第3話 亡くなり逝く現場
急にナースステーションからモニターのアラームがけたたましく鳴りだした。慌てて飛び起き、休憩室から出ると、ちょうど夜勤者の松本さんが走りこんできたところだった。
「北原さん、ちょうどよかった。小田切さんDNR(心肺停止時、心肺蘇生法施術の希望がないこと)なんだけどさ、息子さんがくるまでは心臓もたせてって言われるんだよ。私、まだ検温もまわりきれてなくて、悪いんだけど、心マ しててくれる?」
「DNRなのに心マするんですか?」
「先生の指示だから、しょうがないんだよ」
「そうですか、わかりました。部屋は個室ですよね」
「うん、昨日のうちに移動してあったから」
「はい、わかりました」
すぐに部屋へむかい、病室のドアを開けた。小田切さんは顎を引いていびきのような呼吸をか細く繰り返していた。今にも息が止まりそうだ。モニターに映し出された記録を見ると、血圧が測れなくなっていた。機械ではひろいきれないほどに脈圧が弱っているのだろう。心拍数は二十台に落ちたり、また、四十台にもどったりを繰りかえしていた。
息子さんは、あとどれくらいでここに着くのだろう。主治医には報告してあるのだろうか。看取りを希望していたのは奥さんだったのに、息子がくることになったのか。さまざま疑問がわいた。
コロナが流行りだしてから、ひところは看取りで家族を立ち会わせることもやめていた。けれども最近では希望があればひとりだけ立ち会えることに方針が変わっていた。
心拍数はまだある。今のところ胸骨圧迫の必要性はなさそうだ。
ナースステーションで患者さんのモニターをチェックしていよう、そう思って部屋をでた。
すると、ナースステーションのほうから電話のコール音が鳴っているのが聞こえてきた。急いでかけていく。ナースステーションは空っぽだった。夕べからずっと多忙なのだろう。電話にかけより受話器をあげた。
「西野です、お忙しいところ申し訳ありません」
耳元で西野さんの声がした。声の様子からにわかに緊張が感じられる。
「おはようございます、北原です」
「北原さん、よかった」緊張していた声がほころぶのを感じた。思わずこちらの気持ちもゆるむ。
「子どもが熱を出しちゃって、おやすみをいただきたいんです。あとで師長あてにまた、電話をしますから」
「そうですか、大変ですね。わかりました。師長に伝えておきます」
「ありがとう。電話に出たのが華憐ちゃんでほっとした」
言われて頬の筋肉がゆるみそうになる。
「お大事にしてください」受話器を電話にもどすと、耳元に西野さんの声が残った。じーんとしつつ、今日は西野さんに会えないのだと落胆した。
けれども、感慨にふけている場合ではない。ふたたびモニターのアラームがけたたましくなりはじめ、小田切さんの心拍数が数秒まっすぐに伸びた。「あ、止まるかもしれない」思って、手動式の血圧計を持ってふたたび部屋に駆けつけた。駆けながら、血圧計なんてもはや意味ないなとひとりごちた。
部屋にもどったときも心電図の波形が長くのびていた。私はベッドにあがり、小田切さんの胸骨のうえに手を置いた。そして、医師と小田切さんの家族の約束を守るために、胸骨圧迫をはじめた。助けるための、延命のための胸骨圧迫ではない。
手のひらから小田切さんの魂のぬけた肉体が、自分の腕の動きに合わせて弾む感触が伝わる。小田切さんは、もう、生きていない。そう感じる。心臓が止まることと、魂が去ってしまうことは、別のような気がする。けれども、不意に疑問も浮かぶ。脳が生きていれば、魂はここにもどる可能性もあるのだろうか。
どのくらい胸骨圧迫をしていただろう。胸を押しているうちに、ランニングハイのような感覚が起こり、思考が止まる。なにも考えず、体だけが動作を繰りかえすようになる。
「北原さん、ありがとう。もう、いいよ」松本さんが部屋に入ってきて、我にかえった。
「息子さん、来ましたか?」
「うん、先生と話してるよ。もうすぐ看取りになるから」
胸骨圧迫をやめると、たちまち小田切さんの心電図の波形はなだらかな一本線をのばしていった。
「じゃあ、看取りが済んだら、私がエンゼルケアをしますよ」
「そうしてもらえると、助かる」松本さんは眉をハの字にし、表情をほころばせた。
「夕べはほんと、大変だったぁ。私、最近、あたるみたいなんだよね。この前の夜勤でも、神保さんを看取ったし」
「たまたまですよ」
「そうかなぁ。今度、お祓いにでも行ってこようかなぁ」
ふたりで患者さんの衣服を整え、布団をかけた。もう、手足はすっかり青ざめ、冷たくなっていた。
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