閑話② 黒崎と結。あかりの母との過去

十数年前。まだ協会が力を持っていた頃――

夜の研究塔。

無数の魔法陣が淡く灯る中、黒崎はひとり古い記録を写していた。

硝子窓の外では、雪が静かに降っている。


扉が開き、柔らかな足音が近づく。

「また、こんな時間まで残ってるのね。」

振り返らなくても分かる。

その声の主――結。


白衣の裾を揺らしながら、彼女は机の上の資料を覗き込んだ。

「“始まりの書”の研究、まだ続けてるの?」

「……終わらせるわけにはいかない。

 この書には“世界の再定義”の理が記されている。

 人の記憶、魂、そして――運命すらも書き換える力がある。」


黒崎の言葉は静かだったが、奥底に狂気の熱を孕んでいた。

結は困ったように笑う。

「あなたは本当に、不器用ね。

 そんな力に触れたら、きっと“人”ではいられなくなるわ。」


黒崎は筆を止めた。

結の横顔が、ランプの光に照らされて儚く揺れている。


どうしてだろう。

真実を追うことしか知らなかったこの心が、

彼女を見るたびに痛む。


「君は、真実が怖いのか?」

「ええ。だって、真実って、誰かを傷つけるものだから。」

「……俺は違う。

 真実は、人を救う。

 どれだけ残酷でも、偽りよりはましだ。」


「それでも、あなたは――」


結がそっと彼を見つめた。


「誰かを救いたくて、“嘘”を選ぶ日が来るかもしれない。」


その予言のような言葉が、黒崎の心に深く沈んだ。


数日後。

協会は“始まりの書”の封印実験を決行した。

だが、実験は暴走し、制御不能のエネルギーが研究塔を包み込む。


「結! 危ない、下がれ!」


黒崎は彼女の腕を掴み、魔法陣の外へ押し出した。


爆風と光。

崩れる天井の中で、彼はひとつの決断をする。


彼女だけは、生かさなければならない。

たとえ、掟を破ってでも。


禁じられた再生術――“魂の記録転写”を行使した。

彼の命の一部を、結に移す。

本来なら禁術中の禁術。

それは“命の記録”を共有する行為だった。


結は意識を取り戻し、涙を流した。


「どうして……あなたまで巻き込まれるのに……!」


黒崎は笑った。


「俺はもう、人じゃない。真実を求める亡霊さ。」


「違う。あなたは――」


彼女が言いかけたその時、

崩れた石柱が間に落ち、二人は引き離された。


それが、最後だった。


後日、黒崎は“禁術を行使した罪”で協会を追放された。

結はすでに別の地で目を覚まし、彼を覚えていなかった。

新しい人生を歩み始め、やがて――道都の父と出会う。


黒崎は遠くから、その姿を見守っていた。

笑う彼女の隣に、あの男が立つ。

幸福そうな光景。

それでも、胸の奥が焼けるように痛んだ。


俺が守ったのは命だ。

だが、彼女の“心”までは守れなかった。


そして今――


黒崎は再び“始まりの書”を求める。

かつて彼が壊してしまった“記録”をやり直すために。

結の娘――あかりを通じて。


「君の母が選んだ“愛”の意味を、

 俺はまだ理解できない。

 だからこそ、もう一度――“真実”を書き換える。」


雨の夜、黒崎は独り、古い頁を開いた。

その文字は静かに滲み、血のように赤く染まっていく。


――俺の罪は、愛だった。

嘘をついてでも、君を生かしたあの夜が。

いまも、俺をこの闇に縛りつけている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る