも率先して動いていた。


『そうだな、よろしく頼む』


 そう返す。

 なんだか、このやり取りだけで、少し心が軽くなった気がする。


 ……そうだな。明日は、ちゃんと向き合おう。

 体育祭だって、加奈子さんだって。

 逃げっぱなしじゃいられない。


 …………。


「いや、初恋か」


 思わずツッコんだ。

 なんだこれ。なんで俺はこんなメールのやり取り一つで一喜一憂しなければならないんだ。


 いや、違うな。

 これはあれだ、親の感情ってやつだ。

 雪宮が自分から意見を言ったり、準備をしたり、その成長に感激しているだけだ。


 思えば、一番最初、あの、掃除の時間、彼女は俺に、話す練習の相手をしてほしい、と言った。

 なら、彼女が十分に人の前で会話できるようになったとき、俺と雪宮の関係はどうなるのだろうか。


「……いや、そんなこと、まだ先の話か」


 自分自身に言い聞かせるように、静かに。

 まだ先――でもそれは、いつか必ず訪れる、時間だ。


***


 ピンポーン。


 軽快なチャイムで目が覚めた。

 時計を見ると朝7時30分。

 天気は快晴。雲一つない。

 いつも通りの朝。


「お兄!!しずく先輩が、来てるよ!!」


 さらさの焦ったような、興奮したような声が扉越しに聞こえた。


「んえ?」


 寝ぼけ眼で、スマホを確認すると、俺が返信した数分後に、『明日、一緒に登校しませんか?』という旨の連絡。

 しまった、完全に見てなかった。


 急いで制服を着て、歯磨き、髪を整える。

 その間はさらさに任せるしかない。

 準備を全て終え、玄関に向けてダッシュ。


 わずか5分。

 朝の準備ベストレコードを更新した気分だ。


 玄関に立つ雪宮は、どこか緊張しているように制服の袖を握っていた。


「……その、今日は……よろしくお願いします」


「お、おはよう、雪宮」


「おはようございます、久澄くん」


 雪宮の顔がパッと、明るくなった。

 それだけで、朝の準備RTAをした甲斐があったというものだ。


「よし、行こうか、雪宮」


 一歩踏み出した、次の瞬間。


「ちょっと待ってお兄」


「ぐえ」


 さらさに首をつかまれた。

 死ぬかと思った。お願いだからそれやめてくれ。


「今日の体育祭、私も行くから」


「何でだよ……」


「しずく先輩がいるから」


 だと思った。

 そして、なぜが雪宮も言いにくそうに、顔を伏せながら言った。


「うちのメイドさんも今日、来るみたいです」


「なあさらさ、俺休んでもいいかな?」


「私も生命の危機を感じてるけど、ダメ」


 こうして、下手すれば死にかねない、波乱万丈の体育祭が始まったのである。


 ――この日の体育祭で、俺の人生は大きく変わる。

 そんな予感だけは、やけに鮮明にあった。

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