第4話「それぞれの傷痕」
二月も半ばを過ぎた頃、真琴は初めて自分の過去を話した。
夕食後、二人で囲炉裏を囲んでいる時だった。沈黙が続いていたが、それは気まずい沈黙ではなく、むしろ心地よい静けさだった。
「一徳さん」
「何だね?」
「わたし……どうして死にたかったか、話してもいいですか?」
一徳は真琴を見た。その目は優しく、急かすこともなかった。
「話したいなら、聞くよ。でも無理はしなくていい」
「いえ……話したいんです」
真琴は深呼吸をした。
「わたしの両親は、わたしが生まれてから一度も仲が良かったことがありません。父は酒を飲むと暴力を振るい、母はそれから逃げるように殴られるわたしを無視しました」
言葉にすると、不思議と楽になった。
今まで誰にも話せなかったことが、一徳の前では自然に口から出てきた。
「学校でもいじめられました。容姿のこと、家庭のこと、何もかもが攻撃の的でした。先生も見て見ぬふりでした」
一徳は黙って聞いていた。
同情の表情も、憐れみの目もなく、ただ静かに受け止めていた。
「十六歳の時、もう限界でした。高校を辞めて、家を出ました。しばらくバイトで食いつないでいましたが、それも続かなくて……。気づいたら、生きている意味が分からなくなっていました」
「それで、あの山に?」
「はい。きれいな場所で死にたかった。それだけでした」
真琴は涙が出そうになったが、こらえた。
もう泣きたくなかった。泣くことすら、疲れていた。
「辛かったね」
一徳の言葉は短かったが、その声には深い共感があった。
「でも、君は生き延びた。それは偶然かもしれないし、必然かもしれない。どちらにせよ、今君はここにいる」
「生き延びて、良かったんでしょうか?」
「それは、わしには分からない。でも、少なくとも今、君は生きている。そしてわしは、君に会えて良かったと思っている。それだけじゃだめかな」
真琴は一徳を見た。
その顔には嘘がなかった。
「一徳さんは……辛いことはなかったんですか?」
「あったよ。たくさんね」
一徳は火を見つめた。
「特に、妻を失った時は辛かった」
◆
一徳は語り始めた。
「わしの妻、美枝子は、五年前に亡くなった。癌だった」
一徳の声は静かだったが、そこには深い悲しみの痕があった。
「美枝子とは大学で出会った。わしが哲学を教え、彼女は国文学を研究していた。結婚して、四十五年間一緒に生きた」
「長いですね……」
「長いようで、短かった。いつも一緒にいたから、彼女がいなくなった時、世界が色を失ったようだった」
一徳は遠くを見るような目をした。
「最初の一年は、何も手につかなかった。食事も喉を通らず、眠ることもできず、ただ彼女の写真を見つめていた」
「でも、今は……」
「今は、受け入れることができた……できたと思う。彼女はもういない。でも、彼女と過ごした時間は、わしの中に生きている」
一徳は微笑んだ。
「人は死んでも、記憶の中で生き続ける。そして、その記憶はわしを形作っている。だから美枝子は、今もわしの一部なんだ」
「怖くないんですか? 一人でいることが」
「最初は怖かった。でも、次第に孤独と仲良くなった。孤独は敵ではなく、友人なんだよ」
一徳は火に薪を足した。
「人生の後半、特に老年期はね、物事の見方が変わってくる。若い頃は、何かを得ることに必死だった。地位、名誉、お金、愛。でも年を取ると、むしろ手放すことの大切さが分かってくる」
「手放す?」
「そう。執着を手放す。こうあるべきという思い込みを手放す。そうすると、不思議と楽になるんだ」
真琴は一徳の言葉を噛みしめた。
手放す。
それは諦めることとは違うのだろうか?
「諦めるのとは違うよ」
まるで真琴の心を読んだかのように、一徳は言った。
「諦めは、負けを認めること。でも手放すのは、もっと積極的な行為なんだ。不要なものを手放すことで、本当に大切なものが見えてくる」
一徳はまた静かに火に薪をくべた。
「諦める……あきらめる、という言葉はもともと明らめるという言葉だった。それは明らかにする……という意味だ。仏教では、物事の真理や道理を明らかに見ることを意味していた」
揺らめく火の灯りが、ただ二人の顔を温かく照らしていた。
◆
その夜、真琴は自分の部屋で一徳の言葉を考えていた。
手放す。
執着を手放す。
でも、何を手放せばいいのだろう?
真琴は自分が何に執着しているのか考えた。
過去の傷?
他人からの承認?
生きる意味?
どれも手放せないように思えた。
でも、本当にそうだろうか?
それらを抱えたまま生きることが、自分を苦しめているのではないか?
そして自分は何を明らかにすればいい?
答えは出なかった。
でも、問いが生まれたことに、真琴は自分で少し驚いた。
死ぬことしか考えていなかった自分が、今は生きることについて考えている。
それは小さな変化だったが、確かな変化だった。
◆
翌日、一徳は真琴を近くの寺に連れて行った。
「ここの住職は、わしの古い友人でね」
寺は小さかったが、手入れが行き届いていた。庭には梅が咲き始めていて、白い花が冬の空気に映えていた。
住職は六十代くらいの穏やかな男性だった。
「一徳さん、久しぶりですね。そちらは?」
「真琴さんという。少しの間、わしの家にいる」
住職は真琴に微笑みかけた。
「ようこそ。どうぞ、お茶でも」
本堂でお茶をいただきながら、住職と一徳は昔話をした。真琴は黙って聞いていた。
「住職はね、若い頃は随分と荒れていたんだよ」
一徳が笑いながら言った。
「そうでしたね。あの頃は、人生に絶望していました」
住職も笑った。
「それが、どうして僧侶に?」
真琴が尋ねると、住職は少し考えてから答えた。
「絶望の底にいた時、ある老師に出会ったんです。その方に絶望を抱きしめなさいと言われました」
「抱きしめる?」
「はい。逃げるのでも、否定するのでもなく、絶望を受け入れなさいと。そうすれば、絶望の向こう側が見えてくると」
「向こう側……」
「わたしはその言葉を信じて、絶望と向き合いました。すると不思議なことに、絶望の奥に、小さな光が見えたんです」
住職は穏やかに微笑んだ。
「それが、わたしが僧侶になった理由です。あの光を、他の人にも見せてあげたかった」
真琴は何も言えなかった。
でも、住職の言葉は深く心に刻まれた。
帰り道、一徳が言った。
「人は皆、それぞれの傷を抱えている。でも、その傷が人を深くするんだよ」
「傷が……深くする?」
「そう。傷のない人間は、他人の痛みが分からない。でも傷を知っている人は、優しくなれる」
真琴は自分の傷を思った。
これが、いつか誰かの役に立つことがあるのだろうか?
信じられなかったが、信じたいとも思った。
この傷が、そうなるなら。
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