灰の心核

竹見マサタカ

第1話 灰の大地

 風が鳴いていた。

 灰色の雲が低く垂れこめ、地平の彼方まで焦土が広がっている。

 かつて王国の北辺を彩っていた緑の丘も、今は魔導大戦の残響に焼かれ、草一本生えぬ荒野と化していた。


 その荒野を、一人の少女が歩いていた。

 ぼろ布のような外套をまとい、泥に沈む足を引きずる。

 名を、セリア・アーヴィンという。

 十七歳。王国軍の元将軍、レオン・アーヴィンの妹。

 だがいまやその名を知る者も少ない。戦がすべてを奪ったのだ。家も、仲間も、兄も。


 彼女は瓦礫の中の廃屋にたどり着き、そこに腰を下ろした。

 かつて兄が暮らした村の跡だった。

 風に運ばれてくるのは、焦げた木と血の匂い。セリアは膝を抱え、ただ空を見つめた。


 「……兄さん、あなたは何を見ていたの?」


 声に出しても、返るのは風のうなりだけだった。

 レオンの死から三年。戦争は激化し、王国は後退を続けている。

 その原因の一つとして、兄の名が挙げられた。

 〈ヴァルド暴走事件〉——。

 王国最古のゴーレムが制御を失い、前線の街を焼き払ったとされる惨事。

 操縦していた心核操縦者はレオン。

 その日を境に、彼は「裏切り者」として記録から抹消された。


 セリアは信じられなかった。

 兄がそんなことをするはずがない。だが、真実を知る者はもういない。

 彼女はただ、兄の残した言葉を胸に抱きしめて生きてきた。


 ――セリア、もし俺に何かあったら、南の遺跡に行け。そこに「鍵」がある。


 あの日、兄がそう言って出陣したのを最後に、帰らなかった。


 セリアは指先で首飾りを握った。透明な結晶石。

 内部には、淡い光がまだ残っている。

 それが兄の遺した“鍵”なのかどうか、彼女には分からなかった。

 ただ、この光だけが、彼の存在を繋ぎ止めている気がした。


 そのときだった。地平の彼方で閃光が走る。

 遠雷のような轟音が遅れて響き、空が震えた。

 戦だ。北方の魔族軍が、再び王国領へ侵攻している。

 セリアは息を呑んだ。炎の向こうで、ひときわ巨大な影が動いた気がした。


 ――あれは、ゴーレム?


 だが、王国に残された稼働機はわずか数体。しかも全て南部防衛に回されているはずだ。

 では、あの影はいったい……。


 思考を断ち切るように、背後から声がした。


 「……君が、セリア・アーヴィンか?」


 振り向くと、軍服を着た青年が立っていた。

 金の刺繍が入った外套、肩には魔導回路を刻んだ紋章。

 年は二十代前半。鋭い瞳を持つが、その奥に疲労の影が見えた。


 「誰……ですか?」


 「王国軍技術士官、カイン・ローデルだ。君を迎えに来た。」


 セリアは警戒心を隠さず、後ずさる。

 「迎えに? 私を? どうして……」


 「君が“適合者”だからだ。」

 カインは短く答えた。

 「ヴァルドの心核が再起動の反応を示した。操縦者として適合する血統は、アーヴィン家のみ。君が必要だ。」


 「ヴァルド……兄の……?」


 セリアの胸が強く脈打った。

 再起動。まさか、封印されたはずの古代巨像が――。


 「信じがたいだろうが、事実だ。北方戦線は崩壊寸前だ。もはやヴァルドの力に頼るしかない。」

 カインの声には焦燥が混じっていた。

 「君が拒めば、王国は滅ぶ。どうか来てくれ。」


 セリアは俯いた。

 再びあの巨像に乗るということは、兄の記憶と向き合うことだ。

 けれど――彼女は知りたかった。

 兄がなぜ死んだのか。なぜヴァルドは暴走したのか。


 「……分かりました。行きます。」


 風が止んだ。

 セリアの決意を告げる声が、荒野の空気を震わせた。


 王国軍は、南方の山中にある古代遺跡を拠点にしていた。

 その中心に、封印されていたヴァルドが鎮座している。

 高さは五十メートルを超える。岩と金属が混ざり合ったような装甲、胸には巨大な結晶孔。

 かつて人が作ったとは思えぬ威容だった。


 セリアは、その姿を見上げて言葉を失った。

 胸の奥がざわめく。

 ――兄さん。あなたが見ていた景色は、これだったのね。


 「恐ろしいだろう。」

 隣に立つカインが言う。

 「これが“人の業”の結晶だ。だが、同時に希望でもある。」


 「希望……?」


 「ヴァルドは人の魔力を増幅し、巨体を動かす。操縦者の心を“核”としてな。」

 カインの視線がセリアに向く。

 「だがそれは同時に、心をすり減らす。君がヴァルドと完全に同調すれば、命の灯は短い。」


 セリアは静かに頷いた。

 「構いません。兄も、その覚悟で乗ったのでしょう。」


 カインは言葉を失った。

 彼女の瞳には、恐れよりも決意があった。

 冷たい光のように、静かで、強い。


 「準備が整い次第、儀式を始める。心核の接続は命がけだ。途中で止めることはできない。」


 「はい。」


 彼女の返事に、わずかな震えが混じっていた。

 それは恐怖ではなく、運命を受け入れる者の震えだった。


 その夜、遺跡の空は深い紺に沈んでいた。

 ヴァルドの胸の結晶孔が淡く脈動し、封印の魔法陣が展開する。

 セリアは中心に立ち、首飾りを握った。

 「兄さん……見ていて。」


 カインが呪文を唱える。魔方陣が輝きを増し、空気が震えた。

 次の瞬間、セリアの身体が光に包まれた。

 視界が白に溶け、世界が遠のいていく。

 心臓の鼓動が高鳴り、彼女の意識はヴァルドの内部へと吸い込まれた。


 ――そこは、光と闇の境界だった。

 無数の記憶の破片が漂い、声が交錯している。

 〈来るな……〉

 〈まだ終わっていない……〉

 〈セリア……〉


 その声を、彼女は知っていた。

 兄の声。レオンの声だ。


 「兄さんっ!」


 呼びかけた瞬間、目の前に光の影が形を取った。

 兄の面影。だが、その瞳は苦しみに満ちている。


 〈セリア、なぜ来た……〉


 「あなたに会いたかった。真実を知りたかったの!」


 〈真実……それは、お前が知ってはいけないことだ〉


 「それでも知りたい!」


 沈黙。

 そして、レオンの姿はゆっくりと微笑んだ。

 〈ならば、見るがいい。ヴァルドが何を喰らって動くのかを……〉


 光が爆ぜ、セリアの意識が引き戻される。

 彼女の身体は、ヴァルドの胸部の心核座に固定されていた。

 結晶の中で、心臓の鼓動が巨体と同期する。


 ――ドクン。

 ヴァルドの目が開いた。

 赤い光が闇を裂き、封印陣が砕け散る。

 遺跡全体が震えた。

 操縦室の外で、カインが息を呑む。


 「成功だ……ヴァルド、再起動!」


 だがそのとき、セリアの耳に微かな囁きが届いた。

 〈まだ……終わっていない〉


 それは、兄の声だった。

 哀しみと警告の混じった、遠い響き。

 セリアは拳を握った。


 「分かってる……兄さん。あなたの真実を、必ず見つける。」


 ヴァルドの巨体がゆっくりと立ち上がる。

 大地が震え、空が裂ける。

 新たな時代の幕が、今、開かれた。

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