第2話
鳳栄高校へ
卒業と同時に、勇太は鳳栄高校へ進んだ。
家から自転車で十分の距離だったが、父は言った。
「近いとか遠いとか関係ない。お前が選んだなら、逃げられない場所に身を置け。」
その一言で、勇太は寮に入ることを決めた。
寮の空気は鉄のようだった。
湿気と汗と畳の匂いが混ざり合い、いつもどこかに疲労が漂っていた。
先輩の一言が絶対。
食事も風呂も、順番は力の序列で決まる。
「学校は休む場所だ」と言われ、本当に誰も授業を聞いていなかった。
監督の山村道則は、寡黙な男だった。
一度でも彼の視線を受けた者は、二度と軽口を叩けなくなると言われていた。
言葉よりも沈黙で支配する。
それが山村のやり方だった。
稽古は地獄そのものだった。
体罰はなかったが、それより恐ろしいものがあった。
「見られている」こと。
誰かが自分を測っている。
その感覚が、心を削っていった。
夜、布団に潜ると、耳の奥で誰かの声がした気がした。
「負けるな」
それが誰の声だったのか、今でも分からない。
もしかすると、昔の父の声かもしれなかった。
⸻
鍛錬と祈り
冬、雪の混じる朝。
まだ陽の昇らないうちに、稽古場へ集合する。
裸足で土俵に立つと、霜の冷たさが骨に突き刺さった。
「寒いなら、動け。」
山村の声が響く。
勇太は足を踏み込んだ。
土が跳ね、息が白く宙に溶ける。
その瞬間、世界には何もなかった。
寒さも痛みも、恐れも。
あるのはただ、自分の体だけ。
そして、その体が次第に“武器”になっていく感覚。
それが、彼を救いもしたし、蝕みもした。
夜、風呂場の鏡に映る自分を見た。
肩には青あざ。
腕には古い傷。
しかし、その顔の奥に、確かな炎があった。
「俺は……まだ、足りない。」
小さく呟いた声が、湯気に溶けて消えた。
⸻
市川という存在
高校二年のとき、市川悠斗という同級生が転校してきた。
市川は細身で、体格では到底かなわない。
だが、稽古になると目の奥が光った。
技術と知恵で相手を翻弄するタイプだった。
最初の取り組みで、市川は勇太を見上げながら言った。
「力だけじゃ、勝てないぞ。」
その一言に、勇太の胸が熱くなった。
それから二人は毎日、放課後に自主練をした。
互いに何も語らず、ただぶつかり合い、汗を流した。
市川は、勇太にとって初めての“友”だった。
ある晩、寮の屋上で二人はカップ麺をすすっていた。
夜風が冷たく、遠くで犬が鳴いていた。
「お前、なんで相撲やってんの?」
市川が訊いた。
勇太はしばらく黙っていた。
「……分からねぇ。ただ、やめたら何も残らねぇ気がする。」
市川は笑った。
「それ、いいな。俺も同じだ。」
沈黙が落ちた。
その沈黙の中に、互いの痛みがあった。
それを知っている者同士の、静かな絆だった。
⸻
栄光の影
三年の夏。
鳳栄高校は全国大会で優勝した。
勇太は個人戦で準優勝。団体戦では主将としてチームを率いた。
優勝旗を掲げた瞬間、歓声が轟いた。
だが、その喧騒の中で、彼の心は奇妙に静かだった。
観客席の端に、父と母の姿があった。
父は腕を組み、何も言わない。
母は拍手をしていた。
その光景を見たとき、勇太は初めて「報われた」と思った。
だが同時に、それが「終わり」でもある気がした。
夜、宿舎の部屋で、優勝メダルを見つめながら思った。
土俵の上で流した汗も、流血も、歓声も――すべてが遠い夢のようだった。
「これでよかったのか?」
答えは出なかった。
———
旅立ち
卒業式の翌朝。
勇太は市川と並んで指之駅のホームに立っていた。
冷たい風が制服の袖を通り抜ける。
二人の手には、新しい折りたたみ携帯と、大学からの入部許可証。
「なあ、中原。」
「ん?」
「俺たち、これからどうなるんだろうな。」
勇太は小さく笑った。
「知らねぇ。でも、もう後ろは見ない。」
列車のライトが近づき、線路が唸った。
ドアが開く。
冷たい金属の音が、彼の胸を貫く。
その瞬間、勇太は思った。
――相撲は、まだ俺のすべてじゃない。
けれど、これからはそうなるかもしれない。
電車の中、窓に映る自分の顔が揺れる。
その瞳には、幼い頃のあの団地の灰色が、確かにまだ残っていた。
だが、その灰色の奥で、今は小さく、確かに燃えている。
小さな火だ。
けれど、それは、どんな嵐にも消えない炎だった。
⸻
(第一章・完)
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