4

 持ってきた本の全てを移し終えると、東吾はようやく鞄の口を閉じて立ち上がった。

 相変わらず燦々さんさんと照り付ける窓越しの日差し。改めてその空間に視線を落とすと、陽光を受けた東吾の本が美しく煌めいているのが目に入ってくる。綺麗だ――と、思う。

 自惚れかもしれないが、東吾は自分の書いた話が綺麗だと思っている。

 いや、思っていた。つい最近までは。

 なぜ書けなくなってしまったのか?

 分からない。

 書くことに悩むなんてなかった。面白く書ける角度が見い出せないなんてなかったのだ。

 何とか取り戻さなければならない。またこの本棚に、自分の本を捧げることができるように。そしてゆくゆくは――。

 そう考えたところで東吾は思考を振り払った。今はまず目前の問題だ。いかにしてこの窮地を脱するか。そのためにもう少し、この図書館にお世話になるとしよう。願わくば、文筆の女神がもう一度自分に微笑んでくれるよう。

 なんて、そんなおこがましいことを思ってしまった時、図書館を満たす本の匂いに甘い香りが混じっていることに気が付いた。東吾が後ろを振り返ると信じられないものが彼の視界に飛び込んできた。

 いっぱいに差し込む初夏の日差し。その光に照らされて煌めく黒色のローファーがまず目に入った。中等部の制服、腰まで届こうかという艶やかな黒髪が何よりも印象的で、その姿は東吾に一瞬黒猫を思わせた。女の子だ。

 いつの間にかそこに女の子がいた。胸の前で黒いバインダーを抱え、黒髪の少女が東吾を凝視している。

 ばかりか、その女の子は魔法にかかったみたいに動きを止めていて、そして、本当になぜなのだろう。彼女は大粒の涙を流して泣いていた。煌めく雫が、色白の頬を伝って落ちる。ぽろぽろと。雪が溶けるように。

「あ、あの……」東吾はつい声が出てしまった。

 すると少女は、弾かれたようにぱちくりと瞬きをして我に返った。

「ご、ごめんなさい!」言いながらごしごしと涙をぬぐう。「なに泣いてんだろ私……」

 自分でも戸惑っているような声だった。

 一つ短い呼吸を打って彼女は顔を上げた。

「あ、あの、なにか本をお探しですか?」

 東吾が疑問を発するよりも早く、少女は話題を投げ込んだ。


「ここ、あんまり人が来ないエリアですから、もしかしたら探し物かなと思って声をかけに来たんですが」

 少女が抱えていたバインダーを後ろ手に回すと、そこには首からぶら下がったスタッフカードが現れた。なるほど。彼女はこの学園で図書委員を務めているらしい。来館者にスタッフの側から図書案内を行っていく能動的レファレンスはこの図書館が注力している分野だったはずだ。

 しかしである。

「いや、ええと……」

 まさか自作の本をこっそり寄贈しに来たのだなどと言えるはずもない。何か適当な理由をと考えを巡らせて、東吾は閃いた。

「ああ……、うん。そう、写本しようと思ってるんだけど、いい本ないかなって」

 一石二鳥とはこのことである。寄贈をごまかしつつ、スランプを脱する糸口を模索できるではないか。

「はあ、写本ですか。具体的にはどういう内容で?」

「内容?」

 漠然と内容といわれても意図を測りかねる。

 東吾の困惑を察したのか、図書委員の少女は一瞬考えてから口を開いた。

「専門書とか小説とか、どういったジャンルでお探しですか?」

「ああ、そういうことか」

 今度は分かりやすかった。

「小説。できれば短編小説で、連作短編じゃないのがいいんだけど」

 欲を言うなら“面白い小説”と言いたかったが、それを言っても彼女が困るだけな気がしたので、東吾はそれを言わずにおいた。

「なるほど。でしたら、こっちへ」

 さっと身を翻して少女が東吾を誘う。

 迷いなく、しかしゆったりとした足取り。その後ろをついていくと、しばらく歩いたところで少女が立ち止った。

 文庫本が所蔵された本棚の前だ。様々な作家たちの名前が五十音順にずらりと並んでいる。

「このあたりなんかどうでしょう」

 彼女はその書籍群から一冊を抜き取り、東吾に手渡した。美しい海が描かれた表紙には聞いたことのない作家の名前が記されている。当然、そのタイトルも聞いたことがなかった。

「これが、面白いの?」

 本棚の場所だけでなくわざわざ一つの作品を手渡してきたのだ、おそらくは彼女のオススメなのだろう。著者名もタイトルも聞いたことは無いが、隠れた名作というのはどこにでもあるものだ。差し詰めこの作品も、と東吾は推測した。

 ところがである。本を手渡した本人は、東吾の問いかけに眉根を寄せて顔をしかめた。

「うーん、そうですねぇ。内容はともかく、写本をするなら最適かなと思いますよ? 難解な言い回しが多いですし、文脈も複雑で、死語なんかも多用されてますから。書き写すにはいいと思います。集中力必要になって」

「そ、そうなんだ」

 分かるような分からないようなチョイスである。だからといって東吾の側に写本の明確なイメージがあるわけでもなく、せっかく勧めてくれたのだからと、彼はそれを受け取ることにした。物は試しという言葉もある。

「……うん、まあ、ありがとう」

「いえ、どういたしまして」

 綺麗に微笑した少女の顔に涙の面影はない。


 写本用の本を手に入れ、早速とばかりに机についてしばらく、果たしてどんな本なのかとページを繰ってみれば、なるほど読みにくい文章がぎっしりと詰まっていた。内容はSF。聞き慣れない専門用語が跋扈ばっこするとっつきにくい小説――というのが中村東吾がこの作品から受けた第一印象だった。これは確かに写し甲斐があるだろう。

 東吾は鞄からノートを取り出して、机の上にぱたりと広げた。そしてまっさらなページの上に文字を書き込むべく、バッグから筆入れを探り出しているところで、彼の動きがぴたりと止まった。

「あ、あれ? 無い」

 鞄の中に筆入れが入っていない。ごそごそといくらかき回してみても、鞄のどこにも彼の筆入れが見当たらないのである。

 涼子の家を出る時には入れたは、ず……?

 いや、いやいや、そういえば筆入れを入れた記憶がない。編入手続きの時は筆記用具が用意されていたから気にもならなかったが、今思い出した。筆入れはいまだ引っ越しの段ボールの中だ。

「しまったな……」

 気持ちが写本に向いた途端にこのハプニングである。

 せっかくその気になってきて、何より本まで紹介されて、にもかかわらずそそくさと退散するのはどうにも極まりが悪い。

 どうしたものかと数秒考えて、東吾は椅子をたった。


「あの、すいません」

 玄関正面の受付カウンター。筆記用具を忘れた間抜けな少年は、その助けを図書館スタッフに求めることにした。厚かましい話である。

 はてさて、奇遇とでもいうのだろうか? カウンターには見覚えのある女子生徒の姿が。

「はい? どうかされましたか?」

 訝しむわけでもなく自然な応対。初対面で涙を流していた図書委員さんがそこに座っていた。これは少し気恥ずかしい。要件が要件だけに。だが来てしまったからには済ませてしまおう。気持ちを奮い立たせて、東吾は愛想笑いをその顔に浮かべた。うまくできたかどうかの自信はない。

「ええと……、申し訳ないんだけど、書くものとかって貸してもらえたりしないかな?」

 女子生徒は小首をかしげた。

「は? あの、えっと……、写本をされに来たんですよね?」

 その目が言外に『なんで持ってきてないんですか?』と訴えている。当然だ。

「あ、あはははー。それが、忘れてきちゃったみたいで」

 苦笑するしかない。

 笑えば、図書委員の女の子は唖然としたまま「はあ……、そうですか」と釈然としない様子。間抜けとか思われてたらどうしよう。懸念するも、それは詮ないことである。自業自得だ。

 彼女の心中は窺い知れないが、とりあえず少女は「まあ、いいですけど」と頷いてくれた。

 彼女は手元を小さく動かして、一本の真新しい鉛筆を東吾に差し出した。

「これ、どうぞ」

 深緑色の軸。先端はまだ削られていない。鉛筆の木の香りが微かに漂った。

「鉛筆削りはそこにありますから」

 促された方を見れば、カウンターの隅に赤色の鉛筆削りがちょこんと佇んでいた。ハンドルを回して芯を削り出すタイプのものだ。初等部の教室ではお馴染みの備品。

「それと、一応ここにお名前いただけますか?」

 すっと東吾の目の前に一枚のプリントとボールペンが差し出される。プリントの上部には『備品貸出しリスト』の文字。書籍ならば当然としても、備品にまでこういったものを用意しているとはなかなか細かい。

 思いながら、東吾は前に置かれた記入用紙に自分の名前を書き込んだ。

「中村、東吾さん……」

 女の子がその名をゆっくりと音読する。心なしか、その声音には特別な何かが籠っているような気がした。彼女の目線が東吾を捕らえる。おとなしそうな顔。眉まで垂れ下がった前髪のせいで雰囲気は地味だけど、よく見れば整った目鼻立ちをしている。その前髪がなければ、多くの人が目を奪われるほどの美少女だろう。そんな女の子から注がれる真っ直ぐな眼差しに、東吾はなんとなく気恥ずかしくなって目を逸らした。

「ごめんね、ありがとう。助かったよ」

 それだけ言い残してそそくさと鉛筆削りに向かう。借りた鉛筆を差し込み、くるくるとハンドルを回して芯を削り出していく。その間も女子生徒の目線が容赦なく東吾に降り注いでいて、東吾はそわそわしながら鉛筆の皮をむいた。鉛筆が鋭く尖ったのを確認し、東吾はカウンターを通り越して、元いた机へ――

「あ、あの!」

 行こうとしたところで呼び止められた。

 振り向くと、少女がカウンターに身を乗り出して東吾を見ていた。

あずさです」

 真剣な目だった。必死に何かを伝えようとしている――そんな瞳。

松本まつもとあずさ。……私の名前」

 もう一度、今度はフルネームで。

 東吾にはその必死さの理由がわからなかった。けれどその声だけが不思議と胸に残った。

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