仮面舞踏会を終えたなら

深山心春

第1話

 大きな扉を開ける。仮面舞踏会は、どこか淫靡な雰囲気に包まれていた。私は顔をすべて覆う仮面をつけて金の髪もひとまとめに編み込んだ。ドレスは落ち着いたすみれ色。

「お嬢様、本当に大丈夫でしょうか。こんなこと、旦那様に知られたら――」

「知られても先生が咎められないよう計らうわ。私の結婚前の最後の遊びに、付き合ってくださるでしょう?」

 そう尋ねると、家庭教師でもあるマチルダ先生は短い息を吐いた。先生も大ぶりの仮面をつけている。

 花の都での夜の密やかなお楽しみでもある仮面舞踏会。ここでは誰もが素性を隠し、一晩の恋人を見つける。退廃と淫靡。それらが薄暗いホールで揺蕩っている。

 私は真っ直ぐに顔を上げて、目当ての方を探した。髪の色はブラウン、瞳はスカイブルー、どこか甘やかな顔立ちを仮面で隠して、彼はきっといるはずだ。

 ――いた。豪奢な服を着て、彼は友人なのだろう、と談笑していた。私の胸が早鐘を打つ。マスク越しにもわかる、優しげなその瞳。整った甘い顔立ち。私は臆することなく、彼の前に立つと一礼をした。彼は私に目をやると少し不思議そうな顔をした。それはそうだろう。仮面舞踏会で、顔全体を覆うマスクをしているのは私くらいだ。

 ちょうどよく曲が鳴り始める。彼は私の手を取った。触れた指先から熱が伝わる。

「あなたは、私の知っている方ではないようですね」

「そうでしょうか」

 仮面越しの声はくぐもっていて上手く私の声を隠してくれる。彼の腕が私の背にまわる。音楽に合わせてドレスがひらひらと舞う。

「ダンスがお上手なのですね」

「ダンスは好きではありませんが、練習しましたから」

 いつの間にかホールの真ん中で踊っている。ふたり一緒に、くるくる、くるくると。

「お名前を聞いても?」

「いいえ。でもあなたはアルベルトさま。侯爵家の」

「当たりです。僕だけ知られているのはずるいな」

 くるくる、くるくる、と私たちは踊った。

 なんて、幸せなんだろう。

 ああ、悔いはないと私は思う。幼いころからお慕いしていた。小さい頃は良く遊んでもらった。優しく屈託のない、その笑顔が大好きだった。私を呼んでくれるひどく優しい声も。

 花摘みをした、一緒に駆け回った、疲れるとおぶってくれた。幸せな幼い日々だった。

 けれどそれもお兄さまが結婚したことで、変わってしまった。遠くから見るだけの恋も、今日で終わる。私は二十も年の離れた男性に嫁ぐ。

 最初で最後の思い出を作れたことに、私は満足している。

 くるくる、くるくる、ドレスの裾が翻る。もうそろそろ曲も終わる。そして、私の恋も永遠にこの胸に封じ込む。マチルダ先生に無理を言って連れてきて貰って良かったと心から思った。

 曲が終わる。離れる前に彼は「失礼」と言って、私の仮面を取った。

「……まさか、、オフィーリアか?」

 私の双眸からは知らず、涙が流れていた。急いで顔をうつむけ、彼の前から立ち去ろうとした。

 すぐに彼に捕まって手首を握られる。そのまま庭へと連れて行かれた。ベンチに座らされて、私は気まずさに顔をそらした。

「オフィーリア。ダメじゃないか。子どもがこんなところへ出入りしては。お父上のクロムウェル伯爵も心配するぞ」

「もう、子どもじゃないわ、アルベルトお兄さま。私、もう17よ。嫁ぐのよ」

「――そうか、そうだったな」

「最後にお遊びをしたかったの。遊び慣れているアルベルトお兄さまを見習って」

 私は微笑った。仮面を取られ、素顔を見られてしまったのならば、見えない仮面を被るしかない。

「オフィーリアにこんなところは似合わないよ。すぐに帰りなさい」

「そうみたいね。思ったよりも面白くなかったし、もう帰るわ」

 そう言って私は微笑む。どうか、どうか、ばれませんように、と思いながら。

 私のこの胸の苦しさを、恋しさを、離れがたさを、すべてを仮面で覆い隠して、笑顔で離れられますように、と。

「じゃあ先に帰るわ、アルベルトお兄さま」

 小さな頃から憧れていた。6歳も年の離れた従兄弟。そっと物陰から思うだけの恋。けれど、私にはただ1度の大切な恋だった。

「オフィーリア」

 その声に振り返ると、アルベルトお兄さまは仮面を取って優しく微笑んだ。私の大好きな、お兄さまの微笑みだった。

「気をつけて帰りなさい」

「はい……」

 お兄さま、私、知ってるのよ。お兄さまは、奥さまとうまくいっていないのでしょう? それでも仮面をつけて、表面上は仲睦まじいふりをするのね。

 私は歩みを進める。緑の下草が優しい音を立てて、いっそう、悲しくなる。

 だから、きっと、私にもできるわ。笑顔を張り付けて、心で泣くこと位、私にもできるわ。

 いいえ、してみせるわ。

月の青白い光が私を照らす。私は1度だけ振り返った。アルベルトお兄さまは、やはり月の光に照らされて動かずそこに立っていた。

 優しい、けれどどこか苦しげな微笑みを浮かべて。

 私は手にしていた仮面を捨てた。顔すべてを覆い隠す仮面は、ぽとりと音を立てて緑の下草に落ちた。

 私はきっと今日のことを忘れない。アルベルトお兄さまの手の温もりも、背に回された手の力強さも、優しいけれど苦しげな微笑みも――。

 きっと、ずっと、いつまでも。

 忘れずに前を向いて生きてゆく。

 誰にも見られることのない透明な仮面をつけながら。

 

 

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