第一章:道中
都内から高速道路に入ると、土曜日の朝だからだろうか、道は驚くほど空いていた。平日なら絶対に渋滞する場所も、今日はスイスイと流れている。先輩が運転席でラジオをつけて、交通情報が流れ始めた。渋滞はないらしい。ニュース、天気予報。今日は全国的に晴れだという。
「天気良くて良かったな」
先輩が言った。空は青く晴れている。雲一つない。窓の外を見ると、都市部の景色がだんだんと変わっていく。高層ビルが減り、低層の建物が増え、やがて住宅街になる。そして畑や林が見え始める。都会から田舎へ。この変化が、なんだか好きだ。車での出張は、こういう景色の変化を楽しめるからいい。
「温泉出るんですよね?」
後部座席から同僚の声がした。
「ああ。小さい温泉だけどな」
先輩が答える。
「点検終わったら、入れるかもしれないぞ」
「楽しみです」
同僚は嬉しそうだった。私も少し楽しみだった。温泉、久しぶりだ。最後に入ったのはいつだっただろう。去年の冬だったか。仕事で疲れた体を、熱い湯に浸ける。それだけで、気持ちが楽になる気がする。
高速道路を走り続ける。郊外を抜けると、標識が次々と現れては後ろへ流れていく。私は窓の外を眺めながら、なんとなくぼんやりと考えていた。この辺り、子供の頃に来たことがある。父に連れられて。神社の祭りで、わんぱく相撲をやった。初戦で負けて、泣きながら石段を降りた記憶が、今でも鮮明に残っている。
あの時の悔しさを、今でも思い出す。相手の顔は覚えていない。ただ、土俵の上で転がされた瞬間の衝撃と、観客の笑い声だけが記憶に残っている。父が「よく頑張ったな」と言ってくれたけれど、私は泣き止めなかった。綿菓子を買ってもらって、それを食べながらやっと落ち着いた。甘い味が、今でも思い出せる。
「そういえばさ」
先輩が話しかけてきた。
「お前、この辺って行ったことあるんだっけ?」
「子供の頃、一度だけです」
「何しに行ったんだ?」
「神社の祭りです。わんぱく相撲やってて」
「へえ。勝ったのか?」
「いえ、初戦敗退です」
私は答えた。先輩が笑った。後部座席から同僚も笑った。恥ずかしい思い出だ。でも、懐かしい。
「泣きながら帰った記憶があります」
「子供らしいな」
先輩が言った。
本当に、子供だった。あの頃の自分は、負けることが本当に悔しかったんだろう。今なら笑い話だけど、当時は真剣だった。
車は北へ向かっている。このあたりから、遠くに山が見え始める。
「あれが例の山か」
先輩が前方を指差した。なだらかな稜線を持つ、大きな山。標高は千メートルを超える。そうだ、あの山だ。子供の頃、父に連れられて見た山。「あれが山だよ」と教えてくれた。もう何年も見ていなかった。でも、変わっていない。あの時と同じ形をしている。山は変わらないんだな、そう思った。なんだか、それが少し嬉しかった。
「目的地は、あの山の中だな」
先輩が地図を確認しながら言った。
車は高速道路を降りて、一般道に入る。道幅が狭くなった。片側一車線。対向車とすれ違う時は、少し緊張する。周囲の景色も変わってくる。街を通過する。商店街があり、スーパーがあり、ファミレスがある。普通の地方都市だ。でもそれも束の間。街を抜けると、また景色が変わる。
平野が終わり、山々が連なり始める。道は緩やかに登っていく。トンネルを抜けると、視界が開けて、山の斜面に小さな集落が点在しているのが見えた。木々が増えてくる。杉、檜、雑木林。秋の日差しが、木々の隙間から差し込んでいる。葉が色づき始めている。黄色、オレンジ、赤。
「紅葉、始まってますね」
同僚が言った。
「もう十月だからな」
先輩が答えた。
そうか、もう秋なんだな。時間が経つのは早い。道沿いに、時々民家が見える。古い木造の家だ。畑があり、田んぼがある。稲刈りが終わったばかりなのか、田んぼには切り株が並んでいる。のどかな風景だ。こういう景色を見ると、都会の慌ただしさを忘れられる気がする。
「静かなところですね」
同僚が言った。
「田舎だからな」
先輩が答えた。
本当に静かだ。車の音以外、ほとんど何も聞こえない。都会の喧騒が、嘘みたいだ。車は山道を登っていく。標高が上がるにつれて、空気が冷たくなってくる。窓を少し開けると、冷たい風が入ってきた。ああ、山の空気だ。懐かしい。深呼吸すると、木々の匂いがする。
車は進む。カーブが多い道だ。ハンドルを切るたびに、車体が左右に揺れる。私は助手席で、時々先輩の運転を見ながら、時々窓の外を見ていた。同僚は後部座席で、スマホを見ているようだった。時々、画面をスクロールする音が聞こえる。
「もうすぐだ」
先輩が言った。
道路脇に、看板が立っていた。古い看板だ。文字が少し掠れているが、読める。「ようこそ」と書かれている。私たちは、目的地の地区に入った。
集落は小さかった。人口は数百人といったところだろうか。郵便局があり、商店が二、三軒。小さな診療所。バス停。自動販売機。普通の田舎の集落だ。人の姿はあまり見えないが、時々おばあさんが歩いているのが見える。買い物帰りだろうか。手に袋を持っている。
車はゆっくりと集落を抜けていく。すれ違う車は少ないが、時々軽トラックとすれ違う。地元の人だろう。皆、こちらを一瞬見るが、すぐに視線を外す。
道なりに進んでいくと、木々が増えてきた。道の両脇を杉林が覆っている。日差しが遮られ、少し薄暗くなる。トンネルの中にいるような感じだ。でも、時々木々の隙間から日差しが差し込んで、道路を照らす。
「旅館は、もう少し先だな」
先輩がナビを見ながら言った。
車は進む。カーブを曲がると、視界が開けた。そして、木造の大きな建物が見えてきた。
「あれだな」
古い旅館だ。外壁は木造で、黒ずんでいる。屋根瓦も古いが、手入れはされているようだ。玄関の前に、小さな駐車場がある。砂利が敷かれている。看板には旅館の名前が書いてある。営業中だ。建物は古いが、玄関には花が飾られていて、清潔感がある。
「着いたな」
先輩が車を駐車場に入れた。砂利を踏む音がする。エンジンを切ると、静けさが車内を満たした。
午前十一時。私たちは、旅館に到着した。
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