クローバーと半分の珈琲冷

比絽斗

夫婦の停滞

  予兆



 溶剤の匂いは、世界で最も穏やかな香だと、

高城渉(たかぎ わたる)は思う。


 部屋の隅に設えられた作業スペース。ピンセットで極小のパーツを掴み、エアブラシで繊細なグラデーションを吹き付ける。その集中と静寂だけが、渉が日常のノイズから逃れられる唯一の場所だった。


 仕上げたばかりのドイツ軍の戦車模型は、砂漠の光を浴びたように鈍く輝いている。


  高校時代


 妻の和美(かずみ)と出逢ってからずっと、渉の愛情は一途で、この模型作りへの熱意と行動力と同じだけ、彼女に注がれてきたはずだ。


ガタッと、リビングのダイニングチェアが引かれる音がした。


「ワタル、私、今日、職場の付き合いで遅くなるから」


 いつもより明るすぎる声が、静寂の壁を破る。リビングの扉は閉ざされているが、渉には和美の様子がありありと想像できた。


きっと、


 鏡の前で容姿に自信を持つ彼女らしい、少し攻めた服装を選んでいるに違いない。


「……ああ」


 渉は接着剤の蓋を閉めながら、短く応じた。言いたいことは山ほどあった。


「この前もそうだっただろう」


「また新しい服か」


「最近、その『職場の付き合い』が多すぎないか」


だが、


「一言多い」


と和美に誤解され、口論になるのが怖かった。和美の持つ猪突猛進のバイタリティは、渉の繊細さを一瞬で焼き尽くす炎のようだ。


 立ち上がり、キッチンに向かう。淹れたての珈琲を半分だけカップに注いだ。


 もう半分は、彼女のために残す。


昔からの習慣だ。彼女は帰宅後、冷めた珈琲を嫌がらず、むしろ


「ワタルの愛が詰まってる」


と笑って飲んだものだ。


 カウンターの上に、和美が忘れていったのだろう、小さな四葉のクローバーのペンダントが置いてあった。


かつて、渉が和美の誕生日に贈ったものだ。


 高校生の頃、彼がアルバイト代を握りしめて買った、ささやかな記念品。


それを眺めながら、渉はふと疑問に思う。


――今日の和美は、帰ってきて、この半分の珈琲を飲むだろうか?


 そして、そのクローバーは、渉の目の前にある。彼女の胸元には、今、何が輝いているのだろうか。


 渉の胸の中に、溶剤の香りでは覆い隠せない、錆びついたような違和感が広がり始めていた。


  その違和感が明確な「予兆」に変わったのは、それから三日後のことだった。


 模型作りとは対極にある、渉のもう一つの趣味、登山用品のメンテナンスを終えた日の夕方


 高校時代からの悪友であり親友である古賀裕介(こが ゆうすけ)から、オンラインゲームのボイスチャットにメッセージが入った。古賀は渉にとって、人見知りの激しい自分でも、鎧を脱いで本音を話せる、唯一の安全地帯だった。


 深夜零時を回り、和美がまだ帰宅していないのを確認してから、渉はヘッドセットを装着した。


『よう、ワタル。また夜なべか? お前の模型は緻密すぎて見てるだけで目が疲れるわ』


 古賀の声は、いつものように軽薄だが、どこか真剣な響きを帯びていた。渉は、模型制作の進行状況を語り始めたが、話はすぐに「和美の異変」へと滑り落ちる。


「最近、和美の帰りが遅いんだ。職場の飲み会とか、研修とかで。……きっと僕が、模型とかアウトドアにばかり夢中で、寂しい思いをさせているせいだ」


 渉は、そう結論づけることで、心の平安を保とうとした。


すべて自分の責任にしてしまえば、和美を責めずに済む。


『おい、ワタル。お前の悪い癖だぞ』


古賀は、はっきりとそう言った。


『「一言多い」上に、問題の原因を全部自分で引き受けようとする。それは愛情じゃない。ただの責任逃れの癖だ。お前は和美の世話係にでもなりたいのか?』


 渉は息を詰めた。いつもなら反論する「一言」が、喉の奥で詰まった。古賀の指摘は、あまりにも的確だったからだ。


「……古賀、お前、何か知ってるのか」


 古賀は数秒黙り込んだ。その沈黙が、渉の抱く違和感を、重い確信へと変えていく。


『半年前、駅前の飲み屋で、和美と見知らぬ男が二人でいるのを見た。……お前が模型に熱中してる間に、彼女は他のところで自分のバイタリティを肯定してくれる刺激を見つけたんだろうよ。相手はきっと、お前の繊細さとは真逆の、若くて無責任なヤツだろうな』


 古賀は、渉が知る由もない、


「大学生のアルバイト」


という具体的な情報を口にした。


 それは、古賀が和美の大学時代の友人から聞いた、職場での世間話だった。


 渉は、頭が真っ白になるのを感じた。


『いいか、ワタル。お前の模型作りはなんだ。『正確な観察』と『緻密な組み立て』だろう? それをお前の人生に使え。感情はゴミ箱に捨てて、事実(ファクト)だけを正確に集めろ。証拠がないと、お前のその繊細な精神は、和美の感情論に簡単に潰されるぞ。』


古賀の言葉は、まるで軍事模型の設計図のように、冷徹で論理的だった。


 渉は、自分の手元にある精密なカッターやピンセットを凝視する。その道具が、今は模型ではなく、自分の人生を「組み立て直す」ための道具に見えた。


「……どうすればいい」


 渉は、感情的な問いから、具体的な行動の指示を求める問いに変わった。


その瞬間


 渉の「人見知り」は一時的に引っ込み、


「行動力あり」の側面が、「緻密な分析」という形で駆動し始めた。


 古賀の助言に従い、


 渉は、まるで極秘ミッションの準備のように、和美の「観察」を開始した。


 まず、渉は二ヶ月分のクレジットカードと、和美の生活費用のレシートをすべて集めた。


 和美は、猪突猛進ながらも、金銭管理はきっちりしている。


しかし、


 和美の勤務先(雑貨と古着を扱うセレクトショップ)とは無関係の、特定のチェーン店のカフェと、高級なホテルのバーのレシートが、特定の曜日に集中していることを発見した。


 さらに、渉は和美のスマートフォンに注意を払うようになった。和美は、帰宅後も常にスマホを肌身離さず、寝る前には必ず通知履歴を消去していた。しかし、


 ある夜、充電器を挿す瞬間に、一瞬だけ画面に残った『藤井』という名前と、見慣れないメッセージアプリの通知マークを渉は見逃さなかった。


藤井 駿(ふじい しゅん)


古賀が言っていた、大学生のアルバイトの名前。


 和美と駿が接触している可能性の高い曜日、時間帯、そして場所の「線」が、「面」となって浮かび上がった。


そして、運命の週末


 和美は、地方の展示会へ行くと言って、午前中に家を出た。


 渉は、和美が残していったスケジュール帳から、その展示会が「来週の土曜」であることを知っていた。


 渉は、模型制作の道具を棚の奥に仕舞い、代わりにアウトドア用の変装具一式を取り出した。キャップ、サングラス、そして誰にも気付かれないための地味な服装。


 人見知りな渉が、人混みの中に自分を放り込むという、かつては考えられなかった行動だった。


「正確なファクトだけを収集する」


 渉は、このミッションを遂行することによって、自分の心をこれ以上傷つけないという、最後の防衛線を引いた。


昼下がりの繁華街 


 和美が頻繁に利用していた、あの特定のカフェの近くで、渉は張り込みを開始した。心臓がうるさいほど脈打っている。


待つこと二時間


それは、起こるべくして起こった。


(この後、「発覚の瞬間」を経て、「承:展開編」へと続きます。)






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