第5話風の囁きと灰の影
朝。
いつものようにパンの香りとともに目を覚ましたキノは、〈白風亭〉の厨房でマルナの手伝いをしていた。
窓の外では子供たちが走り回り、いつもの平和な村の朝――のはずだった。
だがその日、風が少し違った。
「……冷たい?」
パンを焼く炉の熱気の中でも、頬を撫でた風は妙に鋭く、乾いていた。
夏の終わりのような、けれど少し不穏な冷たさ。
マルナが顔を上げる。
「風が変わったね。北の方で何かあったのかも」
「何かって……?」
「わからないけど、谷の外で“灰風”が吹くときは、何かが動く前触れなんだ」
「灰風……?」
「色のない風さ。鳥も飛ばなくなる。昔は“塔の息吹”って呼ばれてたらしいよ」
塔――その言葉が、キノの胸に小さく刺さる。
(灰の塔……。宿で聞いた、あの噂)
***
昼、木工場にて。
「おう、キノ。こっち手伝ってくれ。棚板の仕上げだ」
グレンはいつも通りだったが、工房の外では風鈴がカラカラと忙しなく鳴っていた。
木の香りに混じって、どこか焦げたような匂いが漂う。
「……何か、焦げてます?」
「いや、煙か? おかしいな。……おい、トラヴィス! 外を見てこい!」
若い弟子が飛び出していき、すぐ戻ってきた。
「親方! 北の森のほうで煙が!」
「火事か?」
「わかりません! でも、灰みたいな煙が風に乗って……」
グレンが舌打ちし、鉋を置く。
「まったく、厄介な風だ。キノ、お前は宿に戻れ。女どもには火の始末をさせとけ」
「わかりました。でも――」
キノは空を見上げた。
灰色の煙が風に流され、陽光を薄く曇らせている。
(……普通の火じゃない。魔力の気配が混じってる)
胸の奥がざわめいた。
何かが、この世界の“自然な呼吸”を乱している。
***
〈白風亭〉に戻ると、村人たちがざわついていた。
「北の森で光が走った!」
「風が逆流してる、まるで竜巻みたいだ!」
マルナが心配そうに空を見上げる。
「まるで“循環期”の始まりみたいだね……」
キノの耳がぴくりと動く。
(“循環期”――また聞いた)
部屋に戻り、彼女は意識を集中させた。
「ステータスウィンドウ、開いて」
淡く光る半透明の文字が浮かぶ。
だが、その下に見慣れないメッセージが追加されていた。
【外的干渉を検知】
【魔力干渉:分類不明/観測対象:〈灰塔域〉】
「……観測、対象?」
ウィンドウが一瞬揺らぎ、消える。
まるで誰かに“監視”されているような錯覚。
キノは拳を握った。
「……アルガン」
異空間の闇がうねり、黒熊が姿を現す。
鋭い嗅覚で風を嗅ぎ取り、低く唸った。
「やっぱり、何か来るね」
この世界で初めて――キノはプレイヤーとしての“感覚”を取り戻した。
圧縮された魔力の流れ、周囲の魔素の歪み。
すべてが戦場の前兆を告げている。
「……確認だけ。戦いじゃない」
キノはこっそり村の外に行き、アルガンの背に跨がり、森へ向かう。
***
森の中は静まり返っていた。
鳥の声も、虫の羽音もない。
ただ、風が――灰を運んでいた。
「……灰の風。これが……」
枯れた木々の間を抜けるたびに、淡い灰が舞い、視界を覆う。
その中で、かすかに光る何かが地面に散っていた。
キノはしゃがみ込み、指で触れる。
灰ではなかった。微かに温かい――魔石の欠片。
(塔の“息吹”って、これのこと……?)
空気が一瞬、震えた。
遠くで雷鳴のような音が響く。
アルガンが低く唸る。
その瞬間、木々の影から“それ”が現れた。
灰をまとった獣。
狼のようでいて、輪郭がぼやけ、瞳は燃えるような紅。
「……魔獣」
村の老女が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
次の瞬間、キノは反射的にスキルを展開していた。
「スキル――〈エネルギーインパクト〉!」
光弾が放たれ、獣を貫く。
爆風。灰が舞い、二重の衝撃が地面を揺らした。
だが、獣は消えず、形を変えながら再構成する。
(再生する……!?)
キノの心拍が跳ね上がる。
本能的に感じた。――この世界の“敵”は、ゲームの敵とは違う。
倒すための“設定”ではなく、生きて、抗っている存在。
「……ごめん。でも、行かせられない」
二撃目を構えるキノ。
魔力が掌で凝縮し、世界が一瞬だけ静止する。
そして、光が弾けた。
灰の獣が消える。
残ったのは、風に溶けるような灰の粒と、ひとつの輝く欠片。
それは淡く脈動していた。
まるで心臓のように。
キノは手のひらにそれを包み、囁いた。
「……あなたたちは、何者?」
風が答えなかった。
ただ、灰の匂いだけが残った。
***
夜。
〈白風亭〉の部屋で、キノは欠片を机の上に置いた。
光が弱く明滅している。
そのたびに、彼女の視界に淡い映像が流れた。
――崩れ落ちる塔。
――赤い空。
――そして、灰の風の中で立つ、知らない戦士たち。
「……“過去”の映像?」
その声は震えていた。
ただの偶然ではない。
この欠片は、世界の“記憶”を内包している。
彼女は静かに椅子に座り、深呼吸した。
「……私は、ロイス。でも今は、旅人のキノ」
窓の外で、夜風が鳴った。
どこか遠くで、また雷のような光が走る。
その光を見つめながら、キノは呟いた。
「――世界が、動き出してる」
彼女の瞳には、もう“傍観者”の色はなかった。
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