レゾンデートル

BOA-ヴォア

第1話 誕生(Origin)

 ――世界に、音が落ちた。

 滴る水が一滴、無音の空気を破り、静寂を濁らせた。

 その次の瞬間、肺の奥が熱を持つ。

 冷たいものが体内に流れ込み、ゆっくりと押し広がる。

 痛いほどの感覚。

 それが、アマンダが最初に知った“生”だった。


「被造個体R-41、心拍安定。反応波形、正常。」


 白衣の人々が記録を取りながら言葉を交わす。

 声の抑揚は限りなく機械的で、どこにも“人”の気配がなかった。

 だがその音こそ、アマンダの世界で最初に触れた他者の証だった。


 まぶたを開ける。

 光が焼けるように差し込み、世界が形を持ちはじめる。

 天井は灰色。壁は無菌の白。

 部屋の中には、自分と同じ顔をした少女たちが静かに横たわっていた。

 十体。二十体。数える意味すらなかった。


 鏡の中の自分ではない。

 複製された命たち。


 この国では、犯罪者の精神記録を複写し、

 その“罪”を人工の肉体に移す制度が成立していた。

 「原罪継承刑法」。

 人は死んでも罪は死なない。

 罪の総量が尽きるまで、クローンが生き続け、刑を果たす。


 アマンダはその一体だった。

 自分が誰の影なのか知らない。

 出生証明書には名前の代わりにR-41とだけ記されている。

 元の人物は、数十年前に処刑されたという。

 だが、その罪が“未だ贖われていない”と判断された。

 だからアマンダは生まれた。

 彼女自身の意志とは関係なく。


 目を開けた初日に、教育係が言った。


「あなたたちは罪の形を持つために作られたの。

 それを理解しなさい。それがあなたの存在理由よ。」


 声は優しかったが、瞳は石のように冷たい。

 アマンダはその言葉を理解しようとした。

 しかし“理解”という感情が何を指すのか分からなかった。

 頭の奥で誰かが囁く。


「罪を償うために生きる。それが人間だ。」


 けれど彼女にとって「償い」は命令でしかなかった。

 善悪の区別は、感情のない法に委ねられている。

 彼女はただ、呼吸をする。

 それが存在の全て。


 刑務所には季節がなかった。

 朝と夜は照明の明滅によって切り替えられ、

 温度も湿度も常に一定に保たれていた。

 “自然”という概念は、教本の中にしか存在しない。


 作業棟では同じ顔が並び、

 鉄と汗の匂いが薄く漂う。

 アマンダたちは規定通りの姿勢で作業を続ける。

 誰も話さず、笑わず、顔を上げない。

 たとえ目が合っても、それは自分自身を見ているのと同じだった。


 ある日、一人の個体が作業台の前で倒れた。

 職員が駆け寄り、脈を取り、記録をつける。

 “R-33:停止”。

 それだけで処理は完了した。

 残された空いたベッドには、翌日には新しい“彼女”が届く。

 人々は言う。


「命は続いている。だから死ではない。」


 しかしアマンダは知っていた。

 死がなければ、生もまた希薄になる。


 夜。

 照明が落ち、室内に微かな闇が訪れる。

 アマンダはベッドの上で目を閉じた。

 寝息が揃う音が、遠くの波のように聞こえる。

 この均一な呼吸の中に、彼女の個性はなかった。


「私の罪って、なんだろう。」


 誰に問うでもなく呟く。

 この施設では質問すること自体が“無意味”とされている。

 罪を知る必要はない。贖えばいい。

 それが教育の第一原則だった。


 だが、問いは言葉を越えて残った。

 もし罪が行為ではなく、存在そのものだとしたら――

 彼女の生は、始まった瞬間に終わっている。


 隣のベッドで、もう一人の“アマンダ”が目を開けていた。

 暗闇の中、その瞳だけが光を反射している。


「眠れないの?」


 同じ声。

 同じ口調。

 まるで、鏡の中の反響が言葉になったようだった。


「うん。……息をしてる音が気になって。」


「それが、生きてるってことじゃない?」


「でも、生きてるって、どういうこと?」


 沈黙。

 二人の呼吸が重なり、少しの間だけ、

 世界に“リズム”が生まれた。

 それは、音楽のようでもあり、祈りのようでもあった。


 その時だった。

 どこか遠くで、金属の軋む音が響いた。

 空調管の継ぎ目が外れたのだろう。

 規則的だった空気の流れが、一瞬だけ乱れる。

 その隙間から、外の風が流れ込んできた。


 初めて嗅ぐ匂い。

 土とも、海ともつかない湿った香り。

 生温かく、胸の奥を掻き回す。

 呼吸を止めようとしても、身体が勝手に吸い込んでしまう。


 ――これは、外の世界の匂い。


 その確信が生まれた瞬間、

 アマンダの中で何かが静かに軋んだ。

 “罪”とは何か、“外”とは何か。

 その問いが形を持って、彼女の心に沈んでいく。


 彼女はその夜、初めて夢を見た。

 広い空の下で、自分が走っている夢だった。

 誰も命令しない。

 誰も彼女を監視しない。

 ただ、自分の息の音だけが、風のように響いていた。


 目が覚めた時、頬に涙があった。

 涙が何かも知らないのに、確かに“それ”だと分かった。


「息をしてるだけで、罪になるのかな。」


 誰も答えない。

 ただ、外の風がまた一度、静かに彼女の頬を撫でた。

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