第2話 ビルの谷間の光と、埃をかぶったヘッドセット
玄関のドアを閉めると、世界が一気に静かになった。
さっきまで頭の中にこびりついていた会議室の空気も、上司の声も、
外の車の音と一緒に、ドアの向こうに押し出された気がする。
一人暮らしの1LDK。
白い壁。安物のソファ。
仕事用のデスクには、モニターとノートPC、メモ書きだらけの付箋。
冷蔵庫を開けると、コンビニのロゴが入った弁当と、ペットボトルのお茶。
料理本だけが、本棚の一角でやたらと整列している。
「……そのうち、やる」
誰にともなく言い訳して、弁当をレンジに突っ込む。
ピッとボタンを押すと、回転皿の上でプラスチックの容器がゆっくり回り始めた。
電子レンジの低い唸り声を聞きながら、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。
襟元に手を入れると、昼間の汗がまだほんの少し残っていて、なんだか情けない気分になった。
ポケットからスマホを取り出す。
通知が溜まりまくっている。
『【社内ポータル】次期管理職向けマネジメント講座のご案内』
『【おすすめ】AI時代のリーダーに必要な3つのスキル』
『【動画】5分で学ぶ“任せる技術”』
『上司:明日、今日の案件の振り返り、時間取れるか?』
「……うるせぇな」
画面をスワイプして通知をまとめて消す。
バイブレーションが止まると、部屋の静けさが、逆に耳に痛い。
目をやると、本棚にはビジネス書がずらっと並んでいた。
マネジメント、心理学、コミュニケーション、ファシリテーション。
背表紙には、どれもそれっぽい言葉がタイトルとして踊っている。
「任せろ、信じろ、聞け、待て……」
声に出して読んでみると、どれも耳タコになるほど聞いてきたフレーズだ。
それでも、今日の会議室では“リーダーとしてはマイナス”と言われた。
「……知識だけじゃ、どうにもなんねぇんだよな」
レンジが「チン」と鳴いた。
電子音に、現実に引き戻される。
弁当を取り出し、テーブルに置く。
湯気と一緒に、ほんのりとしたソースの匂いが立ち上る。
その横に、ふと視線が引っかかった。
本棚の一番上。
ビジネス書の背表紙の列から、ぽつんと外れている黒い影がある。
「……お前か」
埃をかぶった黒いヘルメット。
MirageTech製のVRヘッドセット。
指でなぞると、薄い埃が線になって消えた。
電源ボタンを軽く押してやると、ランプが一瞬だけかすかに光る。
「まだ、動くんだな」
大学時代と、社会人になったばかりの頃。
こいつをかぶって、何時間も仮想世界に潜っていた。
ダンジョン攻略。ギルドチャット。
次の日の仕事に支障を出しながらも、「まあ楽しいからいいか」と笑っていた。
いつからだろう。
楽しいことに対して、いちいち「効率がどう」とか「意味がどう」とか考えるようになったのは。
テーブルの上に、弁当とヘッドセットが並ぶ。
湯気の向こう側で、黒いボディがぼんやりと光って見えた。
「……またビジネス書読むか?」
本棚に目を向ける。
未読の本が、まだ三冊はある。
そのどれもが、「今度こそ部下が育つ」「リーダーが楽になる」といった甘いコピーを帯に書いている。
読めば、また何か新しい“正しさ”が手に入るのかもしれない。
でも、今の俺の頭の中は、すでに正しさでパンパンだった。
「情報はもういい。
足りないのは、多分……」
視線が、自然とヘッドセットに戻る。
「“やってみる場所”か」
言葉にしてみると、思った以上にしっくりきた。
現実でいきなり部下相手に“任せる実験”なんて、そうそうできない。
でも、ゲームの中なら──最悪、データが吹き飛ぶだけだ。
「よし」
弁当を半分ほどかき込んでから、俺はヘッドセットを手に取った。
昔より少し重く感じるのは、単に疲れているせいか、
それとも、今の自分の心の重さのせいか。
頭に装着し、バンドを締める。
視界が暗くなり、すぐに淡い光が滲むように広がっていく。
《起動──MirageTech VRシステム》
機械的な女性の声が、耳の近くで響いた。
《企業アカウントを検出しました。
連携サービス:Elysion Online
特別試験プログラムへの参加権が付与されています。参加しますか?》
「特別試験、ね」
今までなら、面倒事の匂いしかしないワードだ。
だが今日は、それすら少しだけ面白く聞こえた。
「参加」
短く答える。
《了承。特別AIユニット“YUNO-07”の割り当てを開始します》
YUNO──ユノ。
見知らぬ名前が、視界の中で文字として浮かんでは、光の中に溶けていく。
《Elysion Onlineへログインします》
最後のアナウンスとともに、現実の部屋の気配が完全に消えた。
暗闇の向こうから、光と音が一気に押し寄せてくる。
会社の蛍光灯とは違う、どこか柔らかい光だ。
「……今日は、効率のことは一回忘れよう」
そう小さくつぶやいた瞬間、
視界が、全く別の世界の色で満たされた。
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