コーヒー牛乳とカフェオレ

影宮さつき

本編

「進路調査、ねぇ……」

 この「人生の正解高校」に入学してからの自分は、はっきり言って暗い表情しかしていない。当たり前だ。大学受験しか考えていないような授業の構成の一体どこが「人生の正解」なのかと、常々考えさせられる。大学進学以外のほかのキャリア形成はないのか。ブルーカラーとして働くのも考える手ではないのか。しかし以前の面談で「土木作業員として働きたい」と率直な希望を述べたときに担任から返された苦い言葉と顔を、自分の心はまだ思い出にも「怒られの発生ワロタ」にもできていない。別に「クラゲ」とかじゃないし良いだろ、と。

なぎさ、どうしたんだい」

 そう落ち込んでいる自分の前に、「姫」であるうしおがやや掠れがかったハスキー、というにもやや低い程度の声で話しかけてきてくれた。潮は、いつも笑顔を浮かべている。その顔を見れたことが「人生の正解」であったことかのように。「美少女」である潮の笑顔にはいつも癒されるばかりだ。うっとりして授業を寝飛ばすこともしばしばである。

けれど、少なくとも自分からは、何故潮がそんな笑顔を常に浮かべていられるのか、全くわからない。全く。

 まず、潮はこの「人生の正解高校」の生徒であることを全く隠していないし、それで言われる心無い言葉に対しても何一つ狼狽えずに、ただ笑顔を返すだけ。そこには微笑みだけ。なんなら「ありがとう♡」とまで返す。悪気一切なく。ある時は冷やかし目的で明らかに盗撮的な写真の取られ方をしていた時もカメラに向かってその笑顔を振り撒き、ピースサインまで決めていた。

「ああ、進路志望書き直しだってさ」

「ストレスは身体に悪いんだから、あんまり根を詰めるものじゃないよ?」

「じゃあ、そういう潮の進路希望はどうなんだよ」

「えっとね、私は……」

 そこにあったのは、潮の肌と同じくらいに白い、何も書かれていない「第一希望」から「第三希望」の欄だった。

「同じ……でもないか、お前の場合」

「同じだよぉ」

 そう微笑む潮の顔面は優勝しており、自分の顔は無くなっていた。

「かわいいなぁ……えへへへへへへ」

 なんて愛おしいのだろう。潮。その儚くも艶やかな尊顔をいつまでも見つめていたい……という願望は直後よく見知った声によって遮られることになった。

「ご歓談中失礼。同じだとか同じじゃないとか、お前の尺度を潮に持ち込まない方がいい」

 そう言ってきたのは琥珀こはく。名前や家柄的にはややアウトローな感じがする彼だが、実際にはメガネの似合うインテリヤクザ、と言った感じで、一方で体幹も鍛えているようで図体に迫力がある。正直自分なんかはなんも勝てないが、その分だけ仲間思いで割とこちらの相談などにも真剣に乗ってくれはする。ただ生真面目すぎるのでこうなる。

「まあ、そうかもしれない、けど、同じ学校の同じ生徒ではある」

 琥珀はその家庭環境の背景ゆえに、非常に多くの挫折や苦難をすでに味わってきているのだろうということは想定された。何しろ現在では実の母親とも実の父親とも違う名字を名乗っているという事実が、それを裏付けているように思える。

「……お前自身の将来への悩みを、より抱えていそうな潮に投影しているだけじゃないのか?」

 実際琥珀の指摘は図星だったのかもしれない。

「手を引けと言ってるわけじゃない」

「じゃあ、なんだって」

「俺はもう……椿先輩のような人を見たくないだけだ」

「その顔でいちごオレ飲まれても……似合わないけどキマってるよ、琥珀……」

 琥珀はいつも真剣な眼差し、鋭い目つきをした切れ者、という感じ。そんな奴がなぜいちごオレを飲んでいるのかは知らない。別の友人が琥珀にそれを聞いた時は「飲み物の趣味嗜好はそれ以外とは独立しているだろ」と一蹴されたらしい。それにしても琥珀から椿つばき先輩の名前が出てきたのは意外だったな。先輩自体は去年の冬に突如失踪してしまってから音信不通のまま、今ではどこで何をしているのか分からないという噂だ。あくまで自分の耳には噂しか入っていない、自分がただ蚊帳の外なだけで、本当は先輩方なら何か知っているのかとも思ったが、椿先輩の「親友」だった道永みちながさんすら知らないらしいので、本当に失踪、なのだろう。

「お前の場合、よく缶コーヒーを飲んでいるようだが、それは単に好きなだけか?」

 琥珀はそう聞いてきた。

「まあね、味としてはエメラルドマウンテンとかが結構好きなやつだ」

 カフェインの覚醒作用を当てにして授業を受けていたこともあった。しかし冷静に考えればカフェイン錠を直接摂取すればいい話であり、態々コーヒーなどという嗜好品の形態で摂る必要はない。ではなぜ自分はその形を摂って摂取するのだろう。最初は父親が会社に缶コーヒーを持って行って出勤していたものを自分もお願いしてもらってたのがきっかけだったはずだ。

「ならそれと同じだ。それだけだ」

 自分にはその質問を琥珀がしてきた意図は分からなかった。しかし、自分が父親は缶コーヒーを辞めてもなお缶コーヒーを飲んでいること、それもスーパーで売ってる安いものでもなくわざわざ校内にある自販機で買っていることに関して……自分自身、思い当たる節がないわけではなかった。

(本当は、缶コーヒーすら飲まない方がいいのかもしれないけどな、本物なら)

 昔読んだ本を思い出して、自分を嘲るようにそう思ってしまった。

 情けない。

 いったい今まで何本飲んできただろうか、そして飲んでいる割に缶のデザイン程度でしか、見てくれでしかそれらを区別できていないのではないか。もっと言うと結局は缶じゃないコーヒーのことも何もわかっていない。せいぜいアメリカンが薄くてウインナーに肉は乗ってない程度の知識で止まってて、スタバに行くおしゃれ人間の方がよっぽど詳しいだろう。そんな曖昧な消費の仕方でいったいどれだけ浪費をしてきた?

 本当はこんなところで足踏みをしている場合じゃないのかもしれない。


⭐︎


 帰り道の関係で潮とはよく一緒に歩く事になる。割と長い商店街のアーケードをずーっとずーっと隣で歩く。自分は潮と会話しながらその横顔をたまに見つめるだけ。でも、それで幸せだった。

「そんなに見られると照れちゃう」

「ご、ごめん」

「ダメと言ってるわけじゃないし」

 噂になると恥ずかしいし、一緒に帰るのをやめた方がいいんじゃないかとも思った。けど、一週間くらい意識して先に帰るようにしていたら

「今日は……一緒に帰ってくれないの?」

 と言われた日からは、ずっと一緒に帰っている。自分が部活で遅くなる時も、潮はずっと待っていてくれたし、自分が何も用がなかったり、履修の関係で早帰りになりそうな時も、潮のことを待つようにしていた。

「この街も……シャッターが増えたな」

「別に関係ないものも多くなかった?私たちには」

 飲み屋だったり怪しい書店だったり、おおよそ「人生の正解高校」の想定する学生像からは遠いような店が多く入っている怪しさを兼ね備えていた商店街。自分にとってはそれは魅力的に感じていた。実際行くかどうかはともかくとしても、選択肢として目に映っていること自体に、帰り道、ひいては人生そのものにまっすぐ向かうだけではない別の選択肢があることを示しているようで価値があると思っていたからだ。

「とは言っても裁縫とか精肉とか乾物とか、目に入ったら気になるじゃん」

「確かに!10円コロッケも美味しかったけど、今だとコンビニの200円のしかないもんねー」

 寄り道の可能性、あり得るかもしれない人生の選択肢がどんどん減っていってしまっているような感覚があって、嫌だったのだ。だが、実際にそれらが減ったのは他でもない、その選択肢を自分たちが実際には取らなかった、寄り道しなかったことが遠因になるのだ。

「お金ないもんな……」

 それは言い訳というか負け惜しみというか、結局缶コーヒーなんかに使っているお金をそういうところに使わなかったからシャッターの数が増えたのだ、という現実(かどうかは因果が怪しいけど、そういうところがないわけではないと思う)を見ていたくない自分がいた。

「私が奢るよー、お父さんからお小遣いいっぱい貰ってるし!」

 意外だった。潮は自分の金欠に関して自己責任論ではなく心配をしてくれていたのだ。

「それって『パパ』とかじゃなくて?」

 それに対しての返答がこれな自分を責めたい。我ながらジョークの割には潮に対してキツい当たりをしてしまった。これで関係性に亀裂が入ったらどうするのだ、自分は潮なしではどうにもならないというのに。

「もー、ひどーい!潮には私がそういうアバズレに見えるんだー、そんなこと言うなら奢ってあげないー」

 タフだ。自分が思っている潮に対するイメージが本人を直接見ていないか弱いものになって良過ぎてしまっているだけなのかもしれない、そういう思い込みで人を見るのは良くないとはわかっているとはいえそうなってしまう自分に辟易していた。

「ごめんて」

「許すー」

 結局、この日は潮に奢ってもらってコロッケを食べた。自分がどう思っているか、潮がどう思っているか、その内心はともかく関係性としては同学年、対等なはずだ。だから自分が奢る日もあれば潮が奢る日もある。なんて事ないはずだ。

 普段より、だいぶ美味しく感じた。ただ、

 本当に、これでいいんだろうか。という歯痒さとパサつきが、口に残らないわけではなかった。


⭐︎


 潮は美少女だ。

 まとっているオーラが、そのサラサラのロングヘアーが、骨格が、人中が、顎がと言葉を書き連ねることで魅力を表すことはできるだろう、だが書きすぎるのも無粋というものだ。そう言った要素から潮を連想しやすくはなるだろうが、それらの要素を組み合わせただけでは潮の美少女性を表すにはなお足りないものがあると、自分は思っている。文章にできない神秘がそこにはある。

 だからか、潮の周囲の人間も「可愛い」だとか「ガチ恋」とか「キュンです」とかそういう言葉を潮に対して振り撒いていることが多い。

 でも、そう言った周囲の声が漏れるのは、決まって

「お待たせ、渚」

 潮が声を出す時だった。

「待ってなんかないよ、えへへ」

「あの子、可愛い……」

 ここは「人生の正解高校」に程近い駅、巷では歴史ある観光地として名高いとされている場所だ。今も周囲の人間が潮の容貌を褒め称えるような声をあげていた。

 自分は……これに憤りを覚えている。それは潮自身の可愛さに対する褒めではなく可愛さと声のギャップに対する認知の修正を行わざるを得なかった罪悪感を帳消しにするためにそうしているだけだろ、と。

「最初からわかってました、みたいな顔しないでほしい」

「え、どうしたの渚。なんか怖いよ?」

「あ、ごめん、潮。君を見れていなくて。……相変わらず可愛い」

「誤魔化したー」

「ごめん」

「でも嬉しいから許す!♡」

 潮を心配する自分の気持ちは、果たしてどこまで「本物」なのだろうか。

 「コーヒー」も「牛乳」も名乗れない、「カフェオレ」である潮のことを、俺はただ歯痒い気持ちで見ることしかできなかった。

 だが、その気持ちは正しい気持ちなのだろうか、と考えることもあった。

何故なら潮自身は本当に楽しそうな笑顔をしているし、自分が「カフェオレ」のように扱われる、周囲から都合のいい時だけ都合のいい扱いをされることに対して何一つ不満を漏らしていることを見たことがなかった。

 他人の心情を慮るのは大事。しかし、それは度を越してしまうと単なる妄想にしかならない。他人のアイデンティティを妄想で決めつけてきまうのは危険だし、本人が語っていないのなら周囲からどう扱われているかに関係なく、見守るべきなのだ、それが正しい考えだ、そう頭では考えつくのだが……

 その日のお出かけプランは、寺とそこまでの通りをウロウロした後、最後にケーキが美味しいカフェでお茶しようというものだった。

「都会の人間ってやっぱ服屋とか映画館とか行くもんなんかね」

「人によるんじゃないー?私がSNSでフォローしているオタクは毎週のように地方だろうと都会だろうとライブ会場になっている場所のほうに遠征行ってるし」

「意外な人フォローしてるんだな」

「せっかくSNS使うんだし自分とは違う人生を歩んでる人の景色や考えを見ておきたいなー、って思って」

 潮は聡明だった。潮しか見えていない自分の視野狭窄っぷりとは真逆で、常に自分以外の人間の可能性に関して思いを馳せているような言動をよくしていた。

「エコーチェンバーを避けるってやつか」

「そうそうそれそれ。私毎回その用語見るたびに『チャンバ』思い出すんだよね」

「そもそもチャンバって何」

「走るやつ」

 潮のギャグセンスは独特だった。


⭐︎


 赴いた寺はこの地に奈良時代、建立されたものらしい。月並みな表現しかできないが奥ゆかしさと歴史を感じる作りだった。

「ってことは奈良から持ってきたのかな」

「そういうことではないだろ、チェーン店じゃああるまいし」

 それじゃあ、今は東京時代なのだろうか、潮にとっては。

「そうかも、今は東京時代じゃないもんね」

 そうだった。

 手に取ったパンフレットを歩きながら読む。国内最大級の仏像が魅力だそうだ。

「そのぐらい何かしらに拝まないとやってられないことがあったのかねぇ……」

「……」

 それを聞いてか聞かずか、珍しく潮が無言で3秒ほど立ち止まっていた。

 境内をしばらく歩き進んでいく。インバウンドだろうか、特に何かある季節、というわけでもないのに結構な観光客がいる。まあ、自分たちもそのうちの一人であるのだが。

「御朱印めぐりとかやってみたくないか?」

「じゃあその時は御朱印帳私が持たなきゃだね」

「何でさ」

「渚のガサツさで管理できるわけないじゃん」

 確かに。それはそう思う。

「水子供養、か……」

 寺の中に時たま見える小さな仏像、いやお地蔵様か?を見て、ふと呟いた。この寺ではどうやら、生まれてくることのなかった子供を供養することも多いようであった。自分たちが悩んでいるちっぽけなことよりも前に、まず生きることができなかった子供達……

「生きられたとして、幸せかどうかは、そこからだよ」

 潮が小さくそう呟いていたのを、自分の耳は聞き逃してはいなかった。


⭐︎


 本堂に来て、でかい大仏を謁見する。

「おっきいねえ」

「うん。デカい」

 あまりの迫力に圧倒される。現代の今の自分でもこんなものは構想できないというか、餅として絵に描くこともできないだろう。しかしどうやら見当が違っていたのが、この大仏自体は別のところから漂着してきたもので、この当地の人々がデカいものを何か造らなければやってられないほどに何かに対して切羽詰まっている、と言った類のものではないらしかった。流れ者という点では、この地域の地元住民でもないのにこの地域の学校に通っている自分たちも似ているが、救ってくれるか救いを求めているかでいうと真逆だな、と、何とも言えない気分になった。

「お祈りしよう♡」

「ああ」

 当時の人と自分、どちらの方が縋りたいことが多いだろうか。そして一つでも同じ願いを潮と共有できているだろうか。祈るポーズをしている自分の中にも、雑念は多いままだった。

 本堂の奥にはお守りなどが並べられているお土産コーナー的なものがあった。お祈り後に二人して、そこに少し立ち止まっていた。

「安産祈願」

 聞いたことがある。創作界隈とかであれば同人誌とかを落としそうな作家が仲間内の作家に悪ノリで送る場合などが、たまに見受けられるらしい。しかし、自分がこのお守りを見て連想したのは、別のことだった。そんなことを、お守りを手に取りながら思う。

「どうしたの?お守りなんか見て、あ!」

 ちょうどお守りなどを一通り見終わった後に潮の目線は自分の方に向かった。

「いや、これは別に、その」

 「特に他意はない」とかそういう気の利いた言葉を自分も返せばいいのに、連想してしまったと言っているようなものではないか。

「やっぱそうだよね」

 悲しそうな瞳を、潮がしている。やはり本人も気にするところがあったのに、自分はまたデリカシーのないことをしてしまった。悔やんでも悔やみきれない。

「何が」

「進路、私も産みたい♡」

 ああ、杞憂だったか、と少し胸を撫で下ろした。


⭐︎


 帰り際に立ち寄ったカフェ。結局値段に負けていつものチェーン店にした。パフェを頬張る潮を眼前にしながら飲むコーヒーの一杯は格別だ。流石に歩き続けた後なのでアイスコーヒーにしているが。

「おいひい〜!」

「潮が美味しそうに食べてると、こっちも嬉しいよ」

「でも、いっつも渚、コーヒーばっかり注文してて、パフェ食べてないよね?食べる?」

「いや、潮が手をつけたものは、その、恐れ多くて」

「そういうこと……でも良いけど、そうじゃなくて奢ってあげるってこと」

「え、あ、うん、いや、それもこの前コロッケ奢ってもらったばっかだし申し訳ないよ。それにほら、自分金欠だから」

「えー、頼れるものは頼っといた方がいいのに。勿体無い〜。それにいっつも缶コーヒーとか飲んでる割に金欠なんだ、お金余裕ありそうなのに」

「うっ」

 人が気にしているところを的確についてきた。潮は割と、こう言う意外な鋭さを持っている人間でもある。

「さっきもシール屋でシール私にも買ってくれたし、お揃いのやつ。嬉しいけどあんまり無理はしない方がいいよ」

「まあ、こう言うコーヒーばっか飲んでるから、金がたまらないってことで」

 高校生になってみてわかったことだが、お小遣いとかバイトとかで数百万貯めると言うイメージはどうにも湧かない、現実味がないと言うことだ。特にうちの高校バイト禁止だし。世のブルジョア高校生はいったいどうやってそんな額を捻出してるんだ…と思って顔を上げるとそこにいた美少女が答えだった。「実家が太ければいい」のだ。なんと残酷な答えだろうか。

「にしてもさー。渚ってコーヒー好きだよね。いつからだっけ?」

「いつからだっけなぁ」

 コーヒー。芳醇な香りと苦味や甘味が楽しめる、風流な飲み物だ、と自分は思っている。しかし本当に自分がそれ目当てに飲んでいるかどうかで言うと、ぶっちゃけ自信がない。

「確か、昔読んだ本に『缶コーヒーを飲まないのが本物』って書いてあったのがきっかけだったかな、そんなインスタントな娯楽に浪費する暇があるなら目標に向かって真剣になれ、って」

「え、意外だー。大体、動機が真逆じゃん。その本もその本でどんなこと書いてるんだって感じで気になるけど、こんだけ楽しめるものが溢れてるのに、それに乗っからないなんて、それもそれで人生損してる気がするなー」

「まあカリギュラ効果ってやつだよね。結局そう書かれてた怪しい本のせいで逆に缶コーヒーばっかり気になるようになってしまったし。まあインスタントな娯楽に浪費すること自体を嗜めてるのはなんとなく同意できなくもないけど」

「確かに。それで思ったんだけど、いっつも渚は学校でブレンド系ばっか飲んでるけど、カフェだと大体ブラックだよね。大人な気分って感じ?」

「そんなんじゃないよ。缶とかボトルのコーヒーは型が決まってるのでも安いじゃんか。だから試行錯誤も聞くと思って色々買ってみてるんだ。けど、こう言う店のちゃんとしたコーヒーとかだと、やり直しが値段的にしづらいからこそ、シンプルなのを選びたいんだよ」

「ここチェーンなのに?」

「ま、まあ。人生って多分割とずっとチェーンだと思うんだよ。冠婚葬祭……ほら、極端な話寺とか神社だってそうだろ」

「一理あるかも」

 他にも生きることの痛みをなるべくカフェインで鎮痛したいから……というキザな回答も考えてはみたが、単純にダサいので潮が笑ってくれたとしても恥ずかしいので言うのはやめておいた。


⭐︎


 数日後。

「どうしたの渚、顔色が悪そうだよー?」

 胸騒ぎの午後。何故だろう。最初はコーヒーの飲み過ぎか?などと考えていたが、何かが違う。そもそも今日は他の日に比べてそんなに飲んでない。午前に一本、午後に一本だけだ。

「ねえってば、なぎさー」

 本気でやや涙ぐんでいるようにも見える潮の横顔を自分の脳が認知したのは、この時だった。それまでずっと潮が話しかけてくれていたというのに

「……!潮、ごめん……」

「ったく授業中なのに見せつけてくれるな」

 と、クラスメイトからの野次が飛んできた。まあいつものことだった。

「そう茶化すな。誰にだって体調不良の時はあるだろ」

 珍しくそう言ったのは琥珀だった。その目は何かを訝しむようであった。実際、この時の琥珀は渚のある異常に気づいていたからこそ優しい声をかけていた。それがなければどっちかというと茶化しに加わることも辞さないタイプだ。

(あの渚が潮の声に全く反応しなかった時間があった……何かがおかしい……渚の中で何かのっぴきならないことに対して憔悴しているのか……?)

「渚……?」

 体調のすぐれない自分を見て、潮が何かに気づいたような顔をしている。しかし自分には何に気づいたのかがわからず、曖昧な表情でしか返事ができない。頭が痛い。

「潮、保健室に渚を連れて行ってやれ」

 高校の風潮として、教員も生徒を下の名前で呼ぶことが多い。なんでも「追浜」という姓の人間が同じ年に7人同じクラスになったことがあるらしく、その年が原因ではないかとまことしやかに噂されているらしい。

「はい、わかりました」

「行くよ、渚」

「う、うん」

 自分がふらついている感覚だけがわかる。それ以外はわからない、何もあまり意識もはっきりとせず、朦朧としていた。力が抜けていく、世界が終わっていく。何が起きている……?


⭐︎


「目覚めたみたいだ」

 あまり聞いたことがないけど知り合いではないわけではない先生の声が目覚めのタイミングでこちらの耳に届いた。確か養護教諭の先生だったはずだが……

「おはよー、渚。水飲んで」

 諸々の情緒より先にコップをすごい勢いで潮が渡してきた。ありがたいけどちょっと強引だ。

「あ、ありがとう」

 ゴクゴク水を飲んだ後にそう返す。水を飲みながら辺りを見回すとどうやら保健室のベッドの上らしい。小学生ぶりか?我ながらこんな場所にいるとは、全滅した勇者のリスポーン地点のようで、何となく情けない。

「渚さん、無理はしないようにね」

「あ、はい」

 意識は戻ってきたが、状況把握にはもう少しだけ時間が必要だ。確か授業中に目が眩んできて、それで……

「あとは潮ちゃんもいくら途中で倒れたからって渚さんをお姫様抱っこして運んでこないように」

「ごめんなさい、授業中だし、誰も見てないと思って……」

 え、自分が潮にそんなことされていたのか。潮って意外と力あるんだな……知らなかった。それに、自分がそんなことされていた事実が、結構恥ずかしい。頬が紅潮するような気分だった。

「ま、じゃあ潮ちゃんは一旦教室に戻りなさいな」

「はーい。渚、また後でね……?」

笑顔で手を振りながら潮は保健室から廊下の方へ消えていった。あの可愛い愛嬌を振り撒きながらしれっとかっこいい事をしていくの、反則だと思う。

「先生、自分はまだ帰っちゃダメですか」

「うーん、まだだめかなー」

「なんでです?」

「渚さん、もしかして原因に心当たりがない?」

「ないですね、突然急に……」

 そう言おうとした途端、自分は何かを思い出した。

 やっぱり、缶コーヒーなんか飲んでいる場合ではないのかもしれない。本来なら。


⭐︎


 2時間後。

 保健室からどうにか体力が回復して脱出してきた。脱出という言い方も親身になってくれた養護教諭の先生にやや失礼な気もするが、あのままいたら先生の「恋バナ」のオーラに飲み込まれそうだったので仕方がない。

 しかし、嫌な予感は消えていなかった。まだ、何か起こる。

 この動悸は身体的なものというよりももっと、感情的なものだ。

 不吉なことというのは大抵の場合、立て続けに連鎖する、それはもうドミノ倒し的に。人生というのは音ゲーにも近い。一回ミスるとそこでコンボは途切れ、最終的なスコアに大きな差が出るものなのだろう、とも思う。そんなことを考えながら教室に戻ると

「あ、おかえり、渚♡」

 と、いつもの声が。放課後、ほとんどの生徒がすでに帰宅していた教室には潮がぽつんと残ってくれていた。天使か!?今にも幸福感ではち切れてしまいそうな自分の心を何とか理性で押さえながら、平静を装いつつ応対する。でもこんだけ待ってくれたし、帰り道どこか寄らないかとか誘ってもいいかな。いやこれは決して下心とかではなく、単純なお礼としてだな。

「ありがとう、潮、それで……」

 そのような思いと共に提案しようとした自分の声はガラガラガラという引き戸の音に遮られた。

「すみません。潮さんいますか」

「どうしたのー?」

 教室の外から挨拶をしてきたのは隣のクラスの磯貝いそがいだ。あまり潮と接点がある感じの生徒ではなかったと認識しているが、何をしに来たのだろう?

 そうして教室の外で何やらコソコソ話をして、潮は教室に戻ってきた。

「何かあったのか?潮」

「ちょっとね。ごめん、今日は一緒に帰れないかも。じゃあ、また明日ね」

 本当に本当に嫌な予感がした。しかしそれらはすべて状況証拠だ、断定はできない。ただ単に自分が星座を作ってしまっているだけの可能性は大いにある落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け

「うん、わかった」

 どうにかなりそうな自分をひたすらに理性で押さえながら、そう答え、教室を出ていく潮を見送った。

 その目の温度は、ちょっと上がっていたと思う。

「どうした、渚、顔が引き攣ってるが。振られたか?」

 ガラガラガラと、潮が去っていた反対側の扉から、琥珀が現れた。

「琥珀、いやそんなんじゃないが」

「そんなんだと、顔が言っているように思えるが。話なら聞く」

 琥珀は意外にも自分に対して協力的だった。いつもだったら「当人の自由意志に任せておくべきだろう、変なパターナリズムをするべきではない。そういう奇妙な関係性を続けようとするのは互いにとって不幸をもたらすだけだ」くらい言いそうなもんだが、この日に限ってはそうではなさそうだった。

「話すことなんて別に」

「渚、今日のお前はおかしいが潮も何かおかしい。心当たりはないか」

「いや、こっちからすると今日一番おかしいのは琥珀お前なんだが」

「誰かがおかしいとみんなおかしく見える、まあそういうものかもしれん、世の中というのは」

「何悟った風のこと言ってんだ。そういえば俺は意識なかったんだけど、保健室行く間に倒れてた俺のこと、誰か呼ぶとかじゃなくて潮が一人でお姫様抱っこして運んでたらしい」

「何だ惚気か?」

「だとして悪いか、変だと思ったことを言っただけだ」

「お前が変なだけではなく潮も変だった、そして俺自身も変だと言われた。そう言えば朝、潮の下駄箱に何か入っていたようだったな……」

「何だと!?じゃあさっき来てた磯貝は」

「おそらく。急ぐぞ」

 自分と琥珀は走り出した。


⭐︎


 体育館裏。そこは告白スポットとして有名な桜の木が一輪植えられているおあつらえ向きの場所だった。「人生の正解高校」の敷地はその多くに塀がないため、外部の人間が入ることも容易だった。そんなこともあって実際に告白に使われたという話を耳にすること自体はある。けれど「人生の正解高校」の生徒同士で使われたという話は、そこまで聞かない。「人生の正解」という趣旨に反するからなのだろうか。「人生の正解」を誰が決めているかにもよる気はすごいするが、だからこそ、「桜の木の下には死体が埋まっている」なんて伝承が生まれるのだろう。

 まあ夏なんで全然青々とした葉がなっているだけで風情のかけらもないのだが、それはそれ。

  そこに見える二人の人影。そしておそらくその片方は……潮だ。

「間に合ったか……?」

「いや、ダメみたいだ」

 人生というのは因果なものでそこまでタイミングよく現場に居合わせられるわけではない。すでに自分たち二人が着いた時には片側は言葉をつむぎ終わっていた。そして、もう一人……潮が返答するところを、傍に到着したタイミングで目撃した。

「はい、お願いします」

 その受諾を耳にすることは、いくら急に訪れたことだとしても想定外だった。なぜならつまりそれは。琥珀が隣にいることも忘れて、自分は呆然とする。

 なんで。

 そんな。

 まさか。

 潮が、他の人の恋人になるなんて。

 僕が先に好きだったのに。

 「カフェオレ」として凝り固まって見ていた自分。そんな根拠もないのに勝手に聖域化して見ていた自分。性欲を覆った言葉だけを無遠慮にぶつけて本人の意思も何も見向きをしていなかった自分、

 そして、ここまでして潮の幸せそうな笑顔より自分のことを気にしている自分。

 そんな自分を横目に、磯貝は純粋に潮に恋愛感情を抱いていた。そして成就させた。

 そして、そんな中途半端な行動しか取れなくなっている自分と、その身体を恨んだ。

 こうでさえなければ、と。

 けれど、結局答え合わせをしなかったのは自分の方だ。だから先を越された。

 木の下で抱き合う二人を見ながら、涙を飲んだ。そうじゃん俺、ハグどころか手を繋いだこともなかった。その先なんて考えられもしてなかった。

 そう言えば予備校に未提出の過去問もあったな、と気づいたのもその時だった。

 破こうか。


⭐︎


 その日の夕方、自分は珍しく部活を欠席した。同じ部の同期や先輩には特に何も言われなかった。まあ理由は察されていただろう、あれは。そのことがいいのか悪いのかは分からないけれど。琥珀は慰めようとしてくれていたけれど、別にこちらに対して無理強いする感じでもなく、何か言葉をかける形でもなかった。あいつでも何を言えばいいのかわからなかったんだろう。差し伸べられた手を解いてしまって、一人でいる。

 それからしばらくの間、何をしていたのだろう。高校の周辺を彷徨っていた。周辺一帯が「人生の正解高校」の敷地なので正直開放感とかそんなものはなく、己の愚かさと閉塞感を同時に味わうことになった。

「所詮、籠の中の鳥、いや見せ物の猿か……」

 そして夜。

 海岸。

 マラソンの授業などでも使う、海岸。

 夕方までは陸上部の連中が使っていたので、実際のところ開くのを待っていた。我ながら衝動的な割に律儀だ。

「ありきたりな発想だけど、それでいい」

 たったまま立ち止まり、砂浜からただ水平線を眺める。憂鬱な人間がやりがちなことだ。人間失格、とは言うがこの行動は実に人間らしいものな気がしてならない。

 その海の先にはなんでもあるような気がして、何もない気もする。そんな浮き沈みを表すかのように、波が寄せ、そして引いていく。ただそこにある砂をさらっていってしまいながら。

 人生には何箇所か「ここで死んでもいい」と思える場所がある気がする。それは絶景とかではなくて、ほんとなんてことない日常の風景だったりする。自分にとってここは、それに該当する。別にその場所自体が死にたい気分をくれるわけではない。死にたい時に行きたい、死に場所にしてもいい場所なだけ。

「今日だった、のかもな」

 告白を受け入れた時の潮の幸せそうな笑顔、あの顔を自分が隣にいた時に見たことはなかった。自分ではあそこまで潮を笑顔にすることは不可能なのだ。自分では「ダメ」なのだ。

「偽物だから……」

 今の自分はコーヒー牛乳、いや、コーヒーを名乗っている牛乳に過ぎない。

 名乗っていたか?名乗ってすらいない。そもそもどちらなのか。

 やはりコーヒー牛乳。

 そして偽物の偽物。

(潮がコーヒーと牛乳どっちの方が好きなのかすら、自分は知らなかったな……)

 けれど、それでいい。そんなことは無理矢理に聞くもんじゃない。

 そう言い聞かせようとする。

 それは逃げだ。他人を傷つけるのを恐れているふりをして、自分が傷つくのからずっと逃げているだけだ。

「潮!」

 自分の理性が認識する前に反射で叫んでいた。自分は眼前に何を見ている?砂浜を駆け出す。走りながら気付く、虚な足取りをしている潮らしき人影があった。あれは……潮だ。

だが、その足取りは明らかに海の方へと向かっている。ゆっくりだが、躊躇いはなさそうだった。

 死ぬ気だ。潮は。

 なぜ。こんな場所にいることも行動も何もかもその理由がわからなかった。

 今日の今日告白を受け入れて、これから幸せなはずではなかったのか。


 自分抜きで。


 人影の手を強引に引っ張る。そして砂浜に引き戻す。自分の全力で。やれるだけの力で。

「やめ……!!!渚……か……」

 低音の地声を無理して引き上げた声は最初だけ、だんだん力を失っていった潮の声はか弱く、絞り出すようなものへと変化していった。そしてそんな強い声とは裏腹に、身体は掴み掛かられた最初からこちらに委ねるかのように、バタンと倒れていった。


⭐︎


 そういえば潮のことを自分から「可愛い」とか「大好き」とか言ってみたりはしていたし、それに対して潮も「ありがとう♡」と返してくれているだけだった。それはコミュニケーションのように見えた。しかし、その内実は触れないでおこうというコミュニケーションの回避でもあったのかもしれない。その「ありがとう」に続く言葉はなんなのか。自分が潮に対して恋慕、いやそんな綺麗なものではなく、よりドロドロとした性の感情をカモフラージュしたものとして「可愛い」や「大好き」をぶつけてしまっていた時、潮はそれに気づいていたのだろうか。


⭐︎


「私はね、本当は『普通の女の子』になりたかったんだ」

「……」

 しばらくして落ち着いた潮と自分は、砂浜の波が届かない辺りの場所に体育座りをしながら海の方向を見ていた。見ていたものが海か水平線か空か月かはわからないが。

普段とは違う、潮の地声。普段とは違う、潮の口調。その声のトーンは音の低さよりも弱々しさを伝えてきた。夜の海水に長時間浸っていて体力が減ってしまっているのだろう、無理もない。けれどその口調からは、明らかに今まで抱え込んでいた何かが爆発しているようだった。

 月明かりが照らした潮の顔は弱々しかった、けど残酷なことに、今までで一番美しくさえ見てた。その妖艶な眼差しで、こちらを見つめないでほしい。

「本当はひた隠しにしたかった。でもそんなことはできない」

「できないかどうかなんて、そんなの……」

「無理だよ。無理。すれ違ってるだけでもいろんな人が色々言ってるの聞こえるもん。骨格とか顔とか歩き方とか雰囲気とか」

「えっ」

「ほらね。そのリアクション。渚だったら気づいてもらえてると思ったんだけど……ダメか。私が悩んでたことなんて本当は悩みとして想定されてないんだ。だから最初から無理だった。そう気づいてた、昔の聡明な自分はね。だからここに来た。そうしないことが『人生の正解』だって、気づいてたから」

「……」

 潮が悩んでいたこと。それは「普通の女の子」でいたいという願望を胸に秘めていたことではなく、今「普通の女の子」と思われている人に実際には「普通の女の子」ではない、とは思われたくない、ということだった。しかし潮は容姿や言動はともかく、どうしてもその声がネックだ、そもそも「人生の正解高校」に通っている間はどうやっても「普通の女の子」と思われるのは厳しいのではないか……と自分はそう思ってしまった。

「私の本名、知ってる?」

「潮、じゃないのか?」

「あはは。あなたでもそれだったら、もう少し生きるべきだったかも」

「え」

「好きな小説の登場人物からつけたんだ、理由を知ってるネットの知り合いには想像と現実の区別くらいつけろって怒られたけど、それでもこれにしたかった。まあ、あの子に私が似てるかって言われたら天と地ほどの差があるから、似た名前だとしても名乗るのが烏滸がましいかもだけど」

「意外な事実……」

「まあ名前だけそうしたって意味ないよ、学校の中だけだしね。声も低い。通ってるのもこんなとこだし。今後も出身校を語るたびにぎくしゃくする。お笑いだよね」

「じゃあ、なんで磯貝と」

「私のちっぽけなプライド、かな」

「渚も誰も、私に告白してくれなかったからね。結局みんな私のことは普通じゃないコンテンツとしてしかみてない。いくら口先だけ『可愛い』とか『すき』って言われてもみんな結局は普通なんだよねってなったし普通じゃない自分が本当に嫌になってたから。あーこんな開き直って生きたとしてもそれですら人並みの幸せなんてものは自分みたいな変態と区別のつかない中途半端な化け物には烏滸がましいのかなって。それに……」

「それに……?」

「全部ドカーンって終わりにしたいんだ。大爆発。もうどうでも良くなっちゃった」

「その割に、1人で海に来て何をしてるんだよ……」

「ふふふふふふ……だよね?そうおもう。こんなところでぶちまけたところで、砂浜の落書きは波に飲まれて消えてしまうのにさ。何もできない無力な人間で、バカなんだよ。結局、自分って自分のことしか考えていないからこんなんなんだろうね」

「潮がバカなわけないだろ、大体……」

「明るく戯けるように周囲に振る舞って悟られないようにしてたのは計算ずくだろって?随分な褒め言葉ありがとうね」

「そんなこと言ってない……せめて行くなら二人にしてくれってこと」

「……ありがとう。でも、自分から自分のことどう思ってるかなんて、他人に向かっては言いたくもなかったから」

「なんでさ」

「そんな主張に意味なんてないと思うから。そうやって声高に権利だけ主張する人には思われたくないし。それに、そう言った結果で態度を変えた周囲を嫌いになってしまうと思うから。もっというなら権利を主張しないと『普通の女の子』になれない人間は、そもそも『普通の女の子』じゃないから」

「でも、人を」

「信じられるわけないじゃんよ。人間を。この学校の生徒を。何しろ昔いなくなった自分と似た先輩のことを未だに『彼』だとかそういう事は、わざとらしく呼ぶじゃん。一応学校にそういう教師とか講演会とかやられてるのにさ。つまりみんな内心、私みたいな人間のことは侮蔑の対象だ、気色悪いって思いながらそれが言い出しづらい世の中に窮屈さを感じてるんじゃないかって、そうとしか思えなくなった」

「そんな言い方はないだろ、そういう事は結局言わなきゃ伝わらないじゃないか」

「そうだよ、わかってるよ私のほうがエゴイストなことなんて。厄介な人間がより厄介な要求を持ち込もうとしてるなんて光景、側から見ても見苦しいもんね。だから言わなくても厄介じゃない「普通の女の子」ですって、伝わるようにならなきゃいけなかったんだ」

「じゃあ、どうするんだ。潮ならボイトレとかすれば、大学からなら……」

「そう思ってた時もあった。でもそれはファンタジーなんだ。『普通の女の子』じゃないことを言わなければ、言動を、容姿をしなければ相手が『普通の女の子』って思ってくれるだなんて、ね」

「何か、嫌なことでもあったのか」

 こんな時なのに、こんな時だからこそなのか、自分から出せる言葉は本当に一般的な、月並みなものでしかなかった。自分が反論や提案をしたとしても、さっきみたいにそんなこと等に考えついていたというような顔をされるだけかもしれないと、無意識のうちにそう思ってしまっているのかもしれない。

「決定的なことはないよ。状況の積み重ね。人は何かしらで察してしまうものなんだと思う。何かを避けるように多目的とか個室とか使ってればいずれはまあこうなるんだよ。そんな中で誠実に卑怯でいる事はただ傷ついて損するだけ。だから完璧じゃないのに、自分の過去や事実を知っている人がいない場所でもないのに、SNSのアカウントも消せてないのに、中途半端に何かをするのは、意味ないんだ」

「意味ないことはないと思うけど」

 少なくとも第一印象が好感触なことは、そうでないことに比べたら望ましいとは思う。しかし潮はそういう話も違うというような顔で、まるで何かに完全敗北したかのような面持ちで一人話し続ける。

「私が過去を捨てられてないのが甘かった。入学したての頃ね?まだ所属とか書いてたのさ、若気の至りで。歳くってそういうの消せてたと思ったんだけど、ダメだったね。昔の自分が書いてた投稿が堂々と残ってた、『人生の正解』所属です、って。ほんと、詰めが甘い。先達がアカウントも土地の縁も全部消してどこか行く理由を本当に身をもって実感した。最初から話聞いてたのに何で自分が繰り返すのかっていうアホさ加減も含めて自分が嫌になった」

「でも、そんなの見返す人間ほとんどいないだろ」

「逆だよ逆、言い訳をそうやって私は探してて、そういうSNSのオフ会とかで自分が『普通の女の子』じゃないって思われた時に何かしら悪かった部分を都合よく見出そうとしているだけ。本当はこの身がどうしようもないのかもしれないのに、努力が足りないだけかもしれないのに、そこを見ないふりして『情報』に言い訳を探そうとしてる。だからこの学校を選んだのも、当時の自分が何考えてたのかはわからないけどさ?今はそうだったって思うことにしてるんだ、『普通の女の子』じゃないことの言い訳を、逃げ道を作るためのものだ、って」

「言い訳って……」

「だから本当は別に『普通の女の子』みたいな声も出せはする。けどやってみてもダメだったから、もうそれも要らなくなっちゃった」

「え?」

「一度酸化したコーヒーは、元の味には戻らないんだよ」

知った顔から放たれた、知らない声。それは夜の海にセイレーンのように可憐に響き、遠くへ消えていった。

「……」

 何でだ。なんでこんな知らなかったんだろう。なんでこんなに魅せられているんだろう。何故諦念だけの絶望から紡がれた言葉を発している時の潮の顔が、今まで見てきた顔の中で一番美しいんだ。なぜ、世界はここまで残酷なんだ。

 「可哀想は可愛い」などという言葉を最初に思いついた人間は、本当に良くない。

 そしてこの時自分は、言おうとした、言えなかった、いや、そもそも自分に言う資格は今あるのだろうか、そんな思いが逡巡しながら口から出すのを躊躇った言葉があった。

「「普通の女の子」は別に良いもんじゃないよ」と。

 その代わりに、自分から出てきた言葉は別のものだった。

「そんな御託をつらつら並べてるけど、結局……怖いんだろ?『人生の正解高校』が共学になる、というより実験生徒として新しく生徒が入ってくるのが。状況はそりゃ変わるよ、今まで通りいられなくなるだろうし、だからと言って今まで通りいるのも不自然、けどそこに合わせて自分を変えるのも周囲から見ると不自然なんじゃないかって」

 そうだ、潮が怖がっていたのは自分が「普通の女の子」ではないことの露呈が今後続くことではない。それだけを考えるなら、むしろ今後「人生の正解高校」が変わることでそれ自体はしやすくなるはずなのだ。もちろん「言い訳」が減ることを不安視していたところもあるのかもしれない。だけれどもそれとも違うところに不安があったように見えた。それは「普通の女の子」が入ってくることで自分も「普通の女の子」としていられた可能性を嫌でも考え出すだろうに、自分は状況的にもう「普通の女の子」としている事はできない、そういう事なのだろう。

「渚……」

「でも思うんだよ、冷静に考えてみろ、こんな変な学校に自分から学年の途中で入ってくるような生徒のどこが『普通』なんだ?絶対そいつらも人のこと言えないような異常者だろ。コーヒーはコーヒーでもブラックにレモネード混ぜたような、人にずっと酸っぱい顔され続けてる……こんな顔ね酸っぱい顔って……みたいな連中だろ」

 それは潮のために言ってみたところもあるが、紛れもない本心だった。こんな変な学校に飛び込んでくるやつが「普通の女の子」を名乗れるわけないだろ。普通に考えて。

「ふふ……」

 突然の渾身の変顔に潮も思わず調子を狂わされたのか、少し微笑む。諦念だけの顔とは趣が違うその顔も、やはり美しかった。

「ありがとね」

それは一瞬。

 心で言葉を塞いでいる間に、物理的に唇を塞がれていた。


⭐︎


 あの日から三日連続で、潮は休んだ。

 横顔をよく見ていた気がしたけど、結局潮を正面しか、自分は見れていなかったのだと思う。けれど、それは本当に悪いことだったんだろうか?と言い訳をする日々でもある。いつかは回復するだろう、と意外と周囲は楽観的に見ているが、自分の中には何かしら言語化できない不安が残っていた。

「磯貝、お疲れ」

「お疲れよ」

 あの日から、磯貝とよく話すようになった。潮に対して告白を受け入れてもらえたと思ったら急にこれなのだから、ある意味では潮以上に精神的ダメージを受けていてもおかしくはないはずなのだが、割とその後もしぶとく学校に来ている。

「……潮の件って、聞いても大丈夫か?」

「全然平気よ。本人にも承諾は取れてるからね。あの後2時間後だっけかな。『文面でごめんなさい、一旦考える時間をもらっていいですか』ってメッセージ来たのは」

「潮本人から承諾もらってるのか……磯貝、お前の方はよく平気だな」

「そりゃあだって結局最初から最後まで無理言ってるのは自分だからな。学校の特性を考えても潮本人の交友関係を考えてもこっちが急にアプローチしてるようにしかなってないだろ?特にお前から見たら急に横恋慕してきた人間にしか見えんだろ、俺は」

「よ、横恋慕て」

「クラスメイトからの俺に対する評価がそれだったんよ。でも何事もダメでもともとだと思ってやってみて、うまく行ったと思ったらやっぱりダメだった。人の気持ちはちゃんと掴まないとダメってことさね。外堀から埋めんとイキ告は危ないだけだ」

「なんか、すごい真面目だな……」

「流石にメッセージをもらった直後はショック大きかったさ。それこそ海行きたくなるくらい。ただあの海って割と遅くまで運動部やってるじゃん?だから寝たら忘れられるかと思って普通に家帰ったんだよね。それに布団の上で思ったんだけど、趣味は合わん相手とは長続きしないしお互い不幸になるだけなら、一旦受け入れた後だろうとクーリングオフみたいに断る方がお互い幸せなのかもなぁって」

「そんなに趣味合わないもんなのか?」

「まあね。『普通の女の子』みたいな趣味って言ってたし。ひたすらゆっくり実況のファンアート書くのが最近のブームなんだと」

「それは『普通の女の子』なんだろうか……」

そういえばだった。「普通の女の子」と言う言葉自体は潮からは聞いていたものの、そもそも潮の「普通の女の子」像ってなんなんだ。翻って自分のイメージする「普通の女の子」像も本当に普通なのかに関しては疑義がある気がしてきた。

「恋愛って自分が好きになった相手を自分から好きにさせていく駆け引きだって言うだろ?流石に距離が遠すぎて自分にそれをするのは厳しいなぁ、って正直その時少し思ってたのもあるから、まあ青々してるよ」

「まあ、ならいいんだが」

 自己完結して爽やかそうな表情をしている相手に「お前の痩身高身長モデル体型、ゆっくりからはだいぶ遠いもんな」みたいなヤジは飛ばす気にはなれなかった。

「でもさ、俺は勝手にスッキリしてるけど、潮って結局今どんな感じか渚は知らない?」


⭐︎


 そんな会話を渚と磯貝がしているとき、琥珀はただ外を眺めながらいちごオレを吸うしかできていなかった。

(なんだ、本当に自己投影していたのは渚の方ではない。自分が渚に自己投影していたのではないか)

 そう心の中で自嘲していた。

 潮にも椿先輩と同じ轍を……結局踏ませてしまったという、後悔もあった。

あの時もこうだった。数日体調不良で休んだ後、そのままフェードアウトして夜の闇に消えていってしまった。

 琥珀はかつて椿先輩の双子の妹と交際関係にあった。その関係で椿先輩の家にもよくいくことがあり、交友関係があったのだ。駅でよろめいていた椿先輩の双子を助けたことが交際のきっかけだった。しかし、その時は言い出せていなかったが、助けるまでは駅でよろめいていた子のことをずっと椿先輩だと思っていた。なんなら椿先輩の家に行くまで名義や声は違うが椿先輩が事情あって別人を演じているのだろうと、その可能性を捨てきれずにいた。椿先輩とはそう言うことをしてもおかしくはない強さと可憐さを持っている人間だろうと、琥珀はある種買い被っていたところがあった。実際のところそうではなかったわけだが、そうでないと気づいた時にさまざまな感情が去来したこと、なぜ落胆と安堵の両方を自分がしてしまったのか。椿先輩の双子と交際を始めて数ヶ月、それについてしばらく考え込んでしまっていた時期があった。そしてその時期に椿先輩は突然精神の失踪してしまったのだ。本当のところは何がどうなのか全く、琥珀にはわかっていない。しかし、双子曰く椿先輩は双子の方とは異なり、成績が良い故に家での家族からの圧が強く、自分のやりたいことに対する反発を常にされていたと言う話は聞いていたので、そこから自分で星座を結んでいるだけにすぎない。けれどそれ以降琥珀の心にいたのは椿先輩の双子ではなく、椿先輩の方だった。だから誠実さをよしとする琥珀は双子とは別れたのだった。そしてその日から毎日、いちごオレを飲むようになった。それはほぼ毎日椿先輩が購買で買っていたものでもあった。

「あまり美味しくはないな、やはり」

 無理して真似をするものではないとは思っているが、誰も買わなくなって売られなくなるのはよろしくないと思っている。帰ってくるかどうかは絶望的だが、帰ってくる居場所はあるようにしたい。いちごオレを飲み続けているのはそんなささやかな願いだった。

「する必要も薄いのだろうが……」

 実際のところ、その後琥珀はネット上の海を探し回り、業務用の別名義になっている椿先輩を自力で探し当てた。それはお気に入りだと語っていたいちごオレの投稿からで、偶然によるものだった。今月末、再開できる予定も立ったが、学校に戻ってくるつもりはさらさら無いらしいと言う。ある意味個人のための願いとしていちごオレは意味をなしていないが、それが繋いでくれた縁であること、そしていずれ来るかもしれない後輩のために、いちごオレを飲み続けていた。


⭐︎


 次の日、自分たちは高校をサボった。

 正確には体調不良による不登校になっていた潮と一緒に、と言うかそれを口実に、健康な自分がサボっただけだ。少なくとも記録上はそうなっている。

 住所は知っていた。タランチュラと呼ばれる高層マンションの中層階に住んでいた。これは去年もらった年賀状に書いてあったからだ。年賀状以外で知る由がなかったのは、我ながら交友の浅さに辟易したが。潮の保護者の連絡先は別件で知っていたので、そちらにメッセージを送ってどうにか入らせてもらった。強引に連れ出すとかができないダサさはあるけど、仕方がない。

「おはよう潮」

「おはよう……渚」

 流石に事前通告があったからか、普通に応対する潮。とはいえなんか寝起きなのか少し眠そうだが。もう朝10時なのに大層なご身分である。普段の制服ともオシャレ着とも違うジャージ姿の潮もまた、可憐であった。

「じゃあ、行こうか」

「え、学校はやだよ」

 面食らった表情をした潮。どうやら「渚がここに来る」までで情報は止まっていたらしい。

「違う違う。進路探しに行かないと」

「ふぇ?」

 ガタンゴトン。揺れる電車の中で、自分と潮は隣同士に座っている。横顔を知ってから見る潮の横顔は、いつも見ていたはずなのに机の上とは違う新鮮さを感じる。

「神奈川を抜けた。つまり人生の『不正解』突入かもしれない」

「それでもいいよ、あの海の先が正解なくらいだったら」

「それもそうかも」

「で、この電車でどこに向かうの?私たち」

 潮の口調はあの夜と今までを混ぜたような砕けた感じになっている。

「山梨に行こうと思う」

「なんで?何しに?」

「なんとなく、フォッサ・マグナを見に行きたくてね」

「え?何それ気になる」


 言ってみたは良いもののどうするんだろう、何も考えちゃいない。着いた先でどうするのかなんて。

 道を違えても、同じでも、その結果どうなっても。よくはないが、事前に考えすぎて考えすぎてその結果窮屈でどうにもならない人生を送ってしまって爆発した結果がこれなのだから、ある種どうしようもないのかもしれない。どうにかしてくれ、未来の自分。少なくとも最後にコーヒー牛乳を飲むことだけは決めている。金がかかってでもなんでも良いから、とりあえずそうなるように祈るだけだ。


 結局二人とも進路調査は白紙のまま、まだ机の中であった。

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コーヒー牛乳とカフェオレ 影宮さつき @itmti

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