愛の、アイの国

真鶴コウ

第一話  デビュー戦①

 その港には、錆がこびりつく古いコンクリート造りの倉庫が並ぶ。夜明け前の靄がその輪郭をじわりと滲ませた。

 魚の生臭い匂いが、高く積まれたまま朽ちた木材のパレットのそれと混ざり合い、冷たい空気の中でひときわ鼻を刺した。

 ここは、ここだけで、このまま時間を腐らせたような、そんな重たい静寂が港を支配していた。波が埠頭のコンクリートに鈍くたたきつける音だけが、この灰色の世界に規則的な呼吸を与えている。


 倉庫街の道の真ん中で、黒猫が佇んでいる。

 黒猫は何かを見据えたままジっとして動かない。


 ネズミでもいるのかと思いきや、その視線の先で、なにか大きな塊がもぞもぞとうごめく。


 黒猫はさらに凝視する。


 そこにはふたりの女が古く錆びた階段下にしゃがみ込み、なにやらコソコソと密談をしているのだった。


 ふたりとも揃いの白いフーディのロングコートに身を包み、

 ひとりは年のころは十五、六歳くらいだろうか、銀髪の腰まで届くポニーテールを揺らしながら華奢な身体を折って膝を抱えこみ、少女にはだぼだぼのコートが風船のようにふんわりと膨らんで見える。

 何がそんなに楽しいのか、まるで子どものように興奮を隠しきれず、その瞳はキラキラと輝いている。体まで自然と前のめりになって、もう一人の女性の言葉に一心に耳を傾けていた。


 そしてもう一人は、二十代前半くらいだろうが、その佇まいはやけに貫禄のある大人の女性に見える。少女とは違い、フーディコートをまるで軍服のように着こなし、その横顔は真っ白く、シルエットは三日月のよう。長い前髪の隙間から鋭い眼光がチラついた。

 ミルクティー色の髪は光の当たり具合で金色に見える。それを低い位置でしばり、肩へ流していた。

 銀髪の少女の目を真っ直ぐ見つめ、何かを言い聞かせるように真剣に話をしている。


 気まぐれに黒猫がその場を立ち去ろうとした瞬間、銀髪の少女はいきなり振り返り、互いにバチリと視線がぶつかった。


「あ! ネコちゃん!!」


 少女は大きな瞳をさらに大きく輝かし、その場から弾けるように黒猫へ突進した。その突然の行動に、金髪の女性は思わず声をあげる。


しきみ! バカ! 大きな声出すな!」


 いきなりの出来事におびえた黒猫は、倉庫街の隅で打ち捨てられた赤さびだらけのコンテナ群の影へ逃げ去った。


「ああんっ! ネコちゃあぁん……」


しきみ』と呼ばれる少女は、瞬く間に見えなくなった黒猫に、惜しむような情けない声をあげた。そして、次の瞬間、キッと金髪の女性へと振り向く。


さかきの声の方が大きいよ!ネコちゃん逃げちゃったじゃんかー。あっ!あと樒のことバカって言った!?」


「これから任務だっていうのに、猫と遊んでる場合じゃないだろう!」


 榊は声を噛み殺しながら樒の耳を引っ張り、階段下へ身を屈める。


「これは私たちの初任務だ。もし失敗するようなら、消されるのは君のほうだぞ、分かってるのか?」


 樒はぷうと頬を膨らませ反抗して見せたが、榊は無視してもう一度現場となる倉庫街の地図を端末に映して見せた。


「最後に今回の作戦をもう一度確認する。任務の目的は?」


「表向きは『治安維持のための浄化作戦』。だけどホントは……この港が海上ルートの結節点で、政府が管理できない物流とか人流が集まって変な商売が始まっちゃったから、裏の経済圏を潰すために住民ごと“調整”する」


「あっ……お前、私のタブレット覗き見たな!?」


「んで、結局、私、何すればいーの?」


「任務は単純。樒、お前があの風上にある監視塔に登って病を撒く。それだけ」


「あの塔に登るだけ? 分かった。簡単っ!」


「その間、巡回ロボットが五分ごとに倉庫群を回る。センサーに引っかかれば即座にVACCINEヴァクシンに通報される。だから走るな。声も出すな。私が囮になる」


「鬼ごっこかー♪」


「それでいい。行けるか?」


「お任せあれっ! だー……よっ♡」


 樒は遠慮なく鬼の形相をした榊の鼻先をツンっとはじくと、だぼだぼのコートの袖を掴み頬に当て、えへん、とばかりに可愛くポーズを決めた。


 榊はこれまで、作戦の成功のために私情を挟まず、必死に作業を進めてきた。しかし、いざ相方としてバディを組まされた樒のその緊張感のない様子に、さすがにげんなりとした視線を送る。


 が、そんな榊など意にも介さず、樒は海の向こうを指さした。


「あ!  合図のタンカー、あれじゃない?」


 地平線を辿るように石油ガスを運ぶタンカーがゆっくりと北上してくる。

 榊はやり場のない感情をぐっと飲み込み、仕事モードに頭を切り替える。


「よし、行こう」


 二人はフーディを深くかぶると、朝靄の中に吸い込まれるようにして、作戦を開始した。

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