何もしない喫茶店のナマケモノさん ~あなたの"しなくていいこと"、教えます~
ソコニ
第1話「完璧な弁当の母親」
ユキがスマートフォンの画面を閉じたのは、午前0時を回った頃だった。今日もまた、誰かの「丁寧な暮らし」を眺めて過ごした。色とりどりの野菜が並ぶ朝食、手作りのグラノーラ、子どもたちの笑顔。
明日も5時に起きなければ。
そう思いながら、ユキは目を閉じた。体の芯が、鉛のように重い。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。体が覚えているのだ。まだ暗い台所で、ユキは無言で包丁を握る。
卵焼き、ブロッコリー、ミニトマト、鶏の照り焼き。彩りを考えて、枝豆も添える。
完成した弁当を、自然光の入る窓際に持っていく。スマートフォンを構え、何度かアングルを変えて撮影する。少しフィルターをかけて、ハッシュタグをつけて投稿。
「#今日のお弁当 #小学生ママ #丁寧な暮らし」
画面には、すぐに「いいね」がつき始める。
でも、ユキは鏡に映る自分の顔を見ていない。
子どもたちを学校に送り出す時、長男が言った。
「ママ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
ユキは、スマートフォンの画面を見たまま答えた。弁当の写真を編集している。
長男は、少し寂しそうな顔をして、玄関を出て行った。
その表情に、ユキは気づかなかった。
洗濯物を干し、掃除機をかけ、夕飯の下ごしらえをする。気づけば正午を過ぎている。ソファに倒れ込むように座ると、視界が少しぼやけた。
いつから、こんなに疲れていたんだろう。
ふと、リビングの棚に置かれた一枚のチラシが目に入った。
「何もしない喫茶店――あなたの"しなくていいこと"、教えます」
いつ、どこで手に取ったのか覚えていない。
何もしない?
その言葉だけが、妙に頭に残った。
翌日、子どもたちが学校に行っている間に、ユキはその住所を訪れていた。
駅から少し離れた、小さな路地の奥。古い木造の建物。手書きの看板に「何もしない喫茶店」とある。
ユキは、少し迷った。
でも、なぜか扉に手をかけていた。
ギシリ、と音を立てて扉が開いた。
木の香りがした。いや、違う。本物の、木だった。
天井から太い枝が渡してあり、その上に、一匹の動物がいた。
ナマケモノだった。
ユキは、声も出なかった。
ナマケモノは、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと――顔を上げた。大きな黒い目が、ユキを見つめる。その目は、穏やかで、深かった。
「いらっしゃいませぇ」
声が、聞こえた。
ナマケモノが、喋った。
ユキは、一歩後ずさりした。
「驚かれましたかぁ?」
ナマケモノは、枝からゆっくりと――5分ほどかけて――降りてきた。カウンターの奥にある、木の枝を模した高い椅子に座る。
「ここは、何もしない喫茶店です」
その声は、低く、静かで、不思議と耳に心地よかった。
ユキは、ようやく口を開いた。
「あの……本物の、ナマケモノ……ですか?」
「そうですよぉ」
ナマケモノは、小さく笑った。片目だけ、細める。
「人間も、昔は喋れない動物だったでしょう? 私は、その逆ですぅ」
ユキは、何と答えていいかわからなかった。
でも、不思議と怖くなかった。
このナマケモノは、何も奪わない気がした。
「お座りくださいぃ」
ナマケモノは、カウンター席を示した。
ユキは、促されるまま座った。
「お茶を、入れますねぇ」
ナマケモノは、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと――ティーポットに手を伸ばした。湯呑みを取り出す。お湯を注ぐ。
その動作は、人間の10分の1の速度だった。
ユキは、最初イライラしかけた。早く、早く。
でも、次第に……心が、落ち着いてきた。
店内は静かだった。時計の音。外の風。遠くで鳴く鳥の声。
ユキは、いつから、こんな静かな時間を過ごしていなかったんだろう。
5分後、ようやくお茶が出された。
「どうぞぉ」
ユキは、湯呑みを手に取った。温かい。
一口飲む。
緑茶だった。少し苦くて、でも優しい味がした。
「ありがとうございます」
「どういたしましてぇ」
ナマケモノは、じっとユキを見ていた。
その視線は、責めるでもなく、探るでもなく。
ただ、いた。
しばらく沈黙が続いた。
でも、その沈黙は、不快ではなかった。
ユキは、自分から口を開いた。
「私……毎朝、お弁当を作っています」
「そうですかぁ」
「彩りを考えて、栄養バランスも考えて。写真も撮って、SNSに載せて」
言葉が、少しずつ出てくる。
「でも、最近すごく……疲れてて」
ナマケモノは、何も言わなかった。
ただ、じっと聞いていた。
「でも、母親なら当たり前ですよね。ちゃんとしたお弁当を作らないと」
ナマケモノは、3秒間、目を閉じた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「お弁当を作っている時、何を考えていますか?」
ユキは、少し考えた。
「何を……?」
「はい」
「彩りが……足りないかなとか、栄養が偏ってないかなとか」
「他には?」
ユキは、言葉に詰まった。
他に……
ナマケモノは、待っていた。
急かさない。
ただ、待っている。
ユキは、自分でも気づいていなかった言葉が口をついて出た。
「写真映えするかな、って」
その瞬間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
ナマケモノは、何も言わなかった。
ただ、静かにユキを見つめていた。
耳が、少し下がっている。悲しそうな顔。
「私……」
ユキの声が、震えた。
「私、子どもたちのために作ってるって思ってたけど……本当は、"いいね"のために作ってたのかもしれない」
涙が、一筋流れた。
ナマケモノは、何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
その存在だけが、ユキの心を少しずつ落ち着かせていった。
しばらくして、ナマケモノがゆっくりと口を開いた。
「お子さんの顔を、最後にちゃんと見たのはいつですか?」
ユキの息が、止まった。
いつだろう。
毎朝、「行ってきます」と玄関を出ていく子どもたち。
でもユキは、その時いつもスマートフォンの画面を見ていた。
弁当の写真を編集していた。
投稿ボタンを押していた。
「わからない……」
ユキは、顔を覆った。
「私、いつから子どもの顔を見てなかったんだろう」
泣いているユキを、ナマケモノはじっと見ていた。
何も言わない。
慰めない。
励まさない。
ただ、いる。
それだけだった。
どれくらい経っただろう。
ユキは、顔を上げた。
「冷凍食品を使ったら……ダメですか」
ナマケモノは、小さく首を傾げた。
「どう思いますか?」
「わからない。でも……」
ユキは、自分の手を見つめた。
「少し、楽になるかもしれない」
ナマケモノは、ゆっくりと――本当に、ゆっくりと――頷いた。
尻尾が、微かに揺れている。
「それなら、試してみてもいいかもしれませんねぇ」
それは、許可ではなかった。
背中を押す言葉でもなかった。
ただ、そこに選択肢があることを、静かに示してくれただけだった。
ユキは喫茶店を出た。
外は、少し明るくなっていた。
すっきりした気持ちには、なっていなかった。
ただ、胸の奥に小さな隙間ができたような、そんな感覚だけがあった。
その翌週の水曜日、ユキは初めて冷凍食品を弁当に入れた。
唐揚げと、冷凍のブロッコリー。それに、昨夜の残りのご飯。
写真は撮らなかった。
いや、撮ろうとして、やめた。
子どもたちを送り出す時、ユキは玄関でスマートフォンではなく、子どもたちの顔を見た。
「行ってきます!」
長男の、少し寝癖がついた髪。
次男の、靴下が左右反対になっていること。
今まで、気づいていなかった。
「いってらっしゃい」
ユキは、笑顔で言った。
長男が、少し驚いたような顔をして、それから笑った。
「ママ、今日なんか違うね」
「え?」
「なんか……笑ってる」
子どもたちが学校から帰ってきた時、ユキは玄関で待っていた。
「ただいま!」
長男が駆け寄ってくる。
「お弁当、どうだった?」
ユキは恐る恐る聞いた。
「うん、おいしかった」
長男は、何も気づいていない様子でランドセルを放り投げた。
「ママ、今日公園行く?」
ユキは少し驚いた。
いつもなら「疲れてるから」と断っていた。
でも今日は、なぜか「うん」と言えた。
その夜、ユキは子どもたちに絵本を読んだ。
長男は、ユキの膝の上で眠りについた。次男は、ユキの腕にもたれかかっている。
ふと、長男が寝言のように呟いた。
「ママ……」
ユキは、息子の頭を優しく撫でた。
これでよかったのか、まだわからない。
完璧な母親には、なれていない。
でも、少しだけ、楽になった。
それだけで、今は十分な気がした。
スマートフォンの通知が光っている。
誰かの「丁寧な暮らし」が、また更新されているのだろう。
でも、ユキは画面を開かなかった。
今、目の前にある温かさだけで、十分だった。
いや、十分かどうかもわからない。
ただ、これが今の自分だった。
数日後、ユキは再び「何もしない喫茶店」を訪れた。
扉を開けると、ノロは天井の枝にぶら下がっていた。
目を閉じて、じっとしている。
眠っているのかもしれない。
ユキは、そっと店を出ようとした。
「ユキさん」
声がした。
ノロは、薄く目を開けていた。
「どうでしたかぁ?」
「あの……少し、楽になりました」
「そうですかぁ」
ノロは、小さく笑った。
尻尾が、ゆっくりと揺れている。
「それは、よかったですねぇ」
ユキは、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いえいえぇ」
ノロは、また目を閉じた。
「完璧じゃなくても、あなたはあなたですよぉ」
その言葉が、ユキの胸に温かく沈んでいった。
ユキが店を出た後、ノロは一人、呟いた。
「みんな、頑張りすぎですねぇ」
そして、大きく伸びをした。
「ふわぁぁ……」
時計の針は、ゆっくりと進んでいく。
急がなくても、時間は流れる。
それでいい。
ノロは、また枝にぶら下がった。
何もしない時間が、ゆっくりと過ぎていく。
(第1話 完)
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