第2話 逢魔がどきをひとり

 顔を両手でパンパンと二回たたき、紺色のスクラブを頭からかぶる。白いパンツに足を片方ずつ突っこみ、ウエストでボタンをとめジッパーをあげる。

 朝の血圧の上がりきらない時間帯も、気持ちが淀みそうで好きでない。はやくアドレナリンよ吹きだせ、自分に言い聞かせる。ロッカールームを出て、廊下を歩きだしたところでようやく気持ちにエンジンがかかる。

 長い廊下を歩き、渡り廊下を挟んでふたつのエレベーターを使い、ようやく自分の病棟にたどりつく。ナースステーションの入口を「おはようございます」とくぐるころには、ちょうどエンジンがあがっている。

「北原さん、早すぎじゃない?」

夜勤の看護師が時計を見あげるのをいっしょに見ると、まだ朝の七時三十五分だった。始業時刻は八時半だから一時間近くも早く来ていることになる。けれども、患者さんの情報を電子カルテでくまなくとるには、私にはこの時間帯がちょうどいい。日勤者がぞろぞろ来たあとではパソコンを見る時間も限られるし、ざわついて集中できない。夜勤者が使っていない電子カルテを使うのだし、ナースコールだって対応するのだから、迷惑ということもないだろう。給料をよけいに出してくれとも言っていない。

 ところがホワイトボードで自分の担当する病室をチェックしたら、こんな日にかぎって入浴介助の当番とフリー業務だった。知っていればこんなに早くは来なかった。

けれども、自分のネームプレートのしたに西野さんのプレートが貼られているのを発見し、思わずにやけた。「入浴介助のあとは、ふたりともフリーか…」ひとりごとを言い、検査一覧が書かれたボードに目をやる。大掛かりな検査も特になさそうだ。今日は穏やかな一日になるのかな。思って、ナースステーションの奥の休憩室に引っ込んだ。

あたりまえだが、誰もまだ来ていない。しんとしている。

 畳の上に寝っ転がり、ぼんやり思いだした。


 中学二年生のころのことだ。

「華憐ちゃんって、さわりかたがちょっと気持ち悪いよね」

バドミントン部でいっしょだった北谷さんがおもむろに言った。

 当時、部活中、仲間同士でふざけてつつきあったり、膨らみはじめた胸を触りあったりするのは茶飯事だった。いつもと同じようにふざけあっていたときのことだった。もちろん、そうしていたのは自分だけではない。他の子たちだって、同じように胸を触りあっていた。触るどころか、鷲掴みにすることもあった。

なのに、淡々とした表情で彼女は言うのだった。「なんていうか、ちょっとエロい感じ。女の子同士でさわるのと違う感じ」

それが、どういう感じなのか自分ではよくわからなかった。なんで、私だけ? さいしょはそう思った。けれども、北谷さんから言われると、どこか納得してしまう。

北谷さんはすごく頭のいい子だった。たまたま席が前後ろになったとき、うっかり通知表を見てしまったことがある。成績が学年で五位だった。だからかもしれない。頭のいい人から指摘を受けると、真実かどうかという確固たる証拠を提示されなくても、そうだという断定的な気持ちにさせられる。

たしかに、私は女の子の肌にふれるのが好きだった。すべすべして、どこかもっちりしていて、その触り心地がすごく気持ちよかった。女の子と手をつなぐと、ついその手触りを確認したくなった。

部活の仲間同士集まっているところで言われ、「そんなわけないじゃん」と返したけれど、目が泳いだ。それからだ。なんとなくみんなと距離を置くようになっていった。

同じころにもうひとつ、ちょっとした事件があった。

私は女の子と遊ぶことを面倒くさいと感じていた。集まるといつも男子の話になった。好きな男の子が誰かとか、その男の子のどんなところが好きなのかとか、その男子の誰々が誰々に気があると思うとか、そういう話に。それがすごく煩わしかった。そもそも、恋というものがよく分からなかった。

小学校のころからつるんでいたさやかもそうした話が大好きで、いつの間にか自分ひとりが輪から外れるようになっていた。

放課後、部活が終わると、男友だちの春山んちへちょくちょく遊びにいった。春山とは小学校もいっしょだった。手先が器用でいつも船や飛行機などのプラモデルを組み立てたり、フィギュアを作ったりしていた。私も春山ほど器用ではないけれど、車のプラモデルをつくるのが好きだった。組み方や塗料の工夫など訊いているうちに親しくなり、宿題もそっちのけで春山んちに入りびたるようになった。

ちょうどスポーツカーの公道でのレースを題材にした漫画が流行っていたからか、ふたりとももっぱらスポーツカーばかり作った。今思うと、それは春山が私に合わせてくれていたのかもしれない。

春山んちに行くと、いつも春山のお母さんがお茶菓子を用意してくれた。だいたいがスナック菓子だったけれど、たまにドーナツやシュークリームが出てくることもあり、バドミントンをしたあとのすきっ腹にはもってこいだった。

その日も、同じようにプラモを組み立てにいったのだった。ジュースを片手にポテトチップスをかじりながら、先生やクラスメイトの悪口を言いあったり、春山が買った新しいコミックスを読んだり、そういういつもと変わらない夕暮れどきを過ごすはずだった。

なのに、いつもどおり春山の部屋へ入ったのに、その日はいつもと雰囲気がちがっていた。いつもはおもちゃ箱をひっくり返したようにごちゃっとした部屋なのに、きれいに片づけられていた。けれども、それは違和感のほんの一部で、どこか緊張で満ちた気配があった。

「珍しい、掃除したんだね」

私が驚いたように言うと春山はしばらくばつが悪そうな顔をしてうつむいていた。その目がさまよいながら私を見、表情が急いでかしこまった顔をつくった。

「今日は、ちゃんと話そうと思って」

改めてみると、春山はそう不細工な男ではない。かといってイケメンとは言えないけれども、通った鼻筋やきりっとした切れ長の目に、いくらか見応えがあった。

 春山の声が真剣だったから、緊張が私にも伝わってきた。

 嫌な予感がした。それは、自分の立ち位置がぐらつくような、幸福であった居場所がいっきに崩れて消えていくような、そうした予感だった。

「今日、お母さん、出かけてて、帰りが遅いんだ」

 春山の声はかすれていた。

「そう」はぐらかすように、私は棚に置かれていた作りかけのワンビアを手にとろうとした。それは、春山がワンエイティのパーツとシルビアのパーツを前半分、後ろ半分でつなぎ合わせている途中のものだった。

 手を伸ばした瞬間、春山の手が私の手にかぶさった。はっとした。春山の顔が私のすごく近くにあった。こうした光景って誰かが読んでいた少女マンガにあったよな、とぼんやり思った。意外にも私は冷静な口調で、「何を考えてるの?」と春山に尋ねた。明らかに春山の手は火照っている。このあと告白か、あるいはキスかなにかくるのかなと思っていたら、春山はいつからか流行りだした壁ドンをした。

「それは俺の台詞なんだよ」

「え」驚きはしたけれど、動揺はしなかった。ときめきも起こらなかった。

「なんで華憐は毎日、俺の部屋にくるの?」

 春山の息が顔にかかるのが煩わしい。

「なんでって……春山とは話しもあうし、プラモ作るのも面白いし。ただ、それだけだけど」

「それだけ?」

「うん」返事をしたとたん春山の手がゆるみ、ワンビアが床に落ちた。いくつかのパーツがばらけた。

 しゃがんでパーツを拾いながら、「春山は、私のこと、好きなの?」と尋ね、春山の顔を見あげた。人の顔が真っ赤に染まっていくのを、生まれてはじめて見た。

 春山は顔をふせた。

「俺のこと、ただの友だちだと思っているんなら、俺はもう無理だから。もう、来ないで。そのワンビアはやるからさ」

自分のプラモを組むためのニッパーやデザインナイフ、ピンセット、ヤスリ、接着剤などの工具をワンビアと一緒に紙袋につめ、押しつけるように私に渡した。

 私は事態をうまく飲みこめないまま、紙袋をぶらさげ、春山の家を後にした。

逢魔がどきをひとり帰った。

 魔物に呪いでもかけられたようだった。「さわりかたがちょっと気持ち悪い」と言った北谷さんの台詞が、いつまでも胸に残った。

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