生成AIの悪用の悪用

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

勝手につくれ!

 最初に断っておくと、そもそもの個人的な、AI及びその過渡かとに位置付けされるもの(以下「AI」とはそういうものを指すこととする)、に対する印象は、やや否定的。


 理由。


 まず、創造という営みにおける思い出的過程——歴史——が希薄化してつまんねぇ。


 で、AIの利便的側面は部分的に認めた上でも、やはりAIを使いこなせるか使いこなせないかでただでさえエグい経済格差がより拡大及びその拡大が加速する気がしてならないから。


 というかそもそも、AIって、人類全体にとって、必要? という疑問。


 もはや、人類に対する機械活用能力リテラシー要求は既に許容量限界を迎えているのは自明。


 スマホよくわからない、飲食店で携帯端末タブレット注文できない、会計セルフレジ操作不可。


 莫迦ばかにしてる、とかそういう話ではない、事実。


 お年寄り・イコール・機械音痴、の決めつけは危険だが、世代間の不毛な分断を助長する程度には、世代にった機械リテラシーの高低は認めざるを得ないはず。


 AIが人間の仕事を奪う? 奪わない? なんてのは正直どうでもよく、もっと根本的問題として、AIは我々の多くに幸福をもたらすか、を考えた時、そうかどうかは、非常に怪しい。


 便利道具ができても、ネットが普及しても、我々がしんにリソースをきたい対象、のための時間は、ちっとも増えず、むしろどうでもいい名もなきタスクの増設による忙殺ぼうさつを加速している。


 そんなことはない、と言える者がいるならば、それは恐らく、大衆をテクノロジーけにして資本主義社会に縛り付けることにより安定的かつ最大限量の搾取さくしゅ享受きょうじゅを望める支配者か、その手先か、自己家畜化と自己洗脳に気づかない苦労人くろうびと、だろう。


 少し噛み砕いて言えば……


 いわゆるエリートは、投じたもの以上に返ってくるものが良質多量で満たされやすいから社会の異常性に気づきにくいし、気づいても甘い汁を吸い続けるために地位に居座り続ける。


 いわゆる搾取寄りだと、あらゆるエネルギーが、処理すべき大波小波の連続に持って行かれてしまっており、社会のゆがみについて考えを巡らせる精神的肉体的時間的余裕は減るだろうし、制度上は認められている抵抗——ストなど——はもってのほか。


 各々のキツさ、やりがい、良さがあるなどという指摘は、一旦無視させていただく。


 本質は、格差はもはや隠しきれない、目を背けられる程度の規模ではないということ。


 同一労働同一賃金は、この異なる癖に広げ繋がれた世界グローブにおいては、難しい。


 AIはその構造——分断と両建てによる統治機構——を、益々強固にする。


 日々、私事しじにおいても公用こうようにおいても、「AIあるんだからもっといけるでしょ」的な要求が周囲から次々と向けられ、便利や効率化の結果の時間短縮コスト削減で生まれた「穴」は、別のタスクによって絶えず欠かさず埋められ、試練の報酬は試練、が無限ループされるに過ぎない。


 そんな地獄のような檻の中では、人間は遅かれ早かれ、壊れる。


 非常に息苦しい。


 ここまでは、漠然とした筆者の個人的AI観の話。



    🔺🔺🔺



 そしてここからはようやっと、「生成」AIの話。


 生成AIに、「こんなの作って〜」の要求をぶち込めば、文章、画像、音声、そしてそれらを組み合わせた映像が生成される。


 なるほど面白い、便利もあるだろう。


 が、この出現に伴った問題の一つは、「著名人の発信を、有る事無い事で、捏造ねつぞうできちゃうプロブレム」。


 生成の精度は、もはや、架空的生成されたものと、生成モデルの本当との、区別ができない水準まで来ている。


 完全に区別ができない、のは確かに恐ろしいが、必ずしも完全である必要は、ない。


 噂や印象操作や偏見に基づいて安直に下された判断に基づいて附和雷同ふわらいどうする偏差値五〇付近の大衆心理と、その心理の拡声者スピーカーたる偏差値六〇付近エリート層——偏差値七〇付近の層の傀儡、その外側にもさらなる入れ子有り——の声が、結局のところの世論になるのだから、生成された偽造物は、「ぱっと見」本当っぽければ、ひとまずはそれでいい。


 ソースのURLを添付しても、誰も見ない(ということを、鼻にかけるが筆者は数百本の評論をソース付きで投稿する中で確信した)し、見ないままに鵜呑うのみ、脊髄せきずい反射的に批判する。

 

 例えば玉石混交ぎょくせきこんこうの質の生成映像は、それが嫌悪的で刺激的スキャンダラスでさえあれば、誰か著名人に、多かれ少なかれの被害を与えるのは、容易である。

 

 が、ここで筆者がしたいのは、そういったありもしない他人下げネガキャン的媒体を生む生成AIの餌食えじきになる著名人への同情、ではない。


 むしろそれが逆手に取られる、のである。


 どういうことか。


 大衆の過半数には恐らく、情報の真偽を判断する知識も知恵も経験も能力も意欲もない(意欲があれば知識知恵経験能力はある程度備わる)。


 だから、生成AIによる産物は、もはや真偽の判別対象にならない(検察も裁判官も買収されていない明朗めいろうなる裁判、などにおいてなら話は別だが……)。


 つまりは情報の真偽は、どうでもいい。


 その情報の「存在」自体に、良くも悪くも価値がある。


 では、例えば、ある悪知恵の働く著名人についてのスキャンダラスな映像がSNSで拡散されたとして、その悪知恵の働く著名人のとる最適解は何かと言うと……


 己の、でっちあげられた悪事に対しても、本当にやらかした悪事に対しても、「全てそれは『生成AI』による捏造です」と一蹴してしまえばいい、のである。


 言い換えれば、生成AIという虚構的免罪符めんざいふ庇護下ひごかでは、魔法の呪文「ソーレハ・ネツゾーデス」を唱えれば、どんな悪事もやろうと思えばやれるのである。


 無論、生成AIによる生成精度が上がれば上がるほど、よくできたデマ情報——それは特に映像——が本当の情報と等号で結びつき、「ある著名人の真偽不明の悪行が捏造じゃないと言い切れない」、だから悪行を証明できない、という最低究極の悪魔の証明がまかり通りやすくなる。


 生成AIは、アリストテレスも煩悶はんもん不可避の、弁論術のゲームチェンジャーなのである。



   〈了〉



 【あとがき(作品紹介文に同じ)】


 筆者は生成AIに生み出せないものを意識して創作します。とりわけここカクヨムにおいては、字義的にも表音的にも象形的にも構造的にもという意味で、言葉の陳腐化を避けます。それが個性の発端です。そうでないものの優秀性が普遍的に低いとか、そうでないもののが完全に不要だとか、を言いたいわけではありません。ある創造は、その創造者にしかできない要素を含むから創造なのであり、そうでないなら、別の創造者が作ってもいい程度のものに落ち着くか、単に盗作になります。創造者が創造物に支配されるという下剋上は、少なくとも創造者を幸福にはしないように思います。


 ———創造者は我々です。

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