10日目-7 現実色の0センチメートル-1

「おっすー、オタク」


 たったそれだけの挨拶が、壊れかけていた心を、もう一度鼓動させる合図みたいに聞こえた。


「……れ、な、さん……?」


 喉がひゅっと鳴った。砂漠みたいに、カラカラに乾いている。

 名前を呼ぶだけで、肺の空気を全部使い切ってしまいそうだ。

 滑り台のてっぺんで、彼女は手すりに片手をかけて、見下ろすように笑う。


「そんな固まんなって、オタクさー」


 言葉の軽さと裏腹に、その声の端っこは、かすかに震えていた。

 きっと、ほとんどの人は気づかないくらいの揺れを、ぼくの耳だけが拾う。


「……何で」


 やっと、それだけ絞り出す。


「何で、レナさんが、ここに。REIは……?」


 口にした瞬間、自分で言っていることの意味がわからなくなる。

 スマホの画面のREIと、目の前の彼女が、頭の中でぐらりと重なって、すぐに離れる。


「オタク、鈍っ」


 レナさんは、ふうっと小さく息を吐いた。

 それから。


「よっ」


 軽く膝を曲げて、滑り台の斜面に足をかける。白いスニーカーの裏が、金属の板を滑り、キイ、と短く悲鳴を上げた。

 夕焼け色の斜面を、するる、と。

 子供みたいなスピードで、でも妙に優雅に、彼女が滑り降りる。

 制服じゃない。ブレザーでも、チェックのスカートでもない。

 オーバーサイズの黒いパーカーに、淡い色のデニム。フードの中からこぼれるフィッシュボーンと、長い後れ毛。


 トン、と砂を踏んだ音と同時に。

 夕陽を背負った世界の中心が、ぼくの目の前に降りてきた。


「――と。逃げんなー?」


 ほんの一歩。

 ほんの一歩、距離を詰められただけで、視界が彼女で埋め尽くされる。


 高い。底の平らなスニーカーなのに、それでも彼女の視線は、ぼくより高い位置にある。

 見上げなければ顔が見えない。

 まっすぐ前を向くと、どうしても暴力的な胸元に、視線が引っかかってしまう。


 本来なら、華奢な体のラインなんて全部隠してくれるはずの、袖も裾もだぼついたパーカーなのに。

 胸元だけ、ファスナーが悲鳴を上げるみたいに限界まで張り詰めて。顔より大きな輪郭が、布越しに、あり得ないほど露わになる。

 ふくよかすぎる丸みが、とろりとろりと揺れ続けていた。


「……ぷくく。まじ、オスな」


 レナさんの口元が、意地悪そうに吊り上がった。

 でもその瞳は、どこかホッとしたみたいに、にんまりと甘く緩む。


「今日もおっぱい見すぎー。隠れてんのに、そんなに見んの何?」

「そ、それはっ」


 隠れてないよ、レナさんっ。


「こーゆー布越しの方が、想像かき立てられて興奮するわけ?」


 普段は、絶対に、そうだけど。

 今はそうしたくない。

 今だけは、目の前のレナさんを見つめたいんだ。

 だって。

 天井の高いスタジオが似合う、長身のモデルみたいな人が、公園の真ん中で、ぼく一人のために立っている。


「……どした、オタク」


 ぼくが何も言い返さずに見つめ返すと、レナさんが不思議そうに身を乗り出した。

 覗き込まれた瞬間、ほろ苦くも甘い香りが漂った。

 今日は、ビターチョコレートだ。

 ちゃんとここで生きているレナさんの匂いだ。

 たったそれだけのことが、今日一日の全部よりも、ずっと大事に思えた。


「レナさん、……ぼくは」


 この匂いを、もう二度と失いたくない。

 これを嗅ぐためなら、ぼくは、どんな犠牲を払ってでも。


「ん」


 胸元の張ったパーカーの前裾を、ちょこんと片手でつまみながら、レナさんは首を傾げた。


「最後まで、言え」


 さらりと揺れる黒髪と、フィッシュボーン。

 夕陽で少し赤くなった頬。

 まつ毛の影。長身ゆえに、自然と見上げる形になる、その高さ。

 ――可愛すぎて。

 ずっと言いたかった言葉が、出てこなくなる。

 その一方で、無表情に見える、彼女の口元。

 ほんの少しだけ、不安そうに揺れている気配を感じ取った。


「そんな顔、すんなー」


 今にも泣き出しそうな人を、冗談で誤魔化そうとしているみたいな声だった。

 そのセリフ、そっちに返したい。

 だってレナさんのほうが先に壊れそうな顔をしている。

 瞳が潤んで見えるのは、きっと夕陽のせいだけじゃない。


「そんな目で見上げんなって。こっちまで、泣きそうなんだけど」


 ぽつりとこぼしたその一言が、胸の奥で、じんわりほどけて、広がる。

 冗談みたいな口調なのに、ちゃんとぼくの顔を見て、心配してくれているんだって分かってしまうから。

 レナさんを励ましたい。

 そう思うけれど、砂漠みたいに乾いた喉は、すぐに言葉を生み出せない。


「……だって、レナさん」


 言葉が、喉でつかえる。


「ここ……REIと、待ち合わせた場所で」


 気持ちとは裏腹に、つい、疑問を口走ってしまった。

 こんなこと言ってどうする。目の前の人は、REIなんてハンドルネーム、知っているはずがないのに。


「んー」


 レナさんが、一瞬だけ、視線をパーカーのポケットに向ける。

 その後、わざとらしく、空を見上げた。


「誰それ」


 長い睫毛が、すっと、何かを隠すように伏せられる。


「あ。そ、それは」

「オタクさぁー。アタシより優先することなんて、あんの?」


 ねめつけるような視線。でもそれは、どう見ても拗ねている女の子の目だ。


「何。別の女? 謹慎中に別のヤツと会おうなんて、いい度胸してんじゃーん」

「違っ」


 レナさんの、パーカーのポケットから、布越しに浮かぶ指先の形が、落ち着かない。ポケットの中でスマホの角をいじっているみたいに、きゅっと握っては離す。

 そんなふうに、拗ねないでくれ。誤解だなんて言葉じゃ足りない。


「違うっ。ぼくは、レナさん一筋で!!」


 勢いで叫んでから。

 自分で言った言葉の重さに、顔から火が出そうになる。

 当の、レナさんは。

 ぱちくりと目を丸くしていて。数秒後、その頬が、林檎みたいにぼっと赤く染まって。

 口元が、隠しきれないほど、にんまぁり、とだらしなく緩んだ。


「……ふーーーーん♡」

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