謹慎中 ポテチ餌付け1


 ページをめくる音が、二つ重なる。

 ベッドの上にはラノベの山。ぼくは枕を背もたれにして、開いたままの文庫を両手で支えている。

 隣ではレナさんが、同じシリーズの初巻を片手でめくりながら、もう片手でポテチの袋を抱えていた。

 表情は、学校で見せるそれと同じ、無表情。

 けれど姿はまるで違う。校則違反スレスレの腰まで流れる黒髪は、今はシュシュで無造作にひとまとめにされ、ほつれた後れ毛が首筋にかかっている。


「……ん、おいし……」


 独り言とも、吐息ともつかない、気の抜けた甘い声。

 横目で盗み見ると、レナさんがリスみたいに小さく頬を膨らませて、小刻みに咀嚼している。

 パリ、パリ、パリ。……サクサクサク。

 仕草ひとつひとつが、胸が締め付けられるように可愛くて。

 学校では「触るな」と氷の視線を向ける女王様が、ぼくの部屋ではこんなにも無防備に、部屋着でポテチを食べている。


「オタクぅー」


 甘えたように語尾を引く、蕩けた声。

 部屋の空気に溶け込むようなその響きだけで、ぼくの心臓は簡単に跳ね上がる。


「……はい、レナさん」

「これさー。主人公のセリフ、寒くない?」

「あー……まあ、初期の巻だからキャラが定まっていないんですよ」

「ふーん。まあ、ヒロインが可愛いから許すけど」


 本当に嬉しい。

 レナさんに、この作品の魅力をわかってもらえている。

 素晴らしいキャラクターたちや物語。

 ページをめくる快感。

 ぼそぼそと、最小限の声量で交わす会話。外では話しにくい趣味の共有。

 隣に彼女がいて、付き合ってくれるという高揚感が、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合う。


 学校の女王様と、カースト最下位のぼくが、肩が触れ合う距離で、同じ物語を読んでいる。


「……ん」


 カサリ、と袋の音がした。

 レナさんの華奢な肩が動く。視界の端で、彼女の白い手が伸びてくるのが見えた。


「ほら、あーん」


 まるで、手のかかる子供をあやすような、ツンとしつつも優しい響き。

 レナさんの視線は、開いたラノベの活字に落としたまま。

 ポテチを摘んだ指先を、ぼくの口元へ無造作に突き出してきた。


「……え?」

「手、塞がってんじゃん」


 彼女はやっぱり、こっちを見ない。

 長い睫毛を伏せて、文字を目で追いながら、指先だけで急かしてくる。

 芸術品みたいに細くて、艶やかに白い。

 爪には、薄い桜色。学校用の派手なやつじゃない。清楚で可愛い、レナさんの素の色だ。

 コンソメの濃い匂いが、彼女の甘い匂いに混ざって、鼻をくすぐった。


「早く食べろー」


 心臓が跳ねる音を聞きながら、恐る恐る口を開けた。

 パリッ、と。

 塩気と、コンソメの甘みが口いっぱいに広がる。


「……ん。食べた?」

「はい、お、おいしいです」

「この挿絵の娘、いいよね。衣装かわいい」

「あ、わかります。そのフリルが――」


 会話が途切れることなく、また白い手が伸びてくる。「ほら」と短く促され、そのたびに口を開く。ページをめくる、食べる、感想を言う。繰り返しのリズムが、たまらなく心地いい。

 まるで長年連れ添った夫婦みたいに、呼吸が合っていく。視線すら合わせず、当然のように次の欠片を運んでくる。


「……オタク、次」

「あ、はい」


 三度目か、四度目か。完全に油断していた。

 ぼくも、きっとレナさんも。

 あまりにも自然な流れで、指先が近づいてきて。


 ふにゅ、と、彼女の指の腹が、ぼくの下唇に触れた。


「――っ」


 死んだ。

 いや、生きた。

 電気が走ったみたいに、背筋が震えた。ひんやりとした指先なのに、触れた場所から熱が伝播してくる。

 ポテチの乾燥した感触とは違う。しっとりと湿り気を帯びた、レナさんの指の肌。

 ほんの一瞬の接触なのに。焼き印を押されたみたいに、唇が熱い。


「オタクさぁー」


 レナさんが、ページをめくりながら、気だるげに呟く。


「食べるの、遅」

「ふぁ」


 慌てて噛み砕いて、飲み込む。


「次。口開けろー」

「え、……また?」

「アタシ一人で食べたら太るし。連帯責任」


 理不尽な理由をつけて、指が伸びてくる。今度は、さっきよりも深く。

 口を大きく開けて、用心深くポテチを咥えようとすると。

 彼女の指先が、舌に触れてしまった。


(あ……!)


 しまった、と思った時には、もう遅い。

 レナさんの指が、びくりと震えて、引っ込んだ。


「ふぉ、……んぐ、ごめん、レナさん……っ!」


 何てことを。身体が強張った。

 けれど。


 代わりに聞こえたのは、ちゅっ、という、小さな水音。


「――え?」


 そして、「……ぷは」という、艶めかしい吐息。

 驚いて隣を見ると。

 レナさんは、ラノベを読み耽るような眼差しのまま、もう一度――。

 ぼくの目の前で。

 粉と唾液がついた指先を、自分の唇に沈めて、ぺろりと舐め取った。


「……!」


 脳が、いっぺんに白くなる。

 今の、何。

 見間違いじゃない。

 口から離されたレナさんの人差し指は、さっきよりも深く濡れて、艶かしく光っている。


「……」


 レナさんは、ページをめくろうとして、動きが止まる。

 指が濡れていることに気づいたらしい。

 無防備な無表情のまま、自分の指先を見つめて。それから、ゆっくりと、ぼくの方を見た。


 目が合う。

 一秒、二秒。

 静寂が、痛い。


「……こほん」


 ぽつりと、小さな咳払い。


「……見た?」

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