第7話 風の記憶 ―母の言葉―
夜の王都は、戦いの余韻を静かに飲み込んでいた。
本来なら、アウリスは戦闘報告のために王城へ直行するはずだった。
だが――
「……シュトラウス兵、背中の傷が深い。今すぐ本部に戻すのは危険だ。
《兵舎か自宅で休息を取れ》。以上、中佐命令だ」
フローレン中尉にそう告げられ、アウリスは反射的に敬礼した。
直属の上官ジェイクも頷いていた。
「王子の護衛復帰は朝でいい。
今のお前の顔は“限界”ってやつだ」
中佐の声は笑っていたが、どこか本気だった。
――だから今、アウリスは城ではなく工房に向かっていた。
* * *
夜の鍛冶場は、赤い余熱を残して静まり返っていた。
炉の火は落ち、鉄と油の匂いが微かに漂う。
扉を開けると、分厚い腕で鉄槌を拭っている男が振り返った。
「……またボロボロだな」
低く響く声。
煤で黒く染まった頬、腕の筋肉、ぶっきらぼうな瞳。
バルグ・シュトラウス――アウリスの父であり、寡黙な鍛冶師。
ドワーフ特有の強靭さをその体に宿していた。
アウリスは肩をすくめ、苦笑した。
「兵士の仕事って、だいたいこういうもんだよ」
「くだらん」
バルグは火かき棒で炉の灰を突きながら吐き捨てた。
「学校をやめて兵士だと?
あの人が見たら……泣くぞ」
「母さんだったら、きっと『よく頑張ったわね』って言うよ」
父は一度だけ目を伏せ、深いため息をついた。
背中を向けたまま、ぽつりとつぶやく。
「……あの人は、誰にでもそう言った。良くも悪くもな」
重い足音が工房の奥へ消えていく。
残されたのは、金属の匂いと――
どこからか吹き抜ける、細い風の音だけだった。
その風に乗って、かすかに母の声が聞こえた気がした。
* * *
まだ王立魔法学校に通っていた頃――
アウリスにとって教室は、戦場のようだった。
「なあ、また呪文噛んだぞ」
「口が重いから風も出ねぇんじゃない?」
「鍛冶屋の血が混じってるんだ、そりゃ魔法なんて無理だよ」
耳の奥で、刺すような笑いが響く。
教師が冷たく告げた。
「アウリス・シュトラウス。
深呼吸し、呪文を紡ぐ。
だが——風は動かなかった。
指先から漏れた黒い光が、火花のように消える。
教室がざわついた。
教師が眉をひそめる。
「またか……訓練を続けておけ」
アウリスは何も言わず、教室を出た。
* * *
夕暮れの工房。
炉の光が影を揺らし、外では風がざわめいていた。
「……母さん」
声をかけると、リーネが魔導書を閉じてこちらを見た。
銀髪に揺れる淡い光、どこか掴みどころのない微笑み。
「どうしたの? そんな顔して」
「……もう、無理かもしれない。
風が動かない。
皆笑うし、先生にも呆れられて……
俺は、ドワーフの血が混じってるから……」
リーネは静かにアウリスの前に立つと、その頭にそっと手を置いた。
細い指先。
少しだけ冷たい。
「アウリス。風はね――誰のものでもないの」
「……誰の、ものでもない?」
「ええ。見ようとしなくていい。
まず“感じる”の」
リーネの声は落ち着いていて、しかしどこか神秘的だった。
「風はあなたの中にいる。
それがどんな形でも、否定しないで」
アウリスが息を飲むと、彼女は微笑んだ。
「あなたはできる子よ。
世界はあなたを拒まないわ。
ただ……“目覚める時”を待っているだけ」
その瞬間、
風が、ありえない方向から吹いた。
窓が鳴り、火が青く揺れた。
魔導書のページがめくれ、工房全体が風に抱かれたように震える。
「母さん、今の……」
「きっと、風があなたに挨拶したのね」
優しい笑顔。
その奥に、氷のような静けさがのぞいていた。
――その夜、アウリスは眠れなかった。
風が壁を叩くたびに、母の声が聞こえる気がした。
“目覚める時がくる。その時は、誰にも止められない――”
あれが“闇の影”の始まりだったのだと、
今になってアウリスは思い出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます