第2話 最初のキーワード、ホスピス

 安田京一郎は、無菌室の白いベッドに横たわっていた。肺を蝕む癌はすでにステージIV。余命は、医師の言葉を借りれば「数ヶ月」。しかし、京一郎の意識は、肉体の苦痛よりも、遥か昔の記憶に囚われていた。

​ 京一郎が入院する特別ホスピスは、白い壁と静寂に包まれた、まるで上質な監獄だった。外の景色は美しい庭園だが、彼にとってはどうでもよかった。彼が見つめるのは、天井の染み、そして、その染みが時折、飯山海子の笑顔に見えることだけだ。

​飯山海子――。

 京一郎にとって、彼女は罪の共犯者であり、世界の全てだった。10年前、二人は世間を震撼させた連続凶悪事件を起こした。京一郎は強盗と傷害の実行犯。しかし、殺人だけは、彼が手を下す前に、海子が全てを終わらせていた。

​ 海子は8人を殺害し、事件の最終局面で警察に包囲された際、拳銃で自らの頭を撃ち抜き、自殺した。彼女の残した言葉は、「私だけが汚れる。京一郎は生きて」だった。

​「生きて……か」

 ​京一郎は微かに笑った。彼女は彼を守った。殺人という「最も重い罪」から彼を遠ざけた。そして今、彼が死に瀕している。ようやく、海子のもとへ行く時が来たのだ。

​ ある夜、担当看護師が京一郎に一通の手紙を差し出した。海子が死ぬ直前に、弁護士を通じて預けていたものだという。封筒には「京一郎へ、私が消えた時、あなたに『お迎え』が来た時に開けて」とあった。

​ 震える手で封を切ると、達筆な文字が並んでいた。それは、海子からの、**死の迎え方に関する「計画」**だった。

​「京一郎、あなたは私と違って、綺麗なまま死ななければならないわ。警察に怯えることも、病魔に苦しむこともなく」

​「私は、あなたの『お迎え』のために、あの場所を選んだ。あなたが来るまで、ずっと待っている」

​手紙の最後には、座標が記されていた。それは、かつて二人が、**「世界で一番美しい場所」**だと語り合った、北極圏の廃墟となった天文台の座標だった。

​ そして、その座標の下に、たった一言。

​「ホスピスの窓から、あなたを連れ出すのは、私の『残したもの』よ」

​ ホスピスの病棟は、夜になると、まるで生と死の境界線のように静まり返る。京一郎は手紙を握りしめ、窓の外を見つめた。

 余命いくばくもないとはいえ、ホスピスの警備は厳重だ。どうやって、この白い監獄から抜け出すというのか?

​ 午前3時。月明かりだけが頼りの暗闇の中、病室の窓ガラスが、ほとんど音もなく、外側へ開き始めた。

​ 現れたのは、一人の男。全身を黒いウェットスーツのような特殊な服で覆い、顔には高機能なマスクを付けている。しかし、その瞳だけは、京一郎の記憶にある海子と似た、強い光を放っていた。

​ 男は静かに言った。

「安田京一郎さん、お迎えに上がりました。海子様の**『遺産』**です」

​ 京一郎は理解した。海子は、自らの死の後に彼を迎えに来るよう、誰かに、あるいは何かに、指示を残していたのだ。

​ 男の背後には、建物の外壁を這い上がるための、極秘のクライミング・ギアが備え付けられていた。 それは、京一郎がかつて事件で使った、どの道具よりも洗練された、「プロ」の道具だった。

​ ホスピスの静寂を破ることなく、二人の脱出劇が始まった。

​ 京一郎は衰弱した体を押して、男の助けを借り、クライミング・ギアを装着する。男は彼を背負い、夜のホスピスの壁を垂直に降下していった。

 ​地上に降り立つと、そこには音もなく停車している、高性能な救急車が待っていた。海子の「残したもの」は、ただの「お迎え」ではなく、周到に準備された、死への逃走経路だった。

​ 救急車の中は、最新の医療機器で満たされていた。男は医師免許を持つプロフェッショナルのようだった。

​「これから、海子様の待つ場所へ向かいます。道中、あなたの体力を最大限に維持します」

​ 京一郎は窓の外の夜の街を見た。警察の追跡はない。この脱出は、事件ではなく、一人の末期患者の移送として、完全にカモフラージュされているようだった。

​ 数日後、京一郎は極寒の天文台のドームの中に立っていた。男は京一郎に、酸素マスクと暖かい毛布をかけ、そして、一枚の写真を渡した。

​ それは、10年前、海子がまだ幼い子供を抱いて笑っている写真だった。

​「海子様は、あなたの殺人鬼としての記憶を消すため、あなたに**『殺人者』の烙印を押させないため、そして、あなたが将来『もう一度、父親になる』**ことを許すために、全てを一人で背負ったのです」

​ 男は、海子と京一郎の間にできた、そして、海子が死の間際に他者に託した**「子供」**であった。男は、海子の「お迎え」という遺言を実行するために、医師として、そして工作員として生きてきた。

​京一郎は悟った。海子の**「遺言」は、彼を汚れたまま死なせるのではなく、真実を知り、「生きていた証」**を抱きしめて死なせるための、最後の愛だったのだ。

​ 京一郎は、ホスピスで与えられた静かな死ではなく、愛する者の真実と共に、この世界で最も美しい場所で、その生を終えることを選んだ。

​ 夜空のドームに輝く無数の星の中、京一郎は静かに目を閉じた。彼の心は、海子のもとへ、罪と罰を超えた、永遠の安息へと旅立っていった。

​ 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る