タイムリープ・ミステイク(中)
Haruki
第1話 再生する記憶
警報音が鳴った瞬間、心臓が一瞬で冷たくなった。 焼けつくようなサイレンが廊下を切り裂き、赤いランプが点滅する。
その光は血のように脈打ち、白い壁を赤黒く染めていった。 誰かが叫んでいる。
誰かが倒れた。金属が軋む音、破片の散る音、全てが混ざり合い、世界が崩れていく。
身体の奥に焼き付いた痛みが、私にそう囁いた。
「彩、走れ!」
竜児の声。
鋭く、焦りと優しさが混じる声。 彼の手が私の腕を掴み、体が強引に引き寄せられる。 その瞬間、現実の感覚が戻ってくる。恐怖も、息苦しさも、全て。
研究所の廊下を駆け抜ける。 足音が響くたび、床に跳ねた私の影が、赤い光の中で歪む。 息を吸うたびに、鉄の匂いが肺の奥に刺さった。
──こんな匂い、もう嗅ぎたくないのに。
前方で、神谷先輩が血を流しながら立っていた。白衣が裂け、肩から鮮血が滴る。 「彩、竜児。これを持って行け」 差し出された銀のケース。その中で、見慣れた懐中時計のような装置が冷たく光る。 クロノス・コード。 理論上、記憶を過去へ転送することができる装置。実用例はまだない。
「先輩、あなたは……」
「俺はもういい。落合博士は避難した。君たちが未来を繋げ」
彼の言葉は、決意と諦めの中間にあった。 それがどれほどの覚悟だったか、私は理解できなかった。
「先輩っ!」
叫んだ瞬間、銃声。赤い光が先輩の背中を撃ち抜いた。 時間が止まったように、血の粒が空中で輝いた。
私は竜児に引かれて走った。冷たい夜風が肌を刺し、息が詰まる。
車のドアが閉まる音が、現実を断ち切った。 エンジン音。加速。炎上する研究所が遠ざかっていく。
──助かった。
「彩、大丈夫か?」
竜児の声がかすれる。 私は静かに頷く。
「クロノス・コード……過去に戻り未来を変える装置。」
「……ええ。でも、安全の保証もないし、ちゃんと機能するかどうかもわからない。」
言い終える前に、二人の視界が何かを捉えた。
──人影。夜の道路の中央に、立っている。
「竜児、止まって!」
車が急ブレーキで停止した直後、フロントガラスが砕けた。
竜児の額に、赤い花が咲く。
何も言わず、彼はハンドルにもたれかかるように倒れた。
私は叫んだ。声にならない声。喉から血のような熱が溢れ出す。
フロントガラスの向こう、黒いフルフェイスヘルメットを被った誰かが歩いてくる。 頭が真っ白になった。私は無我夢中でクロノス・コードを起動していた。
記憶の読み取りにかかる時間が永遠のように感じる。そして、過去の自分に送信対象を固定する。
日時は襲撃が起こる直前。襲撃者があと数歩で車に辿り着くところでクロノス・コードは実行された。
音が遠のき、景色が引き伸ばされ、時間が──逆流する。
気づくと、私は研究所にいた。 胸の奥で心臓が悲鳴を上げる。
戻った……? 本当に、戻ったの?
震える手を見つめる。そこには、確かにクロノス・コードが握られていた。
竜児が──生きている。
私は立ち上がり、走り出した。
「みんな、逃げて! すぐに襲撃されるの!」
研究員たちが私を見る。呆れたような、哀れむような目。
「彩、落ち着いて」
落合博士の声は静かで、酷く遠かった。私は机を叩いて叫ぶ。
「信じてください!このままじゃみんな死にます!」
そして再び──爆音。
天井が崩れ、ガラスが飛び散り、煙が流れ込む。 同じ瞬間、同じ悲鳴。 私は déjà vu(デジャヴ)という言葉の本当の意味を知った。
血を流しながら走ってくる神谷先輩の姿。 これも知ってる。次に撃たれる。 私は叫ぶ。
「先輩、逃げて!」
「何を──」
銃弾が貫いた。同じ場所、同じ角度。
私は竜児の手を掴んで走った。 息を吸うたび、記憶の匂いが肺を満たしていく。
現実が記憶に侵食されていく。
もうどっちが“今”なのかわからない。
「彩、まさか使ったのか?」
「竜児くん、あなたは死ぬの。車の中で撃たれるの」
「……わかった。」
彼の瞳が揺れる。その中に、私が映っていた。 恐怖と絶望の塊みたいな顔をした私が。
「彩はクロノス・コードを使って過去に戻った。車で逃げた僕らは襲撃者に襲われ僕が撃たれた。それなら、違う道を行こう。」
その言葉に縋るように頷いた。
車は走る。夜の東京を抜け、街灯がまばらになる。 息が浅くなり、心臓が暴れる。 何かが狂っている。この世界の構造そのものが。
「もう大丈夫だ」
竜児の言葉が、遠くで響く。私は笑おうとした。けれど、唇が震えただけだった。
その時、空から轟音。
「……ヘリだ」
ライトが照らし出す。闇が裂け、私たちを追う光が滑り込む。
「降りろ!」
竜児に手を引かれ、私は道路脇へ転がった。土の匂い。夜の湿った空気。 私は彼の腕の中で震えていた。
──もう、嫌だ。
ヘリの音が遠ざかり、安堵の息。
「急いで離れよう」
二人は車に戻り、エンジンをかける。
その刹那、音も無くバイクのようなものに跨った誰かが背後から近づいた。
窓の向こうに銃口。
「竜児!」
彼がドアを蹴り開け、襲撃者はバイクのような乗り物ごと倒れた。 転がる拳銃を奪い、相手の首元目掛けて撃つ。
1発、2発、弾丸が襲撃者を貫く。
動かなくなった襲撃者から離れ、運転席に戻ろうとする竜児。
その時── パン、と乾いた音。
竜児の体が揺れ、赤が広がる。
「いやぁぁぁぁ!」
喉が裂けるほど叫ぶ。世界がまた崩れていく。
後方には別の襲撃者が立っていた。
私は泣きながらクロノス・コードを起動する。
手の中の金属が、まるで生き物のように脈打っていた。 スイッチを押した。白い光。音が消える。 また、最初の警報音が響く。
何度目だろう。何度繰り返しても竜児の死は避けられなかった。
同じ光景。
同じ血。
同じ死。
私はどの時間を生きているの?
それとも、壊れた記憶の中を漂っているだけ?
竜児の声が、遠くで響く。
神谷先輩の笑い声が、夢のように流れる。
でも、誰も私を覚えていない。
何度巻き戻しても、彼らは同じようなセリフを繰り返す。
──私だけが、時間の外側にいる。
孤独という言葉が、これほど冷たいものだとは知らなかった。
「諦めたくない」
そう呟きながら、私はまたクロノス・コードを起動する。
白い光が、視界を溶かす。
世界が反転する音がした。
そしてまた、警報が鳴る。
赤い光が、廊下を染める。
すべてが終わり、すべてが始まる
。 私は、同じ数時間を、何度も生き続けた。
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