第2話「仮初めの屋根」
真琴は一徳の家に留まることにした――というより、留まらざるを得なかった。行く場所がなかったのだ。
最初の一週間、真琴は家の隅でひっそりと過ごした。一徳の邪魔にならないよう、できるだけ存在を消そうとした。しかし一徳は、真琴が思っているほど真琴を意識していないようだった。むしろ逆に、真琴が気を遣うことを気にしているようだった。
「真琴さん、もっと楽にしなさい。ここは今、君の家でもあるのだから」
「でも……」
「案ずることはない。わしは一人暮らしが長いから、人の気配があるのはかえって悪くないよ」
ある日、真琴は勇気を出して台所に立った。せめて食事くらいは作ろうと思ったのだ。しかし何を作っていいか分からず、冷蔵庫を開けて途方に暮れていると、一徳が現れた。
「手伝おうか?」
「いえ、わたしが作ります。せめてこれくらいは……」
「では一緒に作ろう。わしも料理は好きでね」
一徳は手際よく野菜を切り始めた。真琴も見よう見まねで手伝う。二人で作った味噌汁と煮物は、真琴が今まで食べた中で一番美味しかった。
「美味しい……」
「そうかね。それは良かった」
一徳は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、真琴は少しだけ心が和らぐのを感じた。
◆
一徳は多くを語らない人だった。過去のことも、自分の考えも、押し付けがましく語ることはなかった。しかし時折、ぽつりと言葉を漏らすことがあった。
「わしはね、長い間大学で哲学を教えていたんだ」
夕食後、二人で茶を飲んでいる時、一徳が言った。
「哲学……?」
「人生の意味、存在の本質、そういったことを考える学問だ。若い頃は、答えを見つけられると信じていた」
「見つかりましたか?」
「いいや」
一徳は笑った。
「答えなど、どこにもなかった。あるいは、答えを探すこと自体が間違いだったのかもしれない」
「じゃあ、何のために?」
「問い続けることそのものに意味があるのだよ。答えではなく、問いを深めること。それが哲学だとわしは思う」
真琴には難しくてよく分からなかった。
でも、一徳の言葉には不思議な説得力があった。
◆
二週間が過ぎた頃、真琴は少しずつ家事を手伝うようになった。掃除、洗濯、食事の準備。最初はぎこちなかったが、一徳が丁寧に教えてくれた。
「掃除はね、ただ汚れを取るだけではないんだ。空間を整えることで、心も整う」
一徳は箒で畳を掃きながら言った。
「物を大切に扱うこと。それは物への敬意であり、ひいては世界への敬意なんだよ」
真琴は一徳の言葉を聞きながら、雑巾で窓を拭いた。確かに、きれいになった窓から差し込む光は、何か特別なもののように感じられた。
ある日、真琴は庭で一徳が木の枝を剪定しているのを見た。
「手伝います」
「ありがとう。では、この枝を持っていてくれるかな」
真琴は言われた通りに枝を支えた。一徳は慎重に、しかし迷いなく枝を切っていく。
「木はね、切られることで強くなる。不要な枝を落とすことで、大切な枝に栄養が行き渡るんだ」
「人間も、そうなんですか?」
「さあ、どうだろうね」
一徳は微笑んだ。
「でも、時には手放すことも必要かもしれない。重荷を抱えたまま生きるのは辛いからね」
真琴は何も答えなかった。
でも、一徳の言葉は心の奥にゆっくりと染み込んでいった。
◆
夜、真琴は与えられた部屋で天井を見つめていた。ここに来て三週間。最初は数日で出て行くつもりだった。でも気づけば、この古い家が少しずつ居心地よくなっていた。
それが怖かった。
居場所ができてしまうことが怖かった。
また失うことになるから。
また傷つくことになるから。
真琴は布団に顔を埋めた。
涙は出なかった。
もう涙を流すことすら忘れていた。
翌朝、一徳はいつものように座禅を組んでいた。真琴はその姿を遠くから見ていた。背筋を伸ばし、微動だにせず、呼吸だけが静かに続いている。
何を考えているんだろう?
何も考えていないのだろうか?
そもそも座禅なんかして楽しいんだろうか?
真琴には想像もつかなかった。
座禅が終わると、一徳は真琴に気づいて微笑んだ。
「おはよう、真琴さん。よく眠れたかね?」
「はい……あの、一徳さん」
「何だね?」
「わたし……ここに、いてもいいんでしょうか?」
一徳は真琴の目を見た。その目は穏やかで、深かった。
「君がいたいと思うなら、いればいい。君が去りたいと思うなら、去ればいい。わしは君を縛るつもりはない」
「でも、迷惑では……?」
「迷惑だと思ったことはないよ。むしろ、わしは君がここにいてくれることを嬉しく思っている」
「どうして?」
「それは……わしにもよく分からないな」
一徳は笑った。
「ただ、君がここにいることが、自然に感じられるんだ。それで十分じゃないかね? 人がそこにいる、ということは当たり前じゃないんだ」
真琴は何も言えなかった。
でも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
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