第4話 平穏な時間
その後は平穏なものだった。休んだ西野さんの代わりに新人の武田くんと看護助手の三浦さんがいっしょに入浴介助をしてくれた。
もともと西野さんとふたりでするはずだった作業が三人になったから、流れるように仕事は捗った。ひとりがつぎつぎ患者さんを連れてきては服を脱がし、もうひとりが風呂に入れ、頭を洗い、体を洗い、かけ湯をし、もうひとりが体を拭いて服を着せ、ドライヤーで頭を乾かし部屋に連れていく。みんな、息ぴったりだった。
患者さんの体を洗いながら、ときおり亡くなった小田切さんの冷たくなった体を思いだした。小田切さんは弁膜症をわずらっていた。主治医から手術をすすめられたが、本人の希望でしなかった。何度も心不全を起こしては入退院を繰り返し、その都度手術をすすめられたが、「心臓を切るってことは、死ぬことと同じだ」と言い、突っぱねた。頑固なじいさんだと思った。けれども平素から他人には気遣いのある人で、夜勤帯に苦しくなっても看護師の手を煩わせてはいけない、疲れている当直医を起こしてはいけないと我慢するところがあった。病状が落ちついているときは人の好いおじいさんで、検温に行くといつも黒飴をくれた。
エンゼルケアのあと、まだどこかにさまよっているかもしれない小田切さんにむけ、私は手をあわせた。
すっかり、人の死には慣れたつもりでいるのに、どうしても、どこかでやるせない気持ちが起こる。やるせないというのとは違うかもしれない。いたたまれないと言えばよいだろうか。胸のなかに見えないしこりがあって、それをぎゅっと潰されるような感じ。
入浴介助を終えると、肉体労働を終えたあとの爽快さと適度な空腹を感じた。ちょうどお昼時だ。
休憩室のドアを開けると、お局三人組がそろって弁当を広げていた。尻込みしかけた気持ちを空腹感がまさり、「休憩いただきまーす」と中に入った。
空いているスペースにコンビニで買ったおにぎりとカップ麺を広げていると、「北原さん、まぁた体に悪いの食べるのぉ?」とお局のひとりの落合さんが鼻にかかるような声で言った。ぷんっと落合さんからシッカロールのようなにおいがする。落合さんと働くようになってから、私はすっかりこのにおいが苦手になった。
「今日、お風呂当番大変だったでしょう。まぁた西野さん、おやすみだったからね」
落合さんは西野さんがこの病棟に配属になったときから陰口を言うところがあった。四十路で独身の妬みだろうか。
「子どもが熱を出したなら、しょうがないですよ」
「それにしたって、休みすぎじゃない? 今月、もう一週間ちかく休んでるじゃん」
落合さんは、私ではなくお局ふたりのほうに話しかける。
「でもね、子どもの病気持ち込まれても困るしね」
「そうよぉ、休まれても困る、病気持ち込まれても困る、どっちにしても困るわね」
峰岸さん、戸枝さんが落合さんにつづく。
私は三人を無視して黙々とカップ麺を啜った。なにか鋭利なものでぶっさしてやりたい。三人がどうして西野さんを目の敵にしているのか、私にはわからない。理由なんか、ないのかもしれない。
休憩時間が終わると、午後のフリー業務も大したことがなかった。ボーナスステージのように一日の業務がスムーズに終わり、今日は定時きっかりタイムカードを切った。
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