第2話変わり者の娘と辺境への旅立ち

舞踏会翌日


「……フィオナ、本気なのかい?」


 父、ロイ・アーベル伯爵の声は、どこか震えていた。

 執務室の中、淡い陽光がカーテンを透かして机の上に落ちている。

 その光の中で、フィオナはまっすぐ父を見つめていた。


 「はい。本気です、お父さま」


 少しもためらわず、そう答える娘を見て、伯爵は深くため息をついた。

 傍らの母、マリアンヌ夫人も、ハンカチを握りしめながら眉を寄せている。


 「お前は昔から……周りが驚くようなことばかり言う子だったけれど、

  まさか“恐ろしい”と噂される辺境伯のもとへ嫁ぎたいなどと……!」


 「お母さま、恐ろしいって、みんなが言っているだけです。

  でも、実際にお話ししたら、とても理知的で優しい方でした」


 マリアンヌ夫人は、思わず言葉を失う。

 娘の目には、ほんのわずかの恐れもない。むしろ、夢を語るように輝いている。


 「優しい……? あの辺境伯が?」

 伯爵が思わず聞き返す。

 「魔獣を狩っては“核”を集める男だぞ? 部下たちすら怯えるというのに」


 「はい。でも……魔獣を恐れぬ人は、きっと自然を理解している人でもあります。

  辺境の地では、魔獣も生態系の一部なんです。

  私、ずっと“生き物”の研究がしたかったの。魔獣のことも、もっと知りたいんです」


 その声は、どこまでも澄んでいた。

 まるで幼い頃から大切にしてきた夢を、そのまま口にしているようだった。


 ロイ伯爵は、思わず昔を思い出す。

 庭に出ては虫や鳥を観察し、侍女たちを困らせていた幼いフィオナ。

 貴族令嬢らしく刺繍を覚えさせようとしても、いつの間にか庭の端でカエルを観察している。

 そんな娘を叱ることができず、苦笑するばかりだった。


 ——本当に、変わり者だ。


 「お前が魔獣に興味を持っているのは知っている。だが、命の危険だってある。

  辺境は、王都のような穏やかな土地ではないのだぞ?」


 「それでも、行きたいんです」

 フィオナは真剣な表情で言った。

 「辺境伯さまは、私のような娘を拒まずに受け入れてくださった。

  “恐れぬなら来てみるといい”と、そうおっしゃったんです」


 その言葉に、ロイ伯爵は思わず黙り込む。

 父親としての本能が、娘を危険な地へ送り出すことを拒んでいる。

 しかし、同時に彼女の真っすぐな瞳が、もう誰の言葉にも揺らがぬ強さを宿していることも分かっていた。


 「……はぁ」

 伯爵は妻を見る。

 マリアンヌは静かに目を閉じ、ゆっくりと首を縦に振った。


 「この子は、昔から自分の心に嘘をつけない子ですわ」

 「……分かっている」

 伯爵は目を伏せ、手を組んだ。

 「だが、せめて条件をつけさせてもらう。——護衛を二人、必ず同行させること。

  それと、毎月、無事の報せを届けること。それが守れぬなら帰ってこい」


 フィオナは目を輝かせて深く礼をした。

 「ありがとうございます、お父さま! 必ず守ります!」


 その笑顔を見て、伯爵は苦笑した。

 娘の夢は止められない。だが、どうか無事であってほしい。

 ——そう願わずにはいられなかった。




 出発の日の朝。

 王都の空は澄み渡り、白い雲がゆるやかに流れていた。


 フィオナは旅装を整え、馬車の前に立っていた。

 淡い銀髪を陽の光が照らし、まるで光の粒をまとうように輝いている。

 胸元のアメジストのペンダントは、母からの贈り物だった。


 「寒いところだから、これを持っていきなさい」

 マリアンヌがフィオナの手に白いマフラーをかける。

 「はい……大事にします」


 母の手を握るフィオナの瞳には、不安よりも希望の光が宿っていた。


 その様子を見て、ロイ伯爵は小さく笑った。

 「本当に……お前はアーベル家の誰よりも強いな」

 「そうですか? お父さまのほうがずっと立派です」

 「いや、違う。父親は娘を送り出すとき、どんなに強くても心が揺らぐものだ。

  だが、お前は……揺らがない目をしている」


 そう言って、伯爵はフィオナの頭を軽く撫でた。

 幼い頃、庭で泥だらけになった娘の髪を撫でた時と同じ手つきだった。


 「行きなさい、フィオナ」

 「はい。必ず、笑顔で戻ります」


 扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。

 蹄の音が遠ざかるたびに、伯爵夫妻の胸の奥に、

 ぽっかりと空いたような寂しさが広がっていく。


 だが、その先で娘が新しい未来を掴むのなら——それでいい。


 ***


 王都を離れ、石畳の道が土に変わるころ。

 車窓の外には、徐々に荒野と森が広がりはじめた。

 遠くに黒い山脈が見える。その向こうが、辺境——ヴァルト領。


 フィオナは胸の前で手を握りしめた。


 (もうすぐ……あの方に会える)


 彼の金の瞳を思い出す。

 恐ろしいどころか、不思議とあたたかかった。

 彼の言葉は短く、無骨だったけれど、どこか優しさがあった。


 「辺境へ。魔獣の本場だ」


 あの一言が、ずっと耳から離れない。


 馬車がゆるやかに揺れる。

 窓の外で風が唸り、草がなびく。

 その先に待つ未知の世界に、フィオナの心は高鳴っていた。


 ——恐ろしいと噂される男のもとへ向かう娘の旅は、

 まだ始まったばかりだった。


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