『俺達のグレートなキャンプ168 伝説の漆塗り職人を満足させる味噌汁を作るか(?)』
海山純平
第168話 伝説の漆塗り職人を満足させる味噌汁を作るか(?)
俺達のグレートなキャンプ168 伝説の漆塗り職人を満足させる味噌汁を作るか(?)
「――というわけで!今回のグレートなキャンプは!」
石川の声が、秋の山間のキャンプ場に高らかに響き渡る。両手を大きく広げ、まるでステージに立つ役者のように胸を張る。夕暮れの斜光が彼の背後から差し込み、シルエットをやけに壮大に見せている。
「伝説の漆塗り職人を満足させる味噌汁作りだぁぁぁぁっ!」
「おおおおおっ!」
千葉が即座に拳を突き上げて応える。目をキラキラと輝かせ、まるで宝の地図を見つけた冒険者のような表情。新品のアウトドアチェアから勢いよく立ち上がり、その反動でチェアが後ろにガタンと倒れる。まったく気にしていない。
「はぁ?」
対照的に、富山の声は地を這うように低く、重い。焚き火の薪をくべていた手が完全に止まり、トングを持ったまま硬直している。眉間に深い皺が刻まれ、口元はわずかに引きつっている。「また始まった」という諦めと「今回は何だ」という不安が入り混じった、実に複雑な表情。
「石川、あのね」富山が深呼吸をしてから、できるだけ冷静に言葉を紡ぐ。「まず聞くけど、その『伝説の漆塗り職人』って誰。どこにいるの。そもそも、なんで味噌汁なの」
「ふふふ」石川がニヤリと笑う。ポケットから一枚の雑誌の切り抜きを取り出し、パッと掲げる。「見よ!この記事を!」
千葉が「おおっ!」と身を乗り出す。富山は渋々、しかし気になるので近づく。
雑誌の切り抜きには、険しい顔つきの初老の男性の写真。見出しには『石川県の伝統工芸を守る最後の職人・桐生重蔵氏に聞く』とある。
「この桐生さんがさ」石川が興奮気味に説明を始める。「記事の最後のほうでね、『若い頃、修行時代に食べた味噌汁の味が忘れられない。あの味をもう一度味わいたい』って言ってるんだよ!」
「うんうん!」千葉が膝を叩く。「それで俺たちがその味噌汁を再現するってこと!?グレートじゃん!超グレート!」
「待って待って待って」富山が両手を前に出して制止する。額に手を当て、深く、実に深くため息をつく。「まず、その桐生さんって人、ここにいるの?」
「いる!」
「え」
「このキャンプ場の管理棟の隣に工房があるんだよ!偶然なんだけど、桐生さん、ここのキャンプ場のオーナーの親戚でさ、最近移住してきたらしくて!」
石川が勢いよく指差す先には、確かに小さな木造の建物。看板には「桐生工房」の文字。
「なんで知ってるの」富山の声が更に低くなる。
「受付で聞いた!『あの、雑誌に載ってた桐生さんって』って!そしたら『ああ、あの偏屈な親戚か』って!」
「偏屈って言われてるじゃん!」
「だからこそ!」石川が人差し指を天に突き立てる。「挑戦しがいがあるってもんだろう!伝説の職人を満足させる味噌汁!考えただけでワクワクしない!?」
「する!」千葉が即答。「めっちゃする!俺、味噌汁作るの得意だし!」
「お前、インスタントしか作ったことないでしょ」富山がジト目で見る。
「インスタントも味噌汁だ!」
「そういう問題じゃなくて」富山が頭を抱える。「というか、いきなり押しかけて『あなたが忘れられない味噌汁作ります』って、迷惑じゃない?普通に考えて」
「大丈夫!もう話は通してある!」
「はやっ!」
「受付の人が『面白そうだから伝えてみる』って言ってくれて、さっき返事が来た!『好きにしろ。ただし不味かったら二度と顔を見せるな』だって!」
「怖いわ!」富山が叫ぶ。「普通に怖いわその返事!」
「でもOKってことだろ!?」千葉が嬉しそうに手を叩く。「よっし、じゃあ早速材料買いに行こう!」
「待て待て」石川が手を上げる。「そう簡単じゃない。まず、記事をよく読むんだ」
三人が切り抜きを覗き込む。
『修行時代、師匠の家で食べた朝の味噌汁。あれは何だったのか。具は何だったのか。もう思い出せない。ただ、朝日が差し込む古い台所で、漆の匂いと混じり合うあの香り。椀を持つ手の温もり。飲み干した後の、なんとも言えない満足感。あれを超える味噌汁に、もう出会えないのだろう』
「――深い」千葉が感動したように呟く。「これは、ただの味噌汁じゃない」
「そう!」石川が勢いよく頷く。「記憶の味噌汁だ!味だけじゃなく、あの時の雰囲気、感覚、全部を再現しなきゃいけない!」
「無理でしょそれ」富山が即座にツッコむ。「本人も具を覚えてないのに」
「だからこそ!」石川の目が爛々と輝く。「推理するんだ!この記事から!桐生さんの人生から!漆塗り職人の修行とは何か、そこから逆算して、あの時の味噌汁を!」
「おおお」千葉が感心したように唸る。「探偵みたいだ」
「探偵じゃなくて推測でしょ。当てずっぽうとも言う」
「富山、お前、ネガティブだぞ」石川が肩を叩く。「キャンプってのは冒険だろ?未知への挑戦だろ?」
「普通のキャンプは自然を楽しむものなんだけど」
「俺たちのキャンプは奇抜でグレートなんだ!」
「どんなキャンプも一緒にやれば楽しくなる!」千葉が続ける。
富山が大きく、実に大きくため息をつく。しかしその目には、すでに諦めの色。そして、わずかな――ほんのわずかな――興味の光。
「――で、どうすんの」
「よっし!」石川が膝を叩く。「まず情報収集だ!キャンプ場の人に聞き込み!桐生さんの好みを探る!」
かくして、三人は管理棟へと向かう。石川が先頭を歩き、千葉がその後ろをスキップするように、富山が最後尾を重い足取りで。夕暮れの空が茜色に染まり始めている。
管理棟の受付には、四十代くらいの気さくそうな男性――管理人の田中さんが座っていた。三人が入ってくると、「ああ、味噌汁の人たち」と笑顔で迎える。
「田中さん!」石川が勢いよくカウンターに手をつく。「桐生さんについて、何か知ってること教えてください!好きな食べ物とか!嫌いなものとか!」
「ん~」田中さんが顎に手を当てて考える。「あの人、基本的に質素な食事が好きなんだよね。昔ながらの和食。派手なのは嫌い」
「和食!」千葉がメモを取り出す。いつの間にか小さなノートを用意している。
「あと、地元の食材にこだわる。『その土地のものを食べてこそ、その土地を理解できる』って言ってた」
「深い」石川が感心する。「さすが職人」
「でもね」田中さんが声を潜める。「めちゃくちゃ舌が肥えてるんだ。ちょっとでも手を抜くと分かる。この前、インスタントの出汁使ったら『これは偽物だ』って一口で見抜かれた」
「ひええ」千葉が青ざめる。「本物の出汁って、どうやって取るの?」
「昆布と鰹節でしょ」富山が当たり前のように言う。「煮干しとか」
「できる!?」
「できるけど」富山が不安そうに石川を見る。「時間かかるよ?あと、配合とか難しいし」
「やるしかない!」石川が拳を握る。「伝説の職人に出すんだ、本気でいくぞ!」
「あ、そうだ」田中さんが思い出したように言う。「桐生さん、昔、石川県の山奥で修行してたんだって。能登のほうかな。だから、能登の食材とか懐かしいんじゃないかな」
「能登!」石川の目が輝く。「能登の食材!具材は能登で探すぞ!」
「今から!?」富山が時計を見る。「もう五時過ぎてるけど」
「車で三十分のところに道の駅がある!能登の食材も置いてるはず!」
「三十分!?往復一時間じゃん!」
「行くぞ!」
石川が駆け出す。千葉が「おー!」と続く。富山が「ちょっと待ってよ!」と追いかける。
田中さんが苦笑いしながら手を振る。「頑張ってね~。まあ、桐生さん、根は悪い人じゃないから」
車に飛び乗り、エンジンをかける。石川が運転席、助手席に富山、後部座席に千葉。
「よっし!レッツゴー!」
「シートベルト」富山が冷静に指摘する。
「おう」
全員がシートベルトを締め、車が発進する。夕暮れの山道を、ヘッドライトが照らす。
「でさ」富山が話しかける。「具体的に何を買うの?」
「う~ん」石川が考え込む。「能登の名産って何だ?」
「海産物じゃない?」千葉が後ろから言う。「能登って海のイメージ」
「味噌汁に海産物!」石川が膝を叩く。「ありだな!」
「でも何を」富山がスマホで検索する。「能登、名産、海産物――ああ、いっぱい出てくる。岩ガキ、サザエ、イカ、鰤――」
「全部!」
「全部は無理」富山が即座に却下する。「予算は?あと、味噌汁に合うかどうかも考えて」
「じゃあ――」石川が真剣な顔で前を見据える。「現地で直感で選ぶ!」
「直感!?」
「職人は直感を大事にするって聞いた!俺たちも職人の心になるんだ!」
「料理人じゃないけどね」富山がため息をつく。
道の駅に到着したのは、日がすっかり暮れた後だった。駐車場にはまだ数台の車。幸い、店はまだ開いている。
三人が店内に飛び込む。地元の野菜、加工品、そして鮮魚コーナー。
「おおっ」千葉が目を輝かせる。「すごい、こんなに色々」
石川が鮮魚コーナーに向かう。パックに入った魚介類が並んでいる。「どれだ、どれが運命の具材だ」
「運命って」富山が隣に並ぶ。「とりあえず、定番から考えようよ。味噌汁の具って、豆腐とか、わかめとか、ネギとか――」
「定番じゃダメだ!」石川が振り返る。「記憶に残る味噌汁だぞ!特別な何かがないと!」
「でも基本も大事だよ」富山が冷静に言う。「奇抜にすればいいってもんじゃない」
「う~ん」石川が唸る。
その時、千葉が「あっ」と声を上げる。「これ!」
二人が駆け寄る。千葉が指差したのは――
「岩もずく!」
パックに入った、黒々とした海藻。「能登産天然岩もずく」とラベルに書いてある。
「もずく!」石川が手に取る。「これだ!これは運命の予感!」
「もずくって味噌汁に入れる?」富山が首を傾げる。
「入れるよ!」店員のおばさんが声をかけてくる。「能登じゃ定番だよ。岩もずくは歯ごたえがいいんだ。お味噌汁に入れると美味しいよ」
「おお!」三人が同時に声を上げる。
「これください!」石川が即決する。
「あとは――」富山が周りを見回す。「豆腐と、ネギと――あ、この地元のネギ、太くて美味しそう」
「ネギも買おう!」千葉がカゴに入れる。
「豆腐は」石川が豆腐コーナーに向かう。「おっ、こっちにも地元の豆腐がある。『能登大豆使用』って」
「それにしよう!」
次々とカゴに商品が入っていく。
「あと、出汁!」富山が乾物コーナーに向かう。「昆布と鰹節――あ、能登産の昆布ある」
「完璧じゃん!」石川が興奮する。
「味噌は?」千葉が尋ねる。
「味噌も地元の!」富山が味噌コーナーから、「能登みそ」と書かれたパックを取る。「これ、無添加だって」
「よっし!」石川が拳を握る。「完璧な布陣だ!」
会計を済ませ、三人は意気揚々と車に戻る。袋を抱えた千葉が「早く作りたい!」と跳ねる。
「でも今日はもう遅いから」富山が時計を見る。「明日の朝にしようよ。朝の味噌汁って記事にも書いてあったし」
「確かに!」石川が頷く。「朝日が差し込む、って書いてあったな」
「じゃあ明日だ!」千葉が拳を突き上げる。
キャンプ場に戻り、三人はそれぞれのテントに入る。富山が「ちゃんと寝てね、明日が本番だから」と釘を刺す。石川と千葉が「おう!」と返事をする。
しかし――
石川のテントからは、深夜になってもヘッドライトの光が漏れている。中では、スマホで「出汁の取り方」「味噌汁の極意」「料理人の心得」などを検索している石川の姿。
千葉のテントからも物音。「ぶつぶつ」と何かを呟いている。「豆腐は、えっと、火を通しすぎると、す が入るんだっけ?もずくは、どのタイミングで?」練習している様子。
富山のテントは静か。しかしよく聞くと、深いため息が時折漏れている。
そして夜が明けた。
朝五時。まだ薄暗い中、石川が飛び起きる。
「よっし!」
テントから出ると、なんと千葉もすでに起きている。焚き火を準備している。
「早いな!」
「眠れなかった!」千葉が笑顔で言う。「ワクワクして!」
「俺も!」
二人が笑い合う。
富山のテントのファスナーが開き、寝癖のついた頭で富山が出てくる。「――何時だと思ってるの」
「朝だ!」
「まだ五時」
「朝日が昇る前に準備だ!」石川が張り切る。「富山、出汁の取り方、教えてくれ!」
「はいはい」富山が諦めたようにため息をつき、クッカーを取り出す。「まず水を沸かして、昆布を入れるの。沸騰する直前に取り出す。それから鰹節を入れて、一煮立ちさせたら火を止めて濾す」
「おおお、難しそう」千葉が真剣な顔で聞く。
「慣れれば簡単」富山が手際よく準備を始める。「あんたたち、もずく洗っといて。あと豆腐切って」
「了解!」
石川と千葉が作業を始める。石川がもずくをボウルで丁寧に洗い、千葉が豆腐を――
「ちょっと待って」富山が止める。「その切り方、大きすぎ」
「えっ」
「一口大にして。食べやすいように」
「お、おう」
千葉が慎重に切り直す。
富山が出汁を取っている。昆布を入れた水が、ゆっくりと温まっていく。湯気が立ち上り、かすかに昆布の香りが広がる。
「いい匂い」石川が鼻をヒクヒクさせる。
「まだ鰹節入れてないのに」富山が苦笑い。
沸騰する直前、富山が昆布を取り出す。そして鰹節を投入。ふわっと広がる鰹の香り。
「おおお」千葉が感動する。「すごい、インスタントと全然違う」
「当たり前でしょ」
一煮立ちさせ、火を止める。ペーパータオルで濾す。透明な、しかし深い琥珀色の出汁が濾されていく。
「美しい」石川が呟く。「これが本物の出汁か」
「さて」富山が出汁を再び火にかける。「味噌を溶くよ。石川、味噌持ってきて」
石川が昨日買った能登みそを渡す。富山が慎重に、少しずつ溶いていく。
「味見する?」
「する!」
三人が順番に味見をする。
「――うまい」石川が目を見開く。
「うまい」千葉も頷く。
「まあまあかな」富山が謙遜する。しかしその表情には、わずかな自信。
「じゃあ具を入れるぞ!」石川が豆腐を入れる。続いて千葉がもずく、そしてネギ。
鍋の中で、具材が踊る。もずくの黒、豆腐の白、ネギの緑。色彩のコントラスト。
「一煮立ちさせて、はい、完成」富山が火を止める。
その瞬間――
朝日が山の端から顔を出す。
オレンジ色の光が、キャンプサイトを、そして味噌汁を照らす。
「――完璧なタイミング」千葉が息を呑む。
「まるで演出されてるみたいだな」石川が笑う。
富山が味噌汁を三つの椀に注ぐ。湯気が立ち上り、朝日に照らされて黄金色に輝く。
「よっし」石川が深呼吸する。「持っていこう」
三人が、味噌汁を持って桐生工房へ向かう。朝の空気が冷たく、頬を撫でる。足音だけが響く。
工房の前に立つ。明かりが灯っている。中から、コンコンと何かを磨く音。規則正しく、職人の息遣いを感じさせる音。
石川がドアをノックする。コンコン、と二回。
「――何だ」
低い、しわがれた声。ドアがギィィと音を立てて開き、桐生さんが顔を出す。険しい顔、鋭い目。切れ長の一重まぶた。白髪交じりの短髪。皺だらけの手。写真で見たよりも実物のほうが遥かに迫力がある。まるで時代劇に出てくる頑固な師匠のよう。
「あ、あの」石川が一瞬怯む。喉がゴクリと鳴る。額に汗が浮かぶ。しかしすぐに胸を張り直し、両手で椀を掲げる。「味噌汁、作ってきました!」
「――ほう」
桐生さんが三人を見る。じっと、値踏みするように。上から下まで舐めるような視線。石川の手元、千葉の表情、富山の姿勢。全てをチェックしている。
五秒。
十秒。
沈黙が続く。
千葉の足が、ガクガクと小刻みに震えている。富山が唇を噛んでいる。石川の手が、わずかに汗ばんでいる。
「入れ」
短く言って、桐生さんが工房の中に入っていく。背中で語る男。
三人が顔を見合わせる。千葉が「こ、怖い」と小声で言う。富山が「今更でしょ」とため息。石川が「行くぞ」と小さく拳を握る。
恐る恐る中へ。
工房の中は、漆の匂いが充満している。独特の、ツンとする、しかしどこか甘い香り。木の匂い、塗料の匂い、そして長年染み込んだ職人の汗の匂い。棚には様々な漆器が並び――朱色、黒色、金色の蒔絵が施されたもの。大きな椀、小さな椀、皿、盆。作業台には筆や道具が丁寧に並べられている。それぞれの道具が、使い込まれて艶を帯びている。壁には古い写真。若き日の桐生さんと、恐らく師匠であろう老人の写真。
「そこに置け」
桐生さんが作業台の椅子にドスンと座る。腕を組む。顎をしゃくる。
石川が、朝日が差し込む窓際のテーブルに椀を置く。カタン、と小さな音。湯気が立ち上り、朝日を受けて金色に輝く。幻想的な光景。まるで映画のワンシーンのよう。もずくの黒、豆腐の白、ネギの緑、ほうれん草の深緑、人参の橙。色彩のコントラストが美しい。
桐生さんが立ち上がる。ゆっくりと、しかし威圧感のある足取り。作業靴が床を踏む音。ドス、ドス、ドス。
三人が息を呑む。
桐生さんが椀の前に立つ。じっと見つめる。
十秒。
二十秒。
何も言わない。ただ見ている。
千葉の額から汗が一筋、頬を伝って落ちる。ポタリ。
富山が拳を握り締めている。爪が掌に食い込んでいる。
石川が唾を飲み込む。ゴクリ。
「――昆布と鰹の出汁か」
「はっ、はい!」富山が緊張した声で答える。声が裏返りそうになるのを必死で抑える。
「能登の食材を使った」
「はい!」石川が続ける。
「具は――もずく、豆腐、ネギ、ほうれん草、人参」
「そうです!」千葉が大きく頷く。頷きすぎて首が痛くなりそうなほど。
桐生さんが椀を持ち上げる。両手で、丁寧に。器の重さを確かめるように。少し傾けて、中身を覗き込む。光に透かす。
そして、鼻を近づけ、香りを嗅ぐ。
目を閉じる。
深く、深く、息を吸う。
長い沈黙。
三人の心臓が、バクバクバクバクと音を立てる。まるで太鼓のよう。自分の心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うほど。
桐生さんが目を開ける。
椀を口元に持っていく。
わずかに唇をつける。
チュルッ、と小さな音。
一口啜る。
口の中で転がす。舌の上で、味を確かめる。
ゴクン、と飲み込む。
沈黙。
三人が固唾を呑んで見守る。千葉が思わず一歩前に出る。富山が手で制止する。石川が拳を握り締める。
桐生さんが、もう一口啜る。
また沈黙。
そして、三口目。
椀を置く。
カタン。
静かな音が、やけに大きく響く。
桐生さんが三人を見る。
「――まあまあだ」
「ええっ!」三人が同時に声を上げる。
「まあまあって!」石川が叫ぶ。
「合格ってことですか!?」千葉が詰め寄る。
「不合格ってことですか!?」富山が怯えた声で尋ねる。
桐生さんが顎に手を当てる。う~ん、と唸る。数秒間、何も言わない。
三人が息を止める。
「――準々合格だ」
「準々!?」
「どっちなんですか!」石川がツッコむ。
「合格でもなく、不合格でもない。準々だ」桐生さんが腕を組む。「味は悪くない。丁寧に作っているのは分かる。出汁もちゃんと取っている。食材の選び方も考えている」
「じゃ、じゃあ!」千葉が期待の目。
「だが」桐生さんが続ける。「何かが足りん」
「何が――」石川が尋ねる。
桐生さんが椀を見る。じっと。
「これは」桐生さんがゆっくりと言葉を紡ぐ。「『美味い味噌汁を作ろう』という心で作られた味噌汁だ。『伝説の職人を満足させよう』という気合も感じる。技術もある。だが――」
三人が身を乗り出す。
「『誰かのために』という心が、見えん」
「――」
「俺が忘れられないあの味噌汁は」桐生さんが窓の外を見る。遠い目。まるで何十年も前の光景を思い出しているような。「師匠が、弟子の俺のために作ってくれた味噌汁だ。朝早く起きて、一日の仕事が始まる前に、『お前が今日も頑張れるように』『お前の体が元気でいられるように』という心を込めて作ってくれた」
桐生さんの声が、わずかに震える。
「あの味噌汁には、師匠の優しさが入っていた。厳しい修行の中で、唯一感じられた温もりだった。だから忘れられん」
三人が、黙って聞く。
「お前たちの味噌汁には」桐生さんが三人を見る。「『職人を満足させよう』という心はある。『美味いものを作ろう』という心もある。だが、『お前のために』という心が――薄い」
石川が、ハッとする。目を見開く。
「つまり――」千葉が呟く。声が掠れている。「俺たち、自己満足だった?」
桐生さんが、少し表情を和らげる。ほんの少し。口角がわずかに上がる。
「自覚があるなら、まだいい」桐生さんが立ち上がる。「もう一度作ってみろ。今度は、『誰かのために』を考えて」
「――はい!」三人が深々と頭を下げる。九十度。背筋を伸ばして。
「ただし」桐生さんが続ける。「一つだけ、お前たちに見せてやりたいものがある」
「え?」
桐生さんが奥の棚に向かう。鍵のかかった戸棚。ジャラジャラと鍵束を取り出し、一つの鍵を選ぶ。カチャリ、と音を立てて開ける。
中から、布に包まれた箱を取り出す。
慎重に、まるで赤ん坊を抱くように。
テーブルに置く。
布を解く。
現れたのは――
「――っ!」
三人が息を呑む。
漆椀。
しかし、今まで見たどの椀とも違う。
深い、深い朱色。まるで夕焼けのような、しかし夜の闇も含んだような、複雑な色。表面は鏡のように滑らか。光を反射し、しかし同時に光を吸い込んでいるような、不思議な艶。縁には金の蒔絵。流れるような文様。見れば見るほど吸い込まれそうな、圧倒的な存在感。
「これは――」富山が震える声で言う。
「俺の、最高傑作だ」桐生さんが椀を見つめる。その目に、誇りと、そして寂しさが混じっている。「師匠が亡くなった後、その思い出を形にしようと、三年かけて作った」
「三年――」石川が呟く。
「下地だけで一年。塗りで一年。蒔絵で一年」桐生さんが椀を撫でる。愛おしそうに。「この椀で飲む味噌汁は――格別だ」
桐生さんが立ち上がる。
「待ってろ」
奥に消える。
数分後、戻ってくる。手には、湯気の立つ鍋。
「俺の味噌汁を、お前たちに飲ませてやる」
「ええっ!」三人が驚く。
「餞別だ。お前たちの頑張りへの」
桐生さんが、あの最高傑作の椀に、丁寧に味噌汁を注ぐ。
朝日が差し込む。
椀が、光を受けて輝く。
まるで、神々しいまでの光景。
「――飲め」
桐生さんが石川に椀を差し出す。
石川が、震える手で受け取る。重い。ずっしりとした重み。しかし持ちやすい。手に馴染む。不思議な感覚。
椀を口元に持っていく。
香りが鼻を突く。
ああ、と小さく声が漏れる。
一口、啜る。
「――――っ!!!」
石川の目が、見開かれる。カッと。
瞳孔が開く。
体が、ビクンと跳ねる。
「うまっ、うま、うまうまうまうまうまっ!!!」
石川が叫ぶ。大声で。工房中に響き渡る声。
「何これ!何これ!!味噌汁!?これが味噌汁!?!?」
椀を掲げる。両手で、高々と。まるでトロフィーのように。
「味が、味が、口の中で踊ってる!いや、跳ねてる!いや、暴れてる!!出汁の旨味が、舌の上で爆発して、味噌のコクが喉を通って、具材の食感が歯を喜ばせて、全部が、全部が調和してる!!」
石川の顔が恍惚の表情。目がトロンとしている。頬が紅潮している。
「そして、そして!」石川が椀を見る。「この椀!この椀の滑らかさ!唇に当たる感触が、シルクみたい!いや、シルクよりも!雲よりも!天国よりも!!口当たりが最高で、味噌汁が、まるで、まるで――」
「まるで?」千葉が身を乗り出す。
「まるで液体の宝石!!」
「意味わかんない!」富山がツッコむ。
「飲め!お前らも飲め!!」石川が椀を千葉に渡す。
千葉が受け取り、恐る恐る一口。
「――――あああああああっ!!!!」
千葉が絶叫する。天を仰ぐ。両手を広げる。まるで昇天するかのような姿勢。
「これは!これは味噌汁じゃない!神の雫だ!!いや、仏の慈悲だ!!いや、宇宙の真理だ!!」
「落ち着いて!」富山がツッコむ。
「落ち着けるか!!」千葉が富山の肩を掴んで揺さぶる。ガクガクと。「これに比べたら、俺たちの味噌汁は!俺たちの味噌汁は!!」
「は?」
「泥水だ!!ただの泥水だ!!いや、泥水に失礼なレベルの何かだ!!」
「自分たちで作ったんだけど!」富山が叫ぶ。
千葉が富山に椀を押し付ける。「飲め!飲んで分かれ!世界が変わるぞ!」
富山が半ば無理やり椀を受け取る。チラリと桐生さんを見る。桐生さんが無表情で頷く。
富山が、慎重に一口啜る。
「――」
富山が固まる。
完全に、動きを止める。
「富山?」石川が心配そうに覗き込む。
「――やば」富山がポツリと呟く。
「やば?」
「やばい」富山の目が潤み始める。「これ、やばい。本当にやばい」
「泣くほど!?」千葉が驚く。
「だって!」富山が声を震わせる。「こんな味噌汁、飲んだことない!出汁の深み、味噌の豊かさ、具材の調和、全部が完璧で、そして何より!」
富山が椀を見つめる。
「この椀!この椀の素晴らしさ!手に持った瞬間から伝わる温もり、唇に触れる滑らかさ、味噌汁を一層美味しくする魔法の器!」
富山が椀を胸に抱く。
「もう、もう普通の椀じゃ味噌汁飲めない!!」
「それは困る!」石川がツッコむ。
三人が桐生さんを見る。キラキラと目を輝かせて。
「桐生さん!」石川が叫ぶ。「これです!これが答えです!」
「お椀が一級品だと!」千葉が続ける。「味噌汁の味はこうも変わるんですね!!」
「器の力!」富山が拳を握る。「こんなに料理を変えるなんて!」
三人が興奮している。
石川が突然、椀を掲げる。高々と。
「漆!」
「漆!」千葉が続ける。
「漆!」富山も続ける。
「漆!漆!漆!」
三人が円を描くように回り始める。椀を掲げたまま。まるで宗教の舞のように。ぐるぐると。
「漆は素晴らしい!」
「漆は神秘!」
「漆は芸術!」
「漆!漆!漆!」
足を踏み鳴らし、体を揺らし、椀を掲げる。完全にトランス状態。目がうつろ。口角が上がりっぱなし。
桐生さんが、呆れたような、しかし少し笑っているような複雑な表情で見ている。
「――お前ら、落ち着け」
「落ち着けません!」三人が同時に答える。
「これほどの衝撃!」石川が叫ぶ。
「これほどの感動!」千葉が続ける。
「もう普通の器には戻れない!」富山が泣きそうな顔。
「漆!漆!漆!」
また回り始める。
ぐるぐると。
速度が上がる。
「漆漆漆漆漆!!」
もはや呪文のよう。
桐生さんがため息をつく。「――やれやれ」
しかし、その顔は――
わずかに、本当にわずかに――
笑っている。
こうして、今回のキャンプも変な絵面で幕を閉じる。
完
『俺達のグレートなキャンプ168 伝説の漆塗り職人を満足させる味噌汁を作るか(?)』 海山純平 @umiyama117
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