42日目 謹慎明け/最強レナさん、教室で嫁宣言


 教室のドアを開けた瞬間、ざわり、と。

 波打っていた朝の教室の空気が、凍りついたように静まり返った。


「……おい見ろよ、妃だ」

「朝から? 初じゃね? 番組どうしてんだ?」

「なんでウチのクラスに。てか隣、……末永?」

「おい、あれ……手、繋いでねぇか……?」


 好奇心、軽蔑、憧れ、嫉妬。有象無象の視線が、一斉にレナさんへ突き刺さる。


「ガッツリ恋人繋ぎじゃん……マジかよ……」


 ぼくと出会う前の彼女なら、そんな心無いことを言われて、どうしていたのだろうか。

 ――いや。ぼくならどうしていたか。

 きっと逃げていた。でももう逃げない。

 繋いだ掌は、じっとりと濡れている。ぼくのせいだと思っていた、手汗による湿り気。でもきっと、その半分は、彼女のものでもあるんだ。震えているのは、ぼくだけじゃない。

 世界中を敵に回しても、この手を離さないと決めたのは、ぼくだから。

 逃げる代わりに、ぼくらの体温が溶け合う濡れた手を、強く握り返した。


「ん。行くぞー、オタク」


 レナさんは、迷わずぼくの席へ直行する。

 クラス中の思考が停止した気配の最中。

 ぼくが自分の席に着くと、レナさんは手を離すどころか、当然のようにぼくの机の端に、ちょこんと腰掛けた。


「あのさー、オタク」


 甘ったるい声。

 教室中の視線が集まる中で、彼女は上目遣いにぼくを見下ろす。

 スカートから伸びる、白く引き締まった美しい太腿を、ぼくの二の腕に、むにゅりと押し付けた。


「教科書、見せて♡ アタシ、忘れちゃった」


 屈みこんで、とろけるような笑顔。

 距離が、近い。近すぎる。

 周囲の空気すら桃色に染めるような香り。

 教室という場所だからこそ、背徳感が強烈に立ち昇る。

 教科書なんて――そもそも彼女は特進クラスで、教科書の種類だって違うはずなのに。


「……れ、れ、れ、レナさん? ……それは、やりすぎ……」


 レナさんの、その笑顔は甘いのに、視線だけは冷たいままだ。

 ぼくじゃなく、ちらと周囲に向ける視線。外野を黙らせる目。まるで、この席はもう、アタシのものとでも宣言するみたいに。


「んー? わかんない。レイナ聞こえなーい。てか、呼び捨てにしろっ♡」


 彼女は、ぼくの二の腕に押し当てた太腿に、さらに体重をかけてくる。

 柔らかさと弾力。その熱が、服越しに伝わってきて、ぼくの脳を揺らす。


「いつもみたいに、レイナって呼べ♡」


 そんな呼び方、したことない。

 でも、教室の空気の変貌で、狙いがわかった。

 彼女は、あたかも二人きりの時はいつもそう呼んでいるという、嘘の既成事実を、クラス全員の前で作り上げたのだ。


「ほらオタクー、早くぅ♡」


 全て吹っ切れた、無敵のレナさん。

 誰もが理解できていない。

 人を寄せ付けない氷の女王が、クラスカースト最底辺たるぼくに、猫なで声で甘えている、この状況を。

 耳元への息の吹きかけ方が絶妙で、ゾクッとする角度を知っている。

 太腿を擦り寄せるリズムが、ぼくの反応を見ながらコントロールされている。

 ぼくが謹慎を告げられてから、今日までの32日間。

 同期間、自主休校していたレナさんの変貌。

 これは、女王の帰還ではない。

 最強の嫁による、強烈なマーキング。


 教室が、痛いほどシン……と静まり返った後。


「……あ、あ……あ……?」


 教室の後方から、壊れたラジオのような、うめき声が聞こえた。


「待てよ。待て、待てって。……オレじゃなくて、あいつ……?」


 白目を剥きかけの表情で、自分の頭を抱え、現実を拒絶するように震えている。


「バグだろ……こんなの、ありえねぇ……。クソかよ、ふざけんなよ……」


 ――直哉が、猛毒を浴びたかのように、苦悶の表情を浮かべて、ぼくらを睨む。


「おい待てよ、レナァッ!!!」


 金切り声と共に、彼は机を蹴り飛ばした。

 ガシャン、と派手な音が鳴るが、足がもつれたのか、直哉自身も無様にたたらを踏む。


「ぐっ、……おかっ、お、おかしいだろぉっ……!! 間違いだろ? ドッキリなんだろ、これ!?」


 涎を垂らさんばかりの形相で、わめき散らす。


「オレだろ!? 選ばれるならオレだろっ!? 末永がなんかやったんだろ!! 脅したのか!? 弱み握ったのか!? 金か!? 親か!! なんでそんな、陰気なゴミと……っ!!」


 その姿には、かつてのスクールカースト上位者の威厳など欠片もなく、ただの駄々をこねる子供のようだった。


「なんで……なんで末永なんだよォ!!!!」


 空気を読めない――いや、現実を受け入れたくない男の、咆哮。


「はぁ……」


 対照的に。

 レナさんは、底冷えするような、深いため息を一つ、吐いた。


「……うるさいなぁ。静かにしてくれない?」


 まるで、耳元で羽虫が飛んでいるかのように、鬱陶しそうに眉をひそめる。


「噂とか、順位とか。そういうので人を見てる時点で、滑稽」


 彼女はもはや、直哉を一瞥もせず。

 ぼくの頭の上に、コテンと頬を乗せて、冷たく言い放った。


「今日は、夫の隣に座る日なの」

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