10日目-7 現実色の0センチメートル-3

「早く、しろー?」


 わざと不機嫌そうに言いながら。

 薄暗いタコの足の影に縁取られて、逃げ場のない壁際で、両腕を広げて待っている彼女は。

 世界で一番可愛くて、世界で一番抱き締めてしまいたい、女王様だ。


「……今行くね。レナさん」


 そっと、一歩。

 また一歩、距離を詰める。

 吸い寄せられるように、じゃない。ぼくの意思で選んだ一歩だ。

 近寄るたびに、甘くほろ苦いビターチョコレートが強くなる。

 両腕を伸ばした。

 レナさんの肩が、びくっと跳ねる。

 震える指先が、彼女のパーカーの布に触れた。


 ほんの少し、ためらってから。

 彼女の体重ごと引き受けるように、胸の前で、抱き締めた。


 パーカーのファスナーが、ぼくの顔と押し合って、抵抗した。でもそれは僅か一秒のこと。ぼくが力を込めると、あっけなく陥没した。彼女の胸の間にあった空気が、完全に押し出される。

 高い体温が、真正面からぶつかってくる。

 布越しに伝わる、柔らかいものと確かな重み。顔と、耳と、首筋にまで、とろとろ隙間なく押し寄せる。

 ビターチョコレートの香りはここからするんだ。彼女の鎖骨だ。そこに今日も、ほんのり汗の匂いが混ざっている。

 在処がわかったのに、背伸びをしているのに、レナさんの顔にすら、全然届かない。


「――っ……」


 頭上から、息が漏れたのを感じた。

 やっとできた裂け目から、押し殺していた何かが溢れたみたいな、小さな息。

 一拍おいて、レナさんも、ふっと前に体重を預けてきた。

 ぼくのつま先を、自分のスニーカーで挟み込んだような感触。そのまま長い脚が、ぼくの足の間に割り込んで、太ももに挟み込むように絡められた。

 おへそから股間まで、一番柔らかい場所を、逃げ道を塞ぐみたいに密着させて、ホールド。

 くたっと力が抜けた上半身とは裏腹に、脚だけは、二度と離さないとでも言うように。強く、強く、しがみついてくる。


「……タカキぃ……っ」


 耳の上から落ちてきた声は、名前というより、崩れた祈りみたいだった。


「……また、危険な目に遭わせて、ごめんね……っ」


 外界の音が、ふつり、と消えた。

 聞こえてくるのは、まるで温かい水袋に耳を押し当てたみたいな。

 柔らかい何かが形を変えるたび、こぽ、こぽ、と零れる小さな水音。


「どうして、ですか?」


 何も、悪いことしてないよ。レナさんは。


「……学校行かせて、ごめん。走ったけど、先回りできてなくて。間に合わなくて、ごめん。謹慎に巻き込んで、ごめん……っ。アタシ、タカキを、不幸にしてる。アタシもう、わけわかんない……っ!」


 謝らないでくれ。

 ぼくが不幸だなんて、誰が決めたんだ。

 自分のことを欠陥品だなんて言っていた、あの日の寂しい横顔が、脳裏をよぎる。


「……でも……っ」


 震えた声が、ぼくの耳元で、細く踏みとどまる。


「……でも、もう、待てない……っ!!」


 すぐそばから聞こえてくるのに、どこか遠い声と、とくん、とくんと鳴る鼓動を、柔らかいものに包まれながら聞く。

 締め付ける力は、いつの間にか、最大限に強くなっていた。

 ああ、そうか。

 三日なんて、カレンダーの上じゃ、一瞬のはずなのに。

 会いたい。でもダメ。でも会いたい。それが72時間、ひたすらループしている状態だったから。

 レナさんと会えない三日は、ぼくにとって、普通の三十日よりずっと長くて、辛かった。

 それが、ひょっとしたら、レナさんも。


 くぐもった自分の息づかいが、水の底みたいにぼやけて耳に届く。小さいころ、誰かのお腹に耳を押し当てて聞いた、あのこもった音に似ている。

 パーカーのファスナーの隙間から、制服の白い襟が、ちらっと覗いた。

 ぼくがレナさんを包みたいのに。

 温かくて、本当に大きくて、包まれる。

 溺れるなんて生易しいもんじゃない。

 視界の半分を占拠する、巨大な肉の断崖絶壁。ファスナーの部分だけがひんやり冷たくて。

 そこから見上げると、至近距離にある、濡れた桃色の唇が、切なそうにきゅっと噛み締められていた。


「れ、な、さん」


 ぼくの額に、ぽたり、と零れたのは、熱くて冷たいもの。


「な、か、ない、で」


 これまで飲み込んできた寂しさの逆流に、今、必死に堪えているみたいなレナさんに、伝えた。

 だって。そんな顔、しなくていい。


「……」


 レナさんも、何か言った。

 それはもう聞こえなかった。聞こえなくても、わかった。

 だから。

 ぼくらの三日分の会いたいを、全部乗っけて、ぎゅううっとありったけ抱き締めた。






 どのくらい、こうして抱き締め合っていたのだろう。

 壊れ物を扱うみたいな、迷いだらけの、ぼくらの抱擁。

 カラオケでしたハグとは全く違う。

 うるさい噂も、暴力の記憶も、今だけは全部、遠くの世界のことみたいで。

 気づけば、オレンジ色だった空は、すっかり色を失っていた。公園のライトがじわじわと白さを増す。


「よそ見、すんなー」


 耳元で、掠れた声が聞こえた。

 彼女の腕がもっと強く、ぼくの背中を抱え込む。


「もっと、……しろ」


 パーカーの皺が一気に寄る。

 耳のすぐ横まで押し寄せていた柔らかさが、抱き寄せられた拍子に、首の裏まで、もう一段階深く沈み込んでくる。まるで逃がさない、とでも言うように。


「もっと、ぎゅうぎゅう……っ」


 ぼくの輪郭に合わせて形を変えながら、逃げ道をぜんぶ塞いでくる。

 顔を埋めているのは、ぼくのほうなのに。

 見上げると、やっぱり、今にも泣き出しそうに震えているのは、彼女のほうだ。


「オタク、さぁー」


 震える声が、ぼくの額にかかった。


「何なの。バカでしょ。このバカ。ばかオタク」

「……ごめんなさい、レナさん。怒らないで」

「殴られてまで、会いに来るバカ、どこにいんの」

「会いたかった、から」


 自分でも驚くくらい素直に、言葉が出た。


「レナさんに、会えないまま一日が終わるの、もう……嫌だ」


 トイレ。廊下のざわめき。クソオタク。

 もしレナさんに会えないなんて、そんな日があったら。

 ぼくはもう、たった一日でも耐えられそうにない。


「……親友が」


 胸の奥に溜め込んでいたものが、するするとこぼれていく。


「親友が『行け』って背中押してくれたから、ここまで、来れました。だから……」


 彼女の背中へ回した腕に、さらに力を込める。


「レナさん。これから毎日、会いたい、です」


 パーカー越しに伝わる鼓動が、ものすごく強く、跳ねた気がした。


「平日も、土日祝も。ぼくら、謹慎中でも。朝からずっと、二人きりで」


 言った。言ってしまった。ぼくの、本音。


「レナさんとたくさん、笑い合っていたいです」

「……タカキ」


 向こうの震えが、どんどん大きくなる。


「だめ。それ。それ以上は」

「もう、ぼくの前から、いなくならないでください」

「だめ。だめ。だめ。くる。何か。きちゃう」

「レナさん。ぼくは――」




「――あ」


 耳のすぐそばで、ごく短い、空気の抜けるような音が漏れた。

 同時に、彼女の全身が、びくり、と、まるで感電したみたいに跳ねた。

 抱き締めていた豊満な体が、パーカー越しに、ぐにゃりと溶けて、どさっと雪崩れかかってきた。


「……あ、つ、い……っ」


 夢見心地みたいな、レナさんの呟き。


「何、これ……っ」


 膝の力が抜けた彼女を、必死で受け止めて支える。言う通り、本当に熱い。さっきよりも体温が急上昇している。呼吸が荒く、浅くなっていくのが伝わってきた。心臓の鼓動まで、じかに打ち込まれる。

 ハグって、こんなふうに、人をめちゃくちゃにする。ぼくも、レナさんも。


 そのまま彼女はしばらく動かなかった。

 ぼくの肩口に顔を埋めたまま、荒い息を繰り返している。

「ふぅ、ふぅ……っ」と、酸素を求める、甘ったるい呼気。吐き出すたびに、ぼくの首筋が湿って、いけない気持ちよさに総毛立つ。

 彼女の体はまだ小刻みに震えていて、その振動が、密着した太ももや、顔を埋め尽くす胸の柔らかさを通じて、ぼくの芯まで伝染してくる。

 これ以上ないほど、無防備に、ぼくに全てを委ねる、レナさん。

 ようやく、呼吸が落ち着き始めた頃。

 まだ熱の冷めやらない、うるんだ瞳で、ぼくを睨んだ。


「……アタシがいるときに、さぁ。他のヤツの話、……すんなー」


 乱れた呼吸を引きずったまま。

 耳元で囁かれる、嫉妬深くて、とろけるように愛しい、震える声。


「会ってほしいならさぁー……」


 さっきまでとは違う、とろっとした拗ね方で。


「アタシといるときは、アタシだけ、見ろ」


 その言葉が、喉元に巻きつく鎖みたいに重くて。

 なのに少しも苦しくない。

 言葉の端っこに混ざった独占欲。丸呑みにされる感覚が、怖いくらい気持ちいい。


「返事は」


 そんなふうに縛ってくるの。

 ぼくは。


「はい。レナさん」


 その言葉ごと抱き締めてしまいたいくらい、幸せだ。


「何それ。即答? ……ほんっと、オタクは、さあっ……」


 耳元で、大きく息が抜ける音がした。

 張り詰めていた何かが、やっとほどけたみたいに。


「来るの、遅すぎな……っ」


 それから、何かを振り払うみたいに、顔を振って。少しだけ間を置いて、ぼくの背中に爪を立ててきた。


「アタシを待たせるとか……いい度胸、してんじゃん」


 ――半分、夢みたいに想像していた台詞が、本当に。

 あの屋上の夢が、今、正真正銘の正夢になった。

 でも、これは夢じゃない。夢なんかより、ずっと熱くて、痛くて、重くて、砂糖漬けのチョコレートのように甘い。息をするたびに、抱き締めた体温と質量に溺れて、視界が真っ白になるほどの幸福が押し寄せてくる。

 ああ、そうか。

 現実って。

 空想より、いい匂いがして、温かくて、とろける。


 レナさんの手が、ぐしゃっとぼくの後頭部を掴んだ。

 ぼくも、レナさんの頭を撫でたい。

 でも、届かない。ぷくく、と頭上で笑う気配。


「今日は……だめ」


 その言葉が、鼓動と一緒に、胸の真ん中に刻み込まれる。


「受け入れろー、オタク♡」


 ――公園の暗がりの最中、泣き腫らしたレナさんの、世界で最も美しい、最高の、笑顔。

 

 ぼくみたいな、どうしようもないオタクにしか、受け入れられない重さがあるのだとしたら。

 ぼくの腕は、そのためにあるのだとしたら。


「……わかりました」


 甘く、豊満な胸に顔を埋めたまま、はっきりと答えた。


「ぼく、オタクなんで」


 情けないくらい震える声で。


「レナさんのこと、一生推します」


 口にした瞬間、逃げ道になりそうな冗談も、誤魔化す余地も、まとめて自分で燃やした気がした。

 でも、ぼくが灰になっても、残ったのが、レナさんなら。

 燃え残った灰の真ん中に、レナさんだけが座っている光景が、やけにはっきり浮かぶ。

 それでいいと、心のどこかが、静かに頷いていた。


 頭上で、レナさんの笑い声が、ほんの少しだけ、涙の音を混ぜて転がった。





(あとがき)


彼女が堕ちるまで、あと90日。



👉 面白かったらブクマ。

👉 灰になるまでレナさんを推せるなら★/ハート。

👉 夜が明けてからは、謹慎中という体のプレ新婚生活が始まります。お楽しみに。

👉 一言感想「今のレナさんに言いたいことは?」どうぞ。

(例「独占欲強めの女王様」「自分に嫉妬すなw」)


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