第3話 光(外)
作業棟の空気は、いつもより湿っていた。
冷却管の亀裂が拡大している――AIの報告はそう記していたが、アマンダには別の意味に聞こえた。
“外”が、呼んでいる。
配管の奥、前回塞がれたはずの裂け目は、再び開いていた。
誰かがこっそり触れた形跡がある。金属の縁に、指の跡があった。
その痕跡を見ただけで、胸の奥が熱くなる。
彼女は無意識に周囲を見渡した。
原罪派の囚人が一人、少し離れた場所でこちらを見ていた。
名をキアナという。
薄い髪と、祈るように組まれた手が印象的な女だった。
「アマンダ、やめておきなさい」
その声は、どこか柔らかく、それでいて恐怖を帯びていた。
「見た者は、罰を受けるの。あれは神が閉ざした世界の傷口よ」
アマンダは首を振る。
「神なんて、いない」と言いかけて、やめた。
言葉の代わりに、ただその穴に手を伸ばす。
外気が触れた。冷たい。けれど、生きている。
湿った空気が指の隙間をすり抜けていく。
金属と薬品の匂いしか知らない彼女にとって、それは異物だった。
胸の奥で、心臓が痛む。
それが何の反応か分からない。だが確かに、内側から“なにか”が動いていた。
数時間後。
作業が終わっても、アマンダはあの裂け目の前から離れられなかった。
空調の音、AIの指示、周囲の囚人の足音――すべてが遠く感じる。
世界の輪郭が、ゆっくりと溶けていく。
「見てはならない」
誰かの声が頭の中で響いた。
それはキアナの声ではない。
もっと古い、もっと深い声――“前の誰か”の記憶のような残響。
だが、その言葉は逆に背中を押した。
見ることが、禁じられている。
ならば、そこに“なにか”があるということだ。
アマンダはゆっくりとしゃがみ、顔を近づけた。
穴の向こうには、光があった。
その光は、規則的ではない。AIの照明のように一定ではなく、風に揺れている。
暖かく、柔らかく、彼女の網膜に染みこんでくる。
視界の端で、何かが動いた。
白い粒――空気中を漂う塵。
それが金色に見えた。
手を伸ばす。届かない。
だが、届かなくても、確かに“世界”がそこにある。
涙がこぼれた。
彼女は涙という現象を知らなかった。
だが頬を伝う液体が、今まで感じたことのない“自分”を教えてくれた。
「……どうして泣いているの?」
背後に立つキアナの声。
アマンダは振り返らず、ただ答えた。
「分からない。けれど、あれを見ていると……私が生きている気がするの」
キアナは沈黙した。
しばらくののち、小さく呟いた。
「それが罪なのよ、アマンダ。生きたいと願うことが、いちばん重い罪」
その言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
けれど、もう遅かった。
彼女の中で、何かがはっきりと“芽吹いて”しまった。
光の向こうで、風が木の葉を揺らしている。
草の音。水の反響。鳥の声。
どれも記録データではない、生の音だった。
アマンダは壁に指をかけ、裂け目を少し広げた。
金属が軋む音が響き、AIの警報が鳴る。
だが止めようとする者はいない。
周囲の囚人たちはただ、彼女を見ていた。
その目には、恐怖でも羨望でもない、希望の色があった。
穴の向こう、わずかに広がる外の空。
そこに、太陽があった。
人工光ではない、燃える球体の光。
その眩しさに、アマンダは目を細めた。
「これが……光……」
その瞬間、全身を電流が走るような衝撃が貫いた。
外の世界の情報が、神経を介して脳を焼いた。
それでも、彼女は目を離さなかった。
知ることは、罪。
けれど、知らずに生きることは、罰だ。
アマンダは初めて笑った。
それは、涙と笑いが混ざった奇妙な表情だった。
「被検体R-21984、感情値変動:快楽・恐怖同時波形。記録継続。」
AIの冷たい声が、どこか遠くで響く。
だが、もう誰もそれを聞いていない。
アマンダの世界は、閉じられた牢獄から解き放たれた。
その光は、彼女にとっての知恵の実であり、
人類が二度と触れてはならなかった“自由”そのものだった。
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