第2話「仮初めの屋根」


 真琴は一徳の家に留まることにした――というより、留まらざるを得なかった。行く場所がなかったのだ。


 最初の一週間、真琴は家の隅でひっそりと過ごした。一徳の邪魔にならないよう、できるだけ存在を消そうとした。しかし一徳は、真琴が思っているほど真琴を意識していないようだった。むしろ逆に、真琴が気を遣うことを気にしているようだった。


「真琴さん、もっと楽にしなさい。ここは今、君の家でもあるのだから」


「でも……」


「案ずることはない。わしは一人暮らしが長いから、人の気配があるのはかえって悪くないよ」


 ある日、真琴は勇気を出して台所に立った。せめて食事くらいは作ろうと思ったのだ。しかし何を作っていいか分からず、冷蔵庫を開けて途方に暮れていると、一徳が現れた。


「手伝おうか?」


「いえ、わたしが作ります。せめてこれくらいは……」


「では一緒に作ろう。わしも料理は好きでね」


 一徳は手際よく野菜を切り始めた。真琴も見よう見まねで手伝う。二人で作った味噌汁と煮物は、真琴が今まで食べた中で一番美味しかった。


「美味しい……」


「そうかね。それは良かった」


 一徳は嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔に、真琴は少しだけ心が和らぐのを感じた。



 一徳は多くを語らない人だった。過去のことも、自分の考えも、押し付けがましく語ることはなかった。しかし時折、ぽつりと言葉を漏らすことがあった。


「わしはね、長い間大学で哲学を教えていたんだ」


 夕食後、二人で茶を飲んでいる時、一徳が言った。


「哲学……?」


「人生の意味、存在の本質、そういったことを考える学問だ。若い頃は、答えを見つけられると信じていた」


「見つかりましたか?」


「いいや」


 一徳は笑った。


「答えなど、どこにもなかった。あるいは、答えを探すこと自体が間違いだったのかもしれない」


「じゃあ、何のために?」


。答えではなく、。それが哲学だとわしは思う」


 真琴には難しくてよく分からなかった。

 でも、一徳の言葉には不思議な説得力があった。



 二週間が過ぎた頃、真琴は少しずつ家事を手伝うようになった。掃除、洗濯、食事の準備。最初はぎこちなかったが、一徳が丁寧に教えてくれた。


「掃除はね、ただ汚れを取るだけではないんだ。空間を整えることで、心も整う」


 一徳は箒で畳を掃きながら言った。


「物を大切に扱うこと。それは物への敬意であり、ひいては世界への敬意なんだよ」


 真琴は一徳の言葉を聞きながら、雑巾で窓を拭いた。確かに、きれいになった窓から差し込む光は、何か特別なもののように感じられた。


 ある日、真琴は庭で一徳が木の枝を剪定しているのを見た。


「手伝います」


「ありがとう。では、この枝を持っていてくれるかな」


 真琴は言われた通りに枝を支えた。一徳は慎重に、しかし迷いなく枝を切っていく。


「木はね、切られることで強くなる。不要な枝を落とすことで、大切な枝に栄養が行き渡るんだ」


「人間も、そうなんですか?」


「さあ、どうだろうね」


 一徳は微笑んだ。


「でも、時には手放すことも必要かもしれない。重荷を抱えたまま生きるのは辛いからね」


 真琴は何も答えなかった。

 でも、一徳の言葉は心の奥にゆっくりと染み込んでいった。



 夜、真琴は与えられた部屋で天井を見つめていた。ここに来て三週間。最初は数日で出て行くつもりだった。でも気づけば、この古い家が少しずつ居心地よくなっていた。


 それが


 居場所ができてしまうことが怖かった。

 また失うことになるから。

 また傷つくことになるから。


 真琴は布団に顔を埋めた。

 涙は出なかった。

 もう涙を流すことすら忘れていた。


 翌朝、一徳はいつものように座禅を組んでいた。真琴はその姿を遠くから見ていた。背筋を伸ばし、微動だにせず、呼吸だけが静かに続いている。


 何を考えているんだろう?

 何も考えていないのだろうか?

 そもそも座禅なんかして楽しいんだろうか?

 真琴には想像もつかなかった。


 座禅が終わると、一徳は真琴に気づいて微笑んだ。


「おはよう、真琴さん。よく眠れたかね?」


「はい……あの、一徳さん」


「何だね?」


「わたし……ここに、いてもいいんでしょうか?」


 一徳は真琴の目を見た。その目は穏やかで、深かった。


「君がいたいと思うなら、いればいい。君が去りたいと思うなら、去ればいい。わしは君を縛るつもりはない」


「でも、迷惑では……?」


「迷惑だと思ったことはないよ。むしろ、わしは君がここにいてくれることを嬉しく思っている」


「どうして?」


「それは……わしにもよく分からないな」


 一徳は笑った。


「ただ、君がここにいることが、自然に感じられるんだ。それで十分じゃないかね? 人がそこにいる、ということは当たり前じゃないんだ」


 真琴は何も言えなかった。

 でも、胸の奥が少しだけ温かくなった。


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