仮面師の娘

北宮世都

第1話

工房には、いつも木を削る音が響いていた。

父が彫刻刀を走らせるたび、木屑が舞い、新しい顔が生まれる。能面。喜怒哀楽を超えた、永遠に固定された表情。

私はその音を聞きながら育った。でも、自分で面を彫ったことは一度もない。

「いつか、お前も彫るようになるさ」

父はそう言っていた。でも私は首を横に振った。人の顔を見ることさえ怖いのに、顔を作るなんて。


父が倒れたのは、秋の終わりだった。

脳梗塞。命に別状はないが、右手が麻痺して動かない。医師は「リハビリに時間がかかる」と言った。

病室で、父は申し訳なさそうに言った。

「頼まれていた面がある。神社の巫女が使う神楽の面だ。来月の祭りまでに仕上げないといけない」

父は未完成の面を取り出した。白木に、うっすらと顔の輪郭が彫られている。

「断りの電話を——」

「私がやる」

自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。

父は目を丸くした。

「お前、本気か?」

「うん」

嘘だった。本気なんかじゃない。でも、父の仕事を途絶えさせたくなかった。


工房で、未完成の面と向き合う。

白木の表面には、父の彫刻刀の痕が残っている。でもまだ顔じゃない。表情がない。

私は彫刻刀を手に取った。刃先が震える。

何を彫ればいいのだろう。私には、人の表情が読めない。いつも目を逸らしてきたから。

それでも、刃を木肌に当てる。

ゆっくりと、削り始めた。


削り続けるうちに、気づいた。

この面は、私が作っている。私が、この顔を決めているのだと。

目の形をどうするか。口角を上げるか、下げるか。それは全て、私の選択だった。

仮面を彫るという行為は、自分がどんな「顔」で世界と向き合いたいかを、木に刻む行為なのだ。

私は、自分の理想の表情を彫っている。

穏やかで、それでいて少し微笑んでいる顔。誰かを拒絶しない顔。人を受け入れられる顔。

それは、私が持ちたかった表情だった。


一週間かけて、面が完成した。

白木に、柔らかな表情が浮かび上がっている。完璧ではない。でも、確かにそこに「顔」がある。

私は恐る恐る、その面を顔に当てた。

鏡を見る。

そこには、私ではない誰かがいた。いや、違う。これも私だ。

この顔は、私が作った。私が選んだ表情。私が世界に見せたい顔。

不思議と、心が落ち着いた。この面の下で、私の素顔は守られている。でも同時に、この面を通じて、私は世界と繋がっている。


祭りの三日前、神社を訪ねた。

社務所で、若い巫女が出迎えてくれた。彼女は笑顔で私を見た。

いつもなら目を逸らす。でも今日は、少しだけ彼女の目を見ることができた。

「面をお持ちしました」

彼女が包みを開けると、神楽の面が現れる。

「わあ......素敵です。優しい顔ですね」

その言葉に、私は少し驚いた。優しい顔。そう、私はそれを目指して彫った。

「ありがとうございます」

「実は私、神楽を舞うのがすごく怖くて」彼女は面を見つめながら言った。

「たくさんの人に見られるのが。でも、この面を着けたら、少し勇気が出そうな気がします」

彼女の言葉が、胸に響いた。

「よかったら、当日来ていただけませんか? 私、あなたに見てもらいたいんです。この面を着けた私を」

断ろうとして、言葉が出なかった。

「......行きます」

気づけば、そう答えていた。


祭りの日。境内は提灯に照らされ、人々で賑わっていた。

私は拝殿の前に立ち、神楽を見守った。人混みの中にいるのは苦手だったが、不思議と落ち着いていた。

笛と太鼓の音が響く。

巫女が現れる。白い装束に緋袴、そして——私が作った面を着けていた。

神楽が始まる。

その瞬間、息を呑んだ。

私が作った面が、生きている。

いや、彼女が面に命を吹き込んでいるのだ。

私が彫った穏やかな微笑みが、彼女の舞に合わせて表情を変えるように見えた。かがり火の光で、時には喜び、時には憂いを帯びる。

固定された表情のはずなのに、生きている。

それは、面を着けた人が、そこに自分を重ねているからだ。

仮面は、装着者と一体になることで、初めて完成するのだと気づいた。

神楽が終わり、巫女が面を外す。その下から現れた彼女の顔は、汗に濡れていた。でも、笑っていた。

参拝者から拍手が起こる。

私も、初めて人前で、素顔のまま微笑んでいた。


神楽の後、巫女が私のところに来た。

「ありがとうございました。あの面のおかげで、怖くなかったです。むしろ、楽しかった」

「それは......」

言葉が続かない。

「あの面を着けたら、新しい自分になれた気がしたんです。でも同時に、自分は自分のままで。不思議な感覚でした」

彼女の言葉が、私の心に染み込んでいく。

「私も、同じでした」

私は静かに言った。

「あの面を作ることで、私も変われた気がします」

彼女は微笑んだ。

「じゃあ、お互い様ですね」

そう言って、彼女は私の手を握った。温かい手だった。


工房に戻る道、秋の風が頬を撫でた。

もうすぐ冬が来る。父もリハビリを終えて、また面を彫り始めるだろう。

そして私も、彫り続けるのだと思う。

様々な顔を。様々な表情を。

それは他人のためでもあり、自分のためでもある。

仮面を作ることは、自分と向き合うことだから。

そして仮面は、装着者と共に生きるものだから。

空を見上げると、夕日が工房を照らしていた。

私は素顔で微笑んで、工房の扉を開けた。

新しい木材が、私を待っている。

そこから、また新しい顔が生まれる。

そして誰かが、その面と共に、新しい自分を見つけるのだろう。

仮面と共に。

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