ラブ・アルゴリズム ―バグだらけの恋愛開発プロジェクト―
八つ足ケンタウロス
第1話「エラーとバグの出会い」
深夜2時。インディーゲーム会社「スタジオ・ピクセル」のオフィスに、乾いた打鍵音だけが響いていた。
穂積柑奈(25歳)は、モニターに映し出された数千行のコードを、血走った目で見つめていた。5時間前から追い続けている致命的なバグ。再現性は低いが、確実にユーザーの進行を妨げる不具合。ゲームの発売日まであと一週間。このバグを潰せなければ、延期は確実だ。
デスクに散乱した缶コーヒーとエナジードリンクの空き缶が、彼女の執念を物語っていた。茶色のポニーテールはいつの間にか崩れ、前髪が顔にかかっている。黒縁眼鏡の奥の瞳は、疲労よりも集中力で満たされていた。
「……いた」
唇から、歓喜とも疲労ともつかない声が漏れた。指先が、確信を持ってキーを叩く。特定の条件下で、キャラクターの装備が消失する致命的な不具合。その原因となっていた、たった一行の記述ミス。変数の初期化を忘れていた、初歩的でありながら発見困難なエラー。
「やっと見つけた……このクソバグ」
エンターキーを叩き、修正パッチをコンパイルする。進行バーが伸び、緑色のチェックマークが表示される。エラーログが消え、プログラムが完璧な静寂を取り戻した瞬間、柑奈の全身を、じわりとした達成感が満たした。
検証モードで再度プレイする。キャラクターの装備は正常に維持され、進行を妨げるエラーは一切発生しない。完璧だ。
(――完璧なプログラムほど美しいものはない。1と0が織りなす、絶対的な論理の世界。そこに、曖昧な感情や非合理的な気まぐれが入り込む余地はない)
柑奈は椅子の背もたれに身を預け、天井を仰いだ。蛍光灯の白い光が、網膜に焼き付く。
「感情は、バグだ」
過去の記憶が、一瞬、脳裏をよぎる。大学時代、初めて付き合った恋人からの告白。「好きです」と言われた時、彼女は答えた。「その好意には、論理的根拠が不足しています。私たちの共通点は統計的に見て平均以下です。感情の持続可能性について、データが不十分です」
相手は呆然とし、そして去っていった。「お前、人間じゃないみたいだな」という最後の言葉だけを残して。
あれは正しかった、と柑奈は今でも思う。感情など、人間という不完全なプログラムが生み出すバグに過ぎない。修正すべき、排除すべき、システムエラーだ。
父親もそう言っていた。「お前はバグだらけだ」と。高所から落ちて骨折した時も、テストで満点を取れなかった時も、友達と喧嘩した時も。「お前は欠陥品だ。修正しろ」
だから柑奈は、バグを憎んだ。自分の中のバグも、他人の中のバグも、プログラムの中のバグも。全てを見つけ出し、全てを潰す。それが、彼女の存在意義だった。
一方、その背中合わせのデスクでは、ゲームプランナーの九条巧(27歳)が、分厚い仕様書を前に、満足げに頷いていた。
彼のデスクは、柑奈とは対照的に、完璧に整理されていた。ペンは高さ順に並び、付箋は色ごとに分類され、書類は日付順にファイリングされている。マウスパッドの位置も、キーボードとの距離も、すべて最適化されていた。
「選択肢A『君を守りたい』→ヒロイン好感度+10、フラグ『守護者』成立。選択肢B『大丈夫か?』→好感度-5、フラグ消失……完璧だ」
彼が今作成しているのは、恋愛ゲームのフローチャート。プレイヤーの選択によって分岐する、複雑な恋愛シナリオの設計図だ。全ての選択肢には、明確な結果が紐づけられている。フラグの立て方、好感度の上げ方、トゥルーエンドへの最適ルート。全てが、彼の計算通りに進むように設計されていた。
彼は画面に表示された複雑な分岐図を見つめながら、思考する。この選択肢を選べば、このイベントが発生し、この会話が始まる。感情値がこの数値を超えれば、告白イベントがトリガーされる。全てが、予測可能だ。全てが、制御可能だ。
(――人生は、攻略可能なゲームだ。正しい手順を踏めば、必ず望んだ結末に辿り着ける)
両親は共に大学教授。幼い頃から「計画的に生きること」を叩き込まれた。朝6時起床、7時朝食、8時から12時まで勉強、昼食後は読書、夕方は習い事。予定表通りに勉強し、予定通りに進学し、予定通りに就職した。
人生には、正解がある。間違った選択肢を選ばなければ、必ず幸せになれる。両親はそう教えた。
しかし、たった一度だけ、アドリブで行動したことがある。大学時代、気になっていた女性に、計画なしで告白した。デートプランも、会話の選択肢も、何も用意していなかった。
結果は、散々だった。言葉が出てこず、フリーズし、相手を困惑させただけだった。「九条くん、ちょっと怖い」という言葉と共に、拒絶された。
それ以来、九条はすべてをシナリオ化することを誓った。人生から、偶然を排除する。想定外を排除する。そうすれば、二度と失敗しない。
二人は互いを認識しているが、会話は業務連絡以外、ほとんどない。
柑奈は九条を、内心「融通の利かない仕様書男」と呼んでいる。彼の作るシナリオは、いつも完璧だが、遊びがない。予定調和で、驚きがない。人間味がない。まるで機械が書いたような、温度のない物語。
九条は柑奈を、内心「予測不能なバグ女」と呼んでいる。彼女の行動は、いつも論理的だが、情緒がない。効率優先で、配慮がない。冷たい機械のようだ。まるで感情を持たない、AIのような存在。
二人がすれ違う時、互いの内面には、相手の「欠陥」が浮かび上がる。
柑奈の思考:(――あの男、またマニュアル通りの動きをしている。柔軟性ゼロ。要最適化。こんな硬直した思考では、ユーザーの予測不能な行動に対応できない)
九条の思考:(――彼女はまた、人の話を聞かずにショートカットを選んでいる。協調性エラー。要修正。こんな独断専行では、チームワークが崩壊する)
しかし、奇妙なことに、二人の仕事の成果は常に高品質だった。九条のシナリオにバグが少ないのは、柑奈が事前にすべての想定外パターンを洗い出しているからだ。柑奈のデバッグが効率的なのは、九条が完璧な仕様書を作成しているからだ。
互いに認めたくないが、二人は最高のパートナーだった。
翌朝10時。出社した二人は、社長の氷室遊に呼び出された。
社長室に入ると、氷室は巨大なゲーミングチェアに座り、回転しながら二人を迎えた。
「やあやあ、二人とも。徹夜かい? いいねえ、その目に宿る狂気、クリエイターって感じだ!」
35歳にして、この小さなスタジオを業界の注目株に押し上げた天才は、子供のような笑顔で言った。黒縁眼鏡の奥の目が、好奇心に輝いている。長めの黒髪を無造作に束ね、Tシャツにジーンズという格好は、とても経営者には見えない。
しかし、この男が生み出したゲームは、数々の賞を受賞し、業界に衝撃を与えてきた。天才であることに、疑いの余地はない。
「さて、本題だ。君たちに、社運を賭けた新規プロジェクトを任せる!」
氷室がリモコンを操作すると、背後のモニターに、巨大な企画書が映し出された。
そのタイトルを見て、二人は同時に、顔を歪めた。
【プロジェクト『ラブ・アルゴリズム』】
――究極の恋愛シミュレーションゲームを、創造せよ。
氷室が、キラキラした目で二人を見る。
「どうだい? ワクワクするだろう? 恋愛って、最も複雑で、最も予測不能で、最も魅力的なゲームじゃないか! プレイヤーが心から恋に落ちる、そんなゲームを作るんだ!」
柑奈の顔が、明らかに引きつった。
「恋愛……ですか」
九条は、冷静を装いながらも、額に冷や汗が浮かんでいる。
「恋愛、シミュレーション……」
氷室は二人の反応を楽しそうに眺めながら、続けた。
「予算は限られてる。ぶっちゃけ、ギリギリ。納期は3ヶ月。この業界じゃデスマーチ確定の条件だ。でもね、君たちならできる。いや、君たちだからこそできる!」
「それは……どういう意味でしょうか」
九条が、不安を隠しきれない声で問う。
氷室は、ニヤリと笑った。
「天才デバッガーと、天才プランナーの組み合わせだからさ。君たち、普段は喧嘩ばっかりだけど、技術は認め合ってるんだろう?」
二人は、無言で視線を逸らした。認めたくないが、事実だ。
「だから、最高の恋愛ゲームを作れるはずなんだ。プレイヤーの心を完璧に読み、完璧にトキめかせ、完璧に泣かせる。そんなゲームをね」
柑奈が、意を決して口を開いた。
「社長。申し訳ありませんが、私は恋愛というテーマが理解できません」
「ほう?」
「感情という非合理的なパラメータを、どうプログラムに実装するのか、論理的な解が見つかりません。恋愛には明確な条件分岐がなく、再現性のあるアルゴリズムを構築できません」
氷室は、楽しそうに頷いた。
「なるほどね。九条くんは?」
「僕もです」九条が続ける。「恋愛は、あまりにも変数が多すぎます。プレイヤーの選択に対する結果が予測不能で、論理的なシナリオ設計が困難です。第一、僕たちには恋愛経験が……」
「ゼロでしょ?」
氷室が、あっさりと言い当てた。
二人の顔が、同時に赤くなった。図星だった。
氷室は、予想していたという顔で笑った。
「だからこそだよ。君たちに、リアルな恋愛を学んでもらう必要がある」
嫌な予感がした。柑奈と九条は、同時に身構えた。
しかし、氷室の次の言葉は、その予感をいったん脇に置かせるものだった。
「……その前に、一つだけ、君たちに伝えておくことがある」
氷室の表情が、一瞬だけ真剣になった。笑顔が消え、ビジネスマンの顔になる。
「実は、うちの会社……次のヒット作が出なければ、あと半年の命なんだ」
空気が凍りついた。
「え……」
「嘘……でしょ……」
氷室は、書類の束をデスクから取り出した。決算書、収支報告書、銀行からの督促状。
「ここ数年、ヒット作に恵まれなくてね。資金繰りがかなり厳しい。最後に出したRPGも、予想を下回る売上だった。投資家からの出資も打ち切られた。このままじゃ、給料の支払いも難しくなる」
柑奈と九条は、言葉を失った。
「冗談……ですよね?」
柑奈が、震える声で聞いた。
「冗談だったらどんなに良かったか」
氷室は、苦笑した。
「このプロジェクトが失敗したら、スタジオ・ピクセルは、終わりだ。みんなの仕事も、君たちの仕事も、全部なくなる」
重い沈黙が、部屋を支配した。
柑奈は、オフィスにいる仲間たちの顔を思い浮かべた。デザイナーの美波。サウンドクリエイターの田中。プログラマーの佐藤。みんな、この会社を愛していた。みんな、ゲームを作ることに情熱を燃やしていた。
それが、全部なくなる?
「だから、君たちには、最高のゲームを作ってもらいたい。会社のため、チームのため、そして……君たち自身のために」
氷室は、二人の目をまっすぐに見た。
「恋愛ゲーム市場は、今、最も熱い。スマホゲームの台頭で、ライトユーザーも大量に参入してる。ここで、本当に心を動かす恋愛ゲームを出せれば、会社は救われる。いや、業界全体に衝撃を与えられる」
氷室の声に、確信が宿っていた。
「君たちなら、できる。僕は信じてる。穂積さんの完璧主義と、九条くんの緻密な設計。この二つが組み合わされば、誰も見たことのない恋愛ゲームが生まれる」
重い沈黙。
柑奈と九条は、互いの顔を見合わせた。
「……やります」
九条が、先に答えた。いつもの冷静さを保ちながらも、その声には覚悟が滲んでいた。
「私も……やります」
柑奈も、覚悟を決めて頷いた。感情は理解できない。恋愛も理解できない。でも、この会社を救うためなら、やるしかない。
氷室は、満足げに笑った。
「よろしい! じゃあ、明日から本格的に始動しよう。企画会議は明日の10時。それまでに、恋愛ゲームについて、自分なりに考えてきてね。市場調査も、競合分析も、全部やっておいて」
「分かりました」
二人は、社長室を出た。
廊下で、柑奈が九条に問う。
「……あなた、恋愛ゲーム、作れると思う?」
「分かりません」
九条は、珍しく弱気な声で答えた。
「でも、やるしかない。会社が……みんなが、かかってる」
柑奈は、九条の横顔を見た。
いつもは完璧主義で、融通が利かないと思っていた男が、初めて「不安」を見せた。きちんと整えられた黒髪、真面目な表情、少し震えている拳。
(――この人も、完璧じゃないんだ)
柑奈の中で、何かが少しだけ、動いた。
「でも、恋愛って……何なんでしょうね」
九条が、ぽつりと呟いた。
「さあ。私には分からない。感情は、バグだから」
「僕にも分からない。シナリオに書かれていないから」
二人は、少しだけ笑った。似たもの同士だと、初めて認識した瞬間だった。
「とりあえず、市場調査から始めましょう。恋愛ゲームの既存作品を全部プレイして、分析する」
「そうですね。データを集めれば、何か見えてくるかもしれない」
二人は、それぞれのデスクに戻った。
柑奈は、恋愛ゲームのタイトルリストをPCで開いた。画面には、数百本のゲームが並んでいる。
(――恋愛を、データ化できるのか? 感情を、アルゴリズムにできるのか?)
不安と、少しだけの期待が、胸に混在していた。
九条は、企画書の白紙を開いた。カーソルが、空虚に点滅している。
(――どんなシナリオを書けば、人は恋に落ちるのか? どんな選択肢を用意すれば、心が動くのか?)
答えは、まだ見えない。
しかし、二人の運命の歯車は、確かに回り始めていた。
そしてその歯車が、二人自身を巻き込んでいくことに、まだ気づいていなかった。
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