第4話 ゾンビ映画と幼馴染

​***


「雪宮、お前はいつもよく、映画を観ていたりするのか?」

 半ば、先ほどのギャルとの遭遇による気まずい空気を断ち切るように、俺は問いかけた。

 雪宮は突然の話題転換にあたふたしながらも、すぐに平静を取り戻した。

「私は、そうですね、観る方だとは思います……。映画館じゃなくて、家のテレビで観ることが多いですが……。結構、話し方の参考になったりもするんですよ」

 と静かに言った。

​ ……なんだか、会話が弾まない。

​ まさかこんなところで――いや、まさかというほどでもないが――俺自身の対人スキルの低さが仇になるとは……。

 普段、家族以外とろくにコミュニケーションを取ってこなかった弊害が、最悪のタイミングで露呈した。正直、結構気まずい。

 駅前の喧騒が少しずつ遠のき、並木の間に、古い映画館の小さな看板が見えた。

​ 目的の場所に着いたところで、仕方なく、「ところで」と話題を変える。

 そういえば、今日観る映画のジャンルを、まともに聞いていなかった。

「今日観る映画はさ、どういうやつなんだ?」


 ​確か雪宮は、人が死なない映画が好きと言っていたはずだ。だとすれば、アニメか恋愛ものあたりか――? 恋愛ものだけは勘弁してほしいが……。

 すると、雪宮はその問いを待っていた、といった顔で、にこやかに微笑みながら言った。

「ゾンビ映画です」

「……は?」

 普通に意味がわからなかった。

​ 「人が死なない映画が好き」という彼女の言葉が、俺の頭の中で音を立てて崩れ落ちた。一瞬にして裏切られた気分だ。

 ゾンビ映画なんて、それこそ人が死にまくる映画ではないか……。

 いや待て、もしかすると、彼女は自身の苦手なものを克服しようとしているのかもしれない。まだ決めつけるには早すぎる。

「雪宮、ゾンビ映画が好きなのか?」

​ 

 半分恐れて、ゆっくりと尋ねた。

​ 雪宮は相変わらず、ニコニコとした顔のままで、

「そうなんです! 私、ゾンビが出てくる映画、大っ好きなんです。それで、久澄くんにも、来てもらいたいなって」


 ​彼女にしては珍しく、興奮したような、大きな声で、前かがみに早口で言った。

​ 今度こそ、俺の脳内の常識が音を立てて崩れ落ちた。

「雪宮、確か人が死なない映画が好きって言ってたよな? あれはどういう意味なんだ?」

 雪宮は一瞬、「何を言っているんですか?」と言いたげな表情をしたあと、「あ」と呟いてから、得意げに語り始めた。

「ゾンビに噛まれた人は、死んでるんじゃありません。ゾンビとして生まれ変わるのです! さらに、うめき声だけで意思疎通できるのはすごく魅力的ですし……」

 やはり早口で、雪宮は自らの持論を言い切った。

​ ……ともかく、彼女の独自の謎理論によって、俺たちはゾンビ映画を一緒に観に行くことになったのである。

 重い映画館のドアが静かに閉まる音が、やけに大きく響いた。腹をくくって、館内へ入場する。

​ その館内は、古びてこそいるが、掃除は隅々まで行き届いていて、清潔感がある。風情があるというか、趣があるというか。

 そう、なんというか、落ち着く。そんな感情を湧かせる、不思議な場所だった。

 チケットカウンターに座っている、髪が白くなった老人に話しかけようとすると、雪宮が俺より一歩前に出て、決意したような表情になる。

 ​きっと、自分で注文しようとしているのだ。彼女なりに、成長しようとしているのだ。

 それに比べて、俺は――先ほどの、ギャルとの遭遇で、またしてもあの事件――四月の、あの事件を思い出してしまう。

 そんな小さなことでも動揺する自分に、吐き気を覚える。

 そんな俺の情けない吐き気を、雪宮の澄んだ声がかき消した。


​「あ、あの、このゾンビ映画のチケット、二つ、くだ……さい」


 ​震える声で、しかし、彼女は言い切った。

 ​そのことに、まるで自分のことのように喜ぶ俺がいた。


​「はい、楽しんできなさい、二人とも」

 老人は少し雪宮に笑いかけてから、チケットを渡した。

​ どうやら、顔見知りのようだ。

​ チケットカウンターから離れて、俺は雪宮に尋ねた。

「なに、さっきのじいさん、知り合い?」


 ​無意識に声を潜めながら、雪宮の耳に近づけて聞いた。

「あの人、私の親戚のお祖父ちゃんで。よく小さい頃から、お世話になって、いたんです」

 雪宮はなぜか恥ずかしそうに、もじもじしながら言った。そして、気を取り直したように続ける。

「さあ、もうすぐ、始まっちゃいますよ! 急ぎましょう、久澄くん」

 俺は半ば苦笑しながら彼女の後を追う。


 ​――どんだけ、楽しみにしてたんだよ。


 ​……俺との遊びも、楽しみにしてくれていたのかな。


 ​――してくれていたら、いいな。

 そんな、小さな願いごとを心の中でしてから、歩き出した。


***


​「ギャアアアアア!!」

「ひ、久澄くん!? 駄目ですよ、映画館では叫んじゃ、いけないんですよ?」


 ​画面の奥から、腐った手がカメラに向かって伸びてくる。腐臭が漂ってきそうなほどリアルで、客席の誰かが息を呑んだ。

 驚きやら恐ろしさやらで大声を出した俺に、雪宮が焦ったように、隣の席から小声で言った。

 あまりの驚きに、席から立ち上がっていた俺は、周囲の視線を浴びながら慌てて座る。

​すると雪宮が俺の耳に口を近づけて、ヒソヒソ声で、心配したように言った。


​「久澄くん、もしかして、こういうの、苦手でした?」

「いや、苦手とか怖いとか、そんなんじゃない。決してな。だが、少し……うーん」


 ​言葉を選んで言った。その間、雪宮は映画を観ずにずっとこちらを向いていた。

「そうだな、ぎっくり腰になってしまったんだ。だから、仕方ない」


​「なんですか、それ」

 ふふっと、いつもの微笑みを浮かべながら、雪宮は楽しそうに呟いた。

 ​暗い劇場の中でも分かるほど、雪宮は美しい。今更ながらに、俺はそう思った。

 意識を映画に戻す。正直、これ以上観ていたら気分が悪くなってきそうだが、雪宮の手前、逃げるわけにはいかない。


 ​そして、次の瞬間、画面の端から、突然、顔がドロドロに腐ったゾンビが現れた。


​「ウワァァァァァァア!!」


​――退散。

 それから、映画終了まで大体三十分くらいが経ったあと――映画館のロビーに、雪宮が出てきた。

「まさか、途中で逃げ出すとは、思ってもいませんでした」

 雪宮の顔は満足気だ。

​ 夕方の光が並木を照らしている。外の空気は思ったよりも冷たくて、館内の暗さがまだ目に残っている。

「うるさい、逃げたわけじゃない。ぎっくり腰が本格的に酷くなっただけだ」

 「あはは」と、雪宮が初めて見るような笑い方をした。

​ その表情に、思わず視線が釘付けになる。やわらかな風が雪宮の長い黒髪を撫でる。彼女の笑い声が、その風の中に溶けていった。

「どうか、しましたか?」

「い、いや、何でもない」


 ​慌てて、視線を戻した。

 ​――そういえば、まだ核心を聞けてなかった。

​ 何で、俺を選んだのか。


 ​この際、勢いに任せて聞くのもアリか。

​ 「ええいままよ」と、人生で初めて使うような言葉が脳内で再生されて――

「雪宮、お前はなんで、俺を幼馴染役に選んだんだ?」

 すると、雪宮はキョトンとして、

「どういう、ことですか?」


 ​と聞き返した。

 ​ここまで言えば察してくれてもいいと思うのだが……いかんせん、雪宮は鈍感すぎる。

「あのな、俺じゃなくて、そう、例えば、女子とかだったら、幼馴染とかめんどくさいことをしなくても、自然に友達になれただろ」


 ​それに、あのギャルみたいなヤツの余計な心配もなくなるし。

​ そう言うと、雪宮は少しおかしそうな顔をして、


​「私、久澄くんが、よかったんです」


 ​「は?」と、俺は思わず素のままの返事をしてしまう。

​ それに、雪宮は微笑みながら、

「ずっとずっと、話してみたいと、思っていたんです。久澄くん、私は、あなただから、幼馴染になってほしいと、思っていたんですよ」

 その言葉に、世界が色付いた。

​ その瞬間、雲の切れ目から光が差し込んだ気がした。

 ​ずっと、ゴミの掃き溜めみたいだった、俺の、灰色の人生が今、七色に染まった。

「雪宮」


​「はい?」

「ありがとう。俺も、お前の幼馴染にふさわしい男になるよ。期待しててくれ」


 ​そう言うと、雪宮はまた、頬を桃色に染めて、

「はい、期待、してます」

 と小さく呟いた。

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